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怒りのブログ

社会批判を深める

心に「教育基本法」を

2006-12-20 00:59:04 | 教育問題
大江健三郎さんがすてきな文章を書いている。朝日新聞12/19付けでエッセイ「定義集」の「心に『教育基本法』を 後知恵の少しでも有効な使い方」という表題。
高校時代の「殴られても屈服していない態度を示」していた経験などを語り、結末部分に教育基本法成立について書いている。
 衆議院の、政府与党の単独採決に続けて、参議院での、政府に傷の少ない着地が画策されるなか、この文章を書いて来た者の、なお性格に残る後知恵を出します。私は、ついに失われてしまった教育基本法の小冊子を作って、新しく教師になる人、若い母親、父親が、胸ポケットに入れておく、そのようにして、それを記憶し、それを頼りにすることを、提案します。
 まさに「作品」と呼ぶに値する文体をそなえた教育基本法には、大きい戦争を経て、誰もが犠牲を払い、貧困を共有して、先の見通しは難しい窮境にいながら、近い未来への期待を子供らに語りかける声が聞こえます。
 あの「作品」を積極的に受け止めた日本人には、その文体につながる「気風」があったのです。それを忘れずにいましょう。
 そして幼児とともに、目に見える・見えない抵抗に出会う時、若い母親が開いてみる本にしましょう。

まさに冒頭から現教育基本法は格調高い文章だった。
われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。

それを、「改正」教育基本法は換骨奪胎してしまった。しかし、その日本国憲法との一体性ゆえに、その精神は憲法のなかに残っている。それが大江氏が言うように、失われてしまっても心の中に持ちうる、現実的な根拠ともなるだろう。



政府、社会の批判者としての役割を放棄する読売新聞社説

2006-12-18 00:27:56 | 教育問題
教育基本法「改正」案が成立した。私自身はこの間この法案に反対する記事を多く書いてきた。
教育基本法成立に関する中央紙社説を見ていると、読売新聞社説の無批判さ、政府の言い分鵜呑みぶりが際だっている。
見直しの必要性を説く声は制定の直後からあった。そのたびに左派勢力の「教育勅語、軍国主義の復活だ」といった中傷にさらされ、議論すらタブー視される不幸な時代が長く続いた。
などと軍国主義復活を懸念する世論を一部の勢力の言い分のように言い切り、改訂論議のなかで高まった愛国心に関する議論についても、
条文に愛国心を盛り込むことに、左派勢力は「愛国心の強制につながり、戦争をする国を支える日本人をつくる」などと反対してきた。
とここでも戦前回帰を心配する世論を一部の勢力のみの特殊な考えかのように装っている。今回の基本法改定にたいして公立小中学校の校長の66%が反対しているという調査もあることをどう考えているのか。
平和国家を築き上げた今の日本で、自分たちが住む国を愛し、大切に思う気持ちが、どうして他国と戦争するというゆがんだ発想になるのだろう。
というが、政府自民党がアメリカに促されてひたすら「防衛力」を整備し、それをまさに今海外進出させようとしているのは確かなことであり、その政府が"愛国心"教育を強行採決するときに、海外で日本が戦争に関わることを心配することを「ゆがんだ発想」と書く新聞こそが批判者としての役割を放棄しているというべきだ。
また、法案成立後におこるであることについても、
「全国学力テストを実施し、指導要領改善を図る」「いじめ、校内暴力の『5年間で半減』を目指す」「司法教育を充実させ、子どもを自由で公正な社会の責任ある形成者に育てる」――計画に盛り込む政策目標案を、中教審もすでに、いくつか具体的に例示している。
とどんどんすすめよ、というのにはあきれる。
"いじめ5年間半減"目標などは、そうした数値化目標のもとでいじめ自殺が隠蔽されている最近の事件が報道されたばかりでもあったからだ。一斉学力テストについても学校間競争が弊害を生むこと心配する議論があったところだ。
読売新聞は政府よりの言論をいまや代表しているが、その言論の中身としても非常にイデオロギッジュになっており、政府の批判者であることを放棄するばかりでなく、有害な役割を果たしている。

規制改革会議にいじめ対応を言う能力があるのか

2006-12-07 00:58:56 | 教育問題
12/6付け朝日新聞に政府の規制改革・民間開放推進会議がいじめ問題に関連して学校選択制と教員評価制度の導入を急ぐよう文部科学省に求めた、という記事があった。制度の早期導入がいじめ対応に効果があるとみて、緊急に申し入れることにした、という。同会議議長の草刈氏は、
学校選択制を「悲劇の予防的な措置」と位置づけ、学校評価制度についても「きちんと行われていれば、いじめに荷担するような教師は追放されているはずだ」と文科省や教育委員会の対応を非難した。
ということ。
同会議の委員が、最近のいじめによる自殺事件に触れて「(自殺した生徒の保護者が)『学校や教諭を選べるような仕組みをお願いしたい』と言ったらしいが、被害者や家族が「学校選択制」などを望んでいるか、疑問である。現状でも理由があれば学校を変更することは可能であるはずだし、緊急避難的に学校が変更できるということと、制度としての学校選択制とは全く別物だからだ。実際に学校選択制が導入されている東京都などでは、人気校に生徒が殺到し、学校間格差が生まれてきていることが言われているし、早くから導入したイギリスでは人気校周辺の地価があがるなどということも起きたらしい。
また、学校選択制、学校評価制度が導入されれば、学校間の競争が激化し、生徒が来なくなるような「いじめに関する情報」は隠蔽される恐れがでてくる。最近のいじめ自殺のなかでもいじめゼロと報告されていたという事実がこのことを裏付けている。
いじめ対応のために学校選択制、学校評価制度をいうのは、いじめ問題を学校への市場原理導入に利用しようとする議論ではないか。

このことを言っているのが公共的な分野を民間に開放しようとしている規制緩和・民間開放推進会議であることも問題である。そもそも教育に市場原理を導入することが"教育"の見地、"子ども"の見地からどうなのかということがあるし、最近のいじめが、特定の子ども、特定の教師・学校に特有の問題ではなく、子どもにかけられているストレスに原因があるという見方が有力だからだ。
子どもが受けているストレスの一因が子どもの世界に浸透している消費文化であるというは先に紹介した中西新太郎氏の指摘だが、これらの消費文化を浸透させているのがまさに市場なのであり、結果として市場原理が支配的になるような対策は、事態を悪化させることになりかねない。
このような対策しか言えない規制改革・民間開放推進会議にいじめ対策にたいして提言する能力はないと言っておきたい。


「不当な支配、国も可能性」と文科相答弁

2006-11-26 02:24:13 | 教育問題
昨日投稿した記事の内容に関して、伊吹文科相が事実上修正する答弁をしている。
25日付け朝日新聞によれば、
伊吹文部科学相は24日、参院教育基本法特別委員会で、教育基本法改正案の条文にある「(教育は)不当な支配に服することなく」の解釈について「一部の政党を陥れようとか、一部の宗教的な考えを持って、国が教育行政を行うということであれば『不当な支配』になる可能性がある」との見解を示した。

ということ。また、
「内閣が常に正しいことをしているとは限らない」
「しかし、内閣が不当な支配と思わずにやったことで不当な支配と思われることは、見解の相違だから司法の場で争うのが日本の仕組みだ」
とも述べたらしい。
この答弁に関してしんぶん赤旗では、
伊吹文科相は答弁で、「教育行政機関が行う行政でも、右にいう『不当な支配』にあたる場合がありうる」として1976年の旭川学力テスト事件最高裁判決を読み上げました。
と紹介している。
政府や文科相の本音は条文を変えることによって政府のつくる法律などは「不当な支配」にあたらないとしたかったところが、過去の市民のたたかいによって築かれた判例を翻すわけにはいかなかったというところだ。

法律は通ってしまえばおしまいということではない。教育基本法は現時点でも廃案にする可能性はあるが、仮に通ってしまったとしても、国会での議論や個々の教育政策にたいするたたかいによって法律のいい部分を発揮させ、悪い部分を発揮させないということも可能であることを示している。

戦争の反省を反故にする伊吹文科相答弁

2006-11-24 00:03:17 | 教育問題
伊吹文科相が重大な発言をしている。今日の朝日新聞によれば
 伊吹文部科学相は22日の参院教育基本法特別委員会で、政府の教育基本法改正案が、教育は「不当な支配」に服することはないと規定していることについて「国会で決められた法律と違うことを、特定のグループ、団体が行う場合を『不当な支配』と言っている」と語った。一方、法律や政令、大臣告示などは「国民の意思として決められた」ことから、「不当な支配」にあたることはないとの考えを強調した。

ということ。このやりとりについて、内申書制度の廃止を求めますでも紹介されているが、提案者側が堂々と言っているので驚いた。
本ブログでもこの部分の改訂の重大性を書いてきたが、国家神道の廃止、財閥の解体、治安維持法の廃止などとともに戦後改革の重要な一環としての意味をもっている。アジアへの侵略を自存自衛とたたき込み、戦争への批判を一切認めないような教育が、重大な惨禍をまねいたという認識から、現基本法の10条で
教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。
と定めたのである。この「不当な支配」が国の教育への統制のことを含んでいることは明らかだ。ところが社民党の質問への回答では、
国家が教育行政をやることについて不当な介入であるとの解釈をとっていない
と語っている。それなら、現基本法が明らかに含んでいる国の介入の排除をなぜ今回の法案で削除しているのかを説明する義務があるというべきだ。それも説明しないで「不当な支配」という言葉のみのこしながらこっそり内容を変えるのでは説明責任を果たしたとは言えない。まして戦後の一連の改革の重要な一部としての内容を変えようと言うのである。参議院の審議でようやく教育基本法改定案の内容に関する審議がなされてきた。野党には改訂の重大性を余すことなく明らかにしてもらい、改定案に道理がないことを世論にしていきたい。

反教育的「教育基本法改定案衆院可決」

2006-11-17 00:29:18 | 教育問題
教育基本法「改正」案が衆議院で可決された。
なんとも「反教育的」な事態だと思う。
いじめ問題、必修科目の未履修などの問題が噴出し、これらの問題をどう解決したらよいか国民的に議論すべき時である。多くの国民が基本法の拙速な改訂を望んでいない。
今日の朝日新聞のオピニオン欄には3人の識者、教師の緊急提言が掲載されている。教育研究者の大田堯氏は
教育基本法は前文に「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しよう」という憲法の理想を実現するためには、「教育の力にまつべきものである」とうたっている。つまり、基本法は現憲法の「魂」を引き継いでいるのである。
と語っている。
教育社会学者の大内裕和氏は
戦前・戦中の教育の反省から生まれた現行の教育基本法は、個人の価値と平和主義を基本理念とし、国家権力を縛ることを原則にしてきた。改正案はそれを、個人を縛る法へと転換させる危険がある。
とする。また「能力に応じる教育」から「能力に応じた教育」に改訂されることにより、機会均等を放棄し、格差社会を助長する恐れも指摘している。
高校教諭の金子奨氏も改正案は
全体に「あらかじめ存在する枠」で個人を規制しようとする発想が強い
と批判し、
「他者との違いが関心を呼び起こす」という・・働きこそ教室の基本だ
と語っている。
このように憲法とも深いつながりをもち、奥行きのある基本法を、本質的な議論もないまま、タウンミーティングの「やらせ質問」であたかも国民からの要求があるかのように装って与党単独で採択の形に持って行ったのが今回の採択だ。教育基本法を学んでいる高校生などはこの事態をどう見るだろう。
参議院での徹底審議と廃案こそが子どもの教育にたいしても最善のこととなるだろう。

教育基本法「改正」案が通るとどうなるかが透けて見える

2006-11-09 22:48:26 | 教育問題
タウンミーティングでのやらせ質問は他の場所でも行われていたことが明らかになった。
http://www.asahi.com/politics/update/1109/005.html
前回も書いたように、提案者側は教育の現場からの要求として法案の必要性を説明することができないのだ。8日の地方公聴会での高橋哲哉氏の発言をしんぶん赤旗が紹介している。
名古屋会場で高橋哲哉東大教授は、東大基礎学力研究センターの調査で全国の公立小中学校の校長の66%が教基法の改定に反対しているとの結果を紹介し、「教基法の改正案は、教育的理由からではなく、政治的意図から出ている」と改定に反対を表明しました。

そして最近の教育を巡る様々な問題は、教育基本法「改正」案が通ったら教育現場がどうなるかを示しているといえるのではないだろうか。

「君が代強要通達は違憲・違法」の東京地裁判決は今の教育基本法だからこそ出せたものだ。法案は現行第10条「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」を、「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」と変えようとしている。東京都教育委員会からの通達はこの"法律の定めるところにより"として現場に押しつけることが可能になる。

教育現場にはやたらと数値目標が押しつけられ、数値を上げることが至上目標になる。数値を下げる"いじめ"は隠され、(受験に不利な世界史などの教育による)"人格の完成"よりも進学率の向上が優先される。今回の法案では第十七条で、政府は教育振興基本計画を策定することになっており、そのひな形では数値目標が奨励されているのである。

足立区で出され、最近引っ込められた、「学力テストの結果で区立小中学校の予算に差をつける」方針。これも教育基本法「改正」に続く教育改革で政府が導入しようとしている、教育バウチャー制を先取りした動きだ。こんなことをすれば小学校段階から学校間の格差、子どもの学力の格差が広がっていくことは明らかだ。

こんな百害あって一利なしの法案を通してはいけない。
8日の国会周辺でヒューマンチェーンのとりくみがでは6つの市民団体が共同し、国会前に、2300名の市民が集まり、キャンドルを掲げ教育基本法改悪するなと声を合わせたということ。(内申書制度の廃止を求めます)平日の夜に2300人とはすごい。
道理のないことがひろがれば廃案の可能性もある。

教育基本法「やらせ質問」依頼文書

2006-11-06 03:30:48 | 教育問題
内閣府主催の「教育改革タウンミーティング」で教育基本法「改正」案に賛成するよう学校関係者に「やらせ質問」をさせていた問題。11月5日付「しんぶん赤旗」に問題の依頼文書の写真が掲載されていたので書き写しておく(傍線も原文)。
タウンミーティング八戸質問項目案

①現在の教育基本法もすばらしいものだと思いますが、情報化、核家族化、価値観の多様化など、これだけ社会情勢がめまぐるしく変化している中で、やはり、時代に対応すべく、教育の基本となる教育基本法は見直すべきだと思います。まずは、早く教育基本法を改正して、それから、しっかりと腰を据えて教育改革に取り組むべきだと思います。大臣のご説明では、教育基本法を改正した後、教育振興基本計画を策定するする(ママ)ということでありました。子どもたちは日々、成長しています。子どもたちの未来のために、我々大人の責任として、子どもたちに最善の教育が与えられるよう、社会全体で取り組んでいかなければいけないと強く感じています。

②教育基本法の改正案について、「人格の完成」を目指すのはもちろんですが、「公共の精神」や「社会の形成者」など社会の一員としてという視点が重視されていることに強く共感しています。個の尊重が「わがまま勝手」と誤って考えられているのではないかという気がしてなりません。教育基本法の改正を一つのきっかけとして、もう一度教育のあり方を見直し、みんなで支えあって生きていく社会、思いやりのある社会の実現を目指していくべきだと思います。

教育の原点はやはり家庭教育だと思います。残念なことに、親が親になりきれていない状況も目に付きます。教育をめぐる現在の様々な問題は、その多くが家庭教育に原因があるのではないかと思います。先ほどの大臣のご説明にあったように、新しい教育基本法に「家庭教育」の規定が追加されることは本当に大事なことだと思います。まずは、親がその責任をしっかりと自覚すべきだと思います。また、学校、家庭、地域が連携・協力することも重要です。教育は学校だけではできません。学校ばかりに責任を押しつけたり、人任せにしたりせず、みんながしっかりと自分の役割を果たして、みんなで子どもたちを育てていくという認識を共有することが必要だと思います。


さて、ここに述べられているようなことは、はたして基本法を変えなければできないようなことだろうか。わたしにはそう思えない。要するに政府としてもなぜ今教育基本法を変えなければならないかという根拠が国民に説明できるようになっていないのではないだろうか。だからこそ、このような「やらせ質問」が必要になる。そして本当にねらっている「愛国心」教育の押しつけ、教育の国家統制などはここにはでてきていない。国民の「教育をなんとかしなければ」という感情のみを利用しようとしているのだ。
いま教育を巡ってさまざまな問題が起きていることを「入り口」にして本質が知られないうちに教育基本法「改正」を強行するということだけはさせてはならないと思う。


問われているのは「大人の行い」

2006-11-01 00:51:55 | 教育問題
今日は実に謝罪記者会見の多い日だった。いちいち覚えていないが、高校の単位未履修にはじまり、保険不払い、食器洗い乾燥機の発火など。決まって明らかになるのは、問題が発覚してから発表までにかなり時間が経過していることだ。公表した場合の経営等への影響をはかっているというのもあるのだろう。ということは公表されていない問題も実際にはたくさん存在しているだろうということになる。学校現場でもそのようなことがあることを、生徒の立場から明らかにしている記事がいくつかある。

<履修不足>高3男子告発「学校は潔く認めて」
 全国各地の高校での履修単位不足問題で、北関東の私立高校に通う3年の男子生徒(18)が、毎日新聞に「時間割では『世界史』となっていたが、授業内容は『現代社会』だった」と「告発」を寄せた。各地の高校で問題が発覚しても学校側は問題であるとは認めていないという。高校生は「きちんとした説明がないのが気に入らない。『教育は人間形成のため』と言っておきながら、受験の結果を出すためには何でもやっていいというのは矛盾している」(強調は引用者)と学校側の姿勢に不信感を示している。


「自分の学校も」生徒が県教委に告発メール 教師が不正認めず

 兵庫県立高校三校で必修科目の未履修が発覚した問題で、問題発覚のきっかけになったメールは当該高校の生徒から寄せられたメールだったことが分かった。メールは「自分が通っている県立高校でもそれが行われているのではないかと気になりました」と記しており、指摘を受けて県教委は全県の県立学校長に調査を指示した。

いじめ問題でも同様だ。「Internet Zone::WordPressでBlog生活」では子供の勇気として、「子どもたちの方は、「いじめ」について勇気を持って発言し始めてい」ることを紹介している。

まさに今問われているのは「大人の行い」なのだ。とりわけこのような"不徳"が教育において行われていることの重大性は先の北関東の高校生の告発が物語っている。問題は、なぜ今、教育においてこのようにまでいじめ隠しや未履修まで行いながらの進学教育が横行しているか、ということだ。
どうしても教育基本法「改正」を先取りした競争の激化ということを考えないではいられない。学校間での競い合いがあおられているからこそ、"評価"を高めたいという学校側の論理が優先され、いじめ隠しなどが行われてしまうのではないか。そして、今後さらに学校の外部評価、学校選択制などが取り入れられていったら教育現場はますます殺伐としたものになっていくのでは、と恐れを感じる。教育基本法の「改正」論議では是非ともそうしたところをつっこうんで議論してほしいものである。


高校生として身につけるべき教養という観点からどうなのか

2006-10-28 01:43:33 | 教育問題
今日の朝日新聞社説は、「必修漏れ 生徒にしわ寄せするな」として
世界史などの必修科目を生徒に履修させていなかった高校が、全国に広がっている。朝日新聞社の集計では、30余りの都道県で200校を超えた。
と書いている。
しかしそこで問題にしているのは、受験生の負担の大きさ、受験のためにルール無視、うその報告、他の高校の生徒たちはとの「不平等」といったことばかりで、これらの科目がなぜ高校の必修科目となっているのかという観点からの批判はない。読売社説では、「結果的に、生徒から他の科目を学ぶ機会を奪った。」とこの点への言及があるものの、歴史という科目の意義などを指摘しているわけではない。他の報道にしても似たようなものだ。しかしもっとも問題にしなければならないのは、教育の現場がうその報告をしてまで受験本意の教育に堕落してしまっていることなのではないだろうか。

私はいわゆる理系だったが、高校で日本史、世界史、地理、倫理・社会、政治・経済を学んで今では本当に良かったと思っている。近視眼的に生徒の関心事に答えることでないとしても、体系的に歴史などを学ぶことはその生徒の人生にとって大きな経験に違いないのだ。

一方必修漏れについてはもっぱら校長の責任が追求されているようだが、教育委員会は教育課程がどのように編成されているかについては気づいてもいなかったのだろうか。文部省は同じ教育指導要領にあるということでの日の丸・君が代の強制には熱心だ。東京都などはこれを根拠にして日の丸の掲揚のしかた、君が代の歌い方まで事細かに決めて強制している。必修漏れについては見て見ぬふりをしたのなら、その恣意性は明確だ。日の丸・君が代は尊重するが肝心の歴史は教えなくても問題ない、ということになってしまう。