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「居場所」について。

2011-08-20 17:14:12 | 自分の思想をめぐる冒険
先日、僕が大学で関わっている団体の学習会に参加してきました。


団体について簡単に説明すると、阪神大震災の時に組織されたボランティア団体が、形を変えて神戸に根をはりながら、災害の救援活動行ったり、復興住宅に住んでおられる方に対してお茶会開いたり、学校に行けなかった人たちが文字を勉強されている別の団体と関わったりしている、そんな団体です。


普段行っていることが多岐に渡るため、分野もとても広い(災害、まち作り、貧困、不登校、在日問題…)わけですが、

それらについて、勉強をする機会があったわけです。


僕は実家帰りに参加したので、少し遅れての参加だったのですが、その時に取り扱っていたテーマは、「不登校・ひきこもり」でそた。

題材に用いた本は『迷子の時代を生き抜くために~不登校・ひきこもりから見えてくる地平』(山下耕平)というもので、


内容としては、単に不登校・ひきこもり、というわけではなく、日本の社会制度などについても言及されていました。


書いてある内容をまとめると、(箇条書き)
・不登校と社会性
・日本に「社会」はなく、「世間」しかない
・「世間」にいると安心感があるが、それから外れると大きな問題が生じる
・かつて日本では、「男性=会社」「女性=家庭」「子供=学校」という「社会(=世間)」に身を置いてきた
・それらの場所が、各人にとっての「居場所」であり、子供の場合、そこ(学校)からあぶれることによって「不登校・ひきこもり」になる


などなど。

で、こういう例示・言及は最近、僕が考えていたこととほとんど同じだったので、驚きました。


僕が思っていたのは、

「日本は集団主義的な部分と個人主義的な部分があって、会社に属しているということで将来が保障される一方で、そこからあぶれてしまうと、集団(組織)は守ってもらえずに、社会保障など含めて、「自分の力でなんとかしなさい」という、個人に全て責任を回されてしまう(国が機能していない)」


というものでした。

だから、大学卒業してから就職していない(できていない)人をマスコミはネガティブな目線からしか描かないし、大学だって、会社や大学院という、「ハコモノ」に所属させるサポートを全力で行う。


でも、そういう風に「どこかに所属しているから安心」っていうのは、なんか違うんだよな―、と思っていたときに、ちょうど前述の本を読んだわけです。


なるほど、「居場所」か…。


この概念ですね。


ただ、厳密に言うと、個人が「居場所にいる」から安心、というわけではなく、社会が「居場所にいさせる」から安心なのか、という気がするんですけれども。


というのも、不登校や引きこもりに関しては、そのような「意図的に作られた場所に居づらいから、あぶれ」た結果、そうなるんですよね(僕はなったことないので、あくまで想像なのですが)。


なんというか、日本にはまず「集団」があって、その次に個人という存在が出てくるのか、と。


「会社に入る」なんていう表現も、そうですよね。

もっと、個人が前面に出てきて、いいと思うんですが。



だから、学校という場も、同じように「集団主義」であり、その中で適合できない人が、不登校などになってしまう。


日本社会は、まだまだ「集団」の力が強い。




で、本題はここからなのですが、


一方で僕は、これからは日本も「個」の時代になっていくと思うんですよ。


それはTwitterやFacebookなど、いわゆる「ソーシャルネットワークサービス」の力が大きく影響する、と考えています。


先に結論を言ってしまうと、「居場所なんか必要ない」というのが、僕のそれです。

ちょっと、今からバイトなので(苦笑)、ひとまず今回はここで筆を置きます。


そして帰宅後、改めてソーシャルメディアを、「個と集団」という概念と照らし合わせながら、僕の意見を書こうと思います。

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