那須高原の今昔と、
魚とりの変遷 ①
菅 政幸
(昭和60年、未発表原稿)
小春日和の昼下がり。
暖房の効いた事務所の応接室で、
さっきから二人とも退屈なのである。
ここ数年来の不景気で、私の商売である不動産がさっぱり動かない。
不動産が動かないから、
渓酔会会長の商売である生コンも売れない。全く困ったものだ。
関東の北の果て栃木県と、みちのくの最南端福島県の県境に、
でんとそびえる那須連山。
この山を源とした幾筋もの渓流は、広大な山麓を縫って那珂川へと合流。
栃木県の東端に沿って南下し、茨城県の那珂湊で太平洋へと注ぐ。
那珂川の上流域、川を挟んで東側の那須町と、
西側の黒磯市一帯約三十km四方が
いわゆる ”那須高原” と言われているところで、
昭和四十年代の別荘ブームで一躍有名になった。
別荘地としての那須
那須温泉の玄関口に当たる黒磯駅。
昭和40年代当時の人口、約四万人の黒磯市内に、
二百社を超える不動産業者の本、支店が軒を並べ、
上野発の下り特急が黒磯駅に到着するたびに、
数百台の黒塗り乗用車が駅前を埋め尽くした。
東京本社の営業マンたちが連れてくる別荘地購入の見込み客を出迎える、
各支店の社員たちや提携している地元業者の車である。
那須高原の山という山が切り開かれ、切り刻まれて、
五十坪、百坪の権利証となって東京方面の不在地主の手に渡って行った。
その数、推定二十万。
市内のいたるところに飲食店が開業。
毎晩のように百万単位の札束が乱れ飛んだ。
地元の地理や人間関係に明るい、百姓上がりのブローカーたちが幅を利かせ、
誰それは一晩で五百(万円)抜いた(儲けた)、
一千抜いたなどという景気のいい話が、市内をかけめぐった。
♢ ♢ ♢ ♢
そしてオイルショック。
すべてが消えた。 うたかたの夢のごとくに・・・。
後に残されたのは縦横に道路がつけられた無数の分譲地と、
さびれ果てたり、しもた屋となってしまった飲食店。
それでも月日の流れとともに、
市民たちは落ち着きを取り戻していった。
まるで憑きものが落ちたかのように───。
別荘地とは名ばかりの、細切れにされた土地ばかりが、
年々荒れはて、今ではゴーストジャングル化している処が多い。
ほとんどの分譲地が投資目的で切り売りされ、
タウン=住宅街はほとんど作られていないのであった。
私を初め、地元の渓流釣り師たちだけは、今でも当時の恩恵を受けている。
どんな山の中のボサ川、ヤブ川でも、その周囲のほとんどが分譲地。
荒れたとはいえ、それなりの道路が残っているので便利なことこの上ない。
「あの頃はよォ、良がったなあ」
「んん、いがった。はあ二度と、あんな時代は来ねえわナ」
「来なくてちょうどイイんじゃねえのげ?
不景気だ、不景気だって言ってっけど、これが当たり前なんだよな、ホント―は」
「んだな・・・。その前のごとを思えばなァ。
それにしても、あのころは、魚なんてナンボでも獲れたっけなァ」
会長の言うあの頃が、いつの事かは知らないが、
私は、子供の頃を思い出していた・・・。
*以下②へ続く。