怒りのブログ

社会批判を深める

「9条守ろう! ブロガーズ・リンク」に賛同します

2006-08-30 03:49:11 | 憲法問題
首相最有力の安倍晋三氏が政権構想で現行憲法の全面的な改正を打ち出すという。
http://www.jicl.jp/now/jyoukyou/backnumber/20060821.html
初心者ブロガーの私でもたとえわずかでも、世界の宝物としての憲法九条を守る一翼を担えるだろうか?
ということで
「9条守ろう! ブロガーズ・リンク」
に賛同します。

「中国・韓国が批判するから参拝しないというのはいかがなものか」という欺瞞(・・・③)

2006-08-29 04:28:32 | 靖国問題
このように首相やマスコミが言っているのを聞く。
第一に「中国や韓国が批判するから参拝しないほうがいい」などという理由はおかしいに決まっているのに、それが首相の靖国参拝反対の理由とされるのがおかしい。NHKなどがこのような理由を第一にあげたりすると、そのこと自体によって「首相は毅然とすべき」ということで参拝賛成となる人もいるのではないか。
まさか最近の中国・韓国を中心とした「反日」への反発を利用し、その中国・韓国が批判している靖国参拝だから反対するな、というわけでもあるまいが。
第二に、隣の国があれだけ批判しているときに、日本の首相のとるべき行動をまともに考えるなら、その批判の内容を問題にすべきところだ。それを「一つの問題だけ意見が合わなかったら首脳会談もしないというのはおかしい」(首相)などと一般論にすり替えるのもおかしい。過去の植民地支配や侵略戦争をどう考えるかということは中国・韓国との信頼関係の土台をなす問題だからだ。
また、かなりの論者がこの問題をとりわけ中国の国内問題に関連させ、不満が政府批判にむかうのをさけるためにあおっているなどの言い方があるが、これも批判の内容をそれとして考えずに、一つの背景にすり替えようとするものだ。どのような背景があろうと、あくまでそれらは国内問題だ。問題は日本(の首相の行動)への批判の内容に正当なものがあるかどうかである。
「外交カード」論というのもある。いわば中国、韓国が外交上優位に立つために都合の良いときに出してくるのが過去の歴史問題だと。これは常に日本の行動が引き金になって問題が起こっていることを押し隠すことがねらいなのではないか。このような言葉によっても問題は上滑りしていく。
第三に、問題が戦後の出発点に関わる問題であれば、ことは中国・韓国との関係にとどまらないということだ。東南アジアの国々は日中関係などのことを心配しての靖国参拝に批判的な論調が多いようだが、それらの国と日本との経済的な関係を損なわないための遠慮もあるような気がする。
靖国神社内の遊就館は太平洋戦争の責任はアメリカにあるという主張を掲げている。このことは靖国派?からも指摘されている。
http://www.sankei.co.jp/news/060824/morning/seiron.htm
ここでは反米をただせという主張になっているが、「アジアを開放した」とか「やむにやまれぬ開戦」などの主張を通そうとすれば、これらも必然的な結論とならざるを得ない。アメリカは靖国問題にはコメントしていないというような指摘もあるが、そうでもないようである。
http://www.jcp.or.jp/tokusyu-06/03-yasukuni/hihan_kenen/america.html
私は、中国・韓国での首相の靖国参拝への批判はそこにどんなに雑音が混ざっていようと、その内容は戦後の日本の出発点をあいまいにする動きに対する世界の世論の一部を構成していると考えるべきだと思う。

驚いたのは問題の遊就館の展示において英文訳が日本文と違っているという記事。
遊就館 英文説明の“怪”
さらに中国、韓国にたいしてはどんなに強硬なことを言っていても、米英に対しては批判部分を削除するという追従的な態度をとっているという。
http://blog.goo.ne.jp/e-hori/e/8867a03664586963c6baa96d3f70d4ae
これでは「他国がとやかく言うことではない」といった言葉の欺瞞は明白だ。

人の死という装置(首相の靖国参拝はあたりまえか②)

2006-08-23 03:27:51 | 靖国問題

先日(8月17日)の記事のなかの、「(日本の引き起こした戦争がやむにやまれるものだったかという)この問題だけを論じたときには国民のかなりの部分が『そうは言い切れない』という立場をとるのだと思う。しかし先述の「感情」の問題に接するとき、このことはなぜか後景に退いてしまう。」について。それではなぜなのか。

最近の映画やテレビドラマで主役、準主役の死をあつかったものが多いと感じているのは私だけだろうか。そんなに多く見ているわけではないが、「世界の中心で、愛をさけぶ」や「僕の生きる道」などは評判になっていたので私も見た。「人の死」はいつの時代にも、映画やドラマの重要な主題の一つであるし、死と真剣に向き合うときに感銘を与える作品ともなる。しかし集客や視聴率を稼ぐためにこうしたテーマを選んでいるとしたら見させられている方も考えなければならない。
思うに、恋人の死などをストーリーのなかに配置すると、そこから自ずから決まってきてしまう要素があり、泣かせどころなどももってきやすいということがあるのではないか。そこでは「人の死」が一つの装置になっている。

死を覚悟して戦闘に突入していった兵士たちには圧倒的な「『国』のためにすすんで血を流せ」という雰囲気の中で他の選択の余地もなかっただろう。この行為はしかし、「お国のため」というだけで尊いもののようにも思えてくる。さらに遺族にとっては肉親の死というもっとも悲しむべきことを償うものとしてそれが『国』という大きな価値のための犠牲と考えることは救いだったに違いない。死んでも靖国神社に祀られるということがどんなに大きな慰めとなっていたかが想像できる。『国』のために戦って亡くなった人のみを祀る靖国神社は巨大な戦争動員装置となっていたのである。
1985年に靖国神社公式参拝を強行した中曽根首相は、靖国神社の意味を「さもなくばだれが国に命をささげるか」と表現したが、『国』の側からの考え方をよく表している。

はじめにもどるが、『国』のためとされた「人の死」がそれだけで尊いという感情によって戦争の目的が不問に付されてしまうことがあってはならないのだと思う。それは、他国に攻め入った行為の目的がなんだったのか、よくよく考えてみなければならないということを意味する。

よくよく考えるとは、イラク戦争に引きつけて言えば、「イラクが大量破壊兵器を隠し持っているから」などと言って始めたイラクへの侵攻が、またそれを支持して支援した日本のとった行動が(大量破壊兵器はなかったと結論づけられた今)、どうだったのか深く反省するということだ(当然のことだが!)。


首相の靖国参拝はあたりまえか

2006-08-17 02:32:46 | 靖国問題
8月15日渋谷にでもいそうな若者が多く靖国神社を訪れていたということ。「国のために命をささげてたたかったひとを追悼する施設を首相が参拝してどこが悪い、外国がとやかく言うことではない」という論理が幅を利かせているようにみえる。
http://www.asahi.com/national/update/0816/TKY200608150568.html

靖国神社を参拝する遺族の声に接すると、この論理はむしろ感情的に強く迫ってくる。
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/notice/yasukuni_mondai.htm

しかし、この論理にはいくつかの前提が必要であるように思う。
1.靖国神社が国のために戦ってたおれたひとを追悼する施設であること
2.対中国の戦争、および太平洋戦争がやむにやまれぬ戦争であったこと
3.戦死した人たちが国のために戦って死んでいったこと

1については追悼ではなく顕彰だということが多くの人によって指摘されている。
私も靖国神社は追悼施設とはいえないと思う。
2については多くの議論があるところである。靖国神社のなかにある遊就館はこの立場だ。私はまったくそのようには考えてこなかったし、この問題だけを論じたときには国民のかなりの部分が「そうは言い切れない」という立場をとるのだと思う。しかし先述の「感情」の問題に接するとき、このことはなぜか後景に退いてしまう。
それでは3についてはどうだろうか。このような議論で戦いの性格をいうとき、「国のため」という言葉は必ず冠されている。

私は最近になってあの戦争の中で、日本の軍隊が国民を守るために戦った場面がどのくらいあったのか、ということを考えている。反語的に聞こえるが実際には「守らなかった」ことがたくさんあった。国=国民ではないが、戦場で国民を守ることをしない軍隊は国のために戦ったと言えるのだろうか。

このように考えていくと、首相の靖国参拝は決してあたりまえではないし、もし参拝を組織的に推進している勢力が、遺族の感情をも利用して再び戦争をできる日本を作ろうとしているなら、再び三度、遺族をもおとしめることになるのではないか。