号:西宮左大臣 覚念(法名)
正妻 藤原実頼の娘
藤原師輔の三女・・・忠賢 惟賢 俊賢
愛宮(藤原師輔の五女)・・・明子(藤原道長室) 経房
源泉の娘
醍醐天皇の皇子、生母は右大弁源唱(みなもととなう)の娘である更衣・源周子(みなもとしゅうし) 。
源周子は、数多く入る醍醐天皇の妃達の中でも、特に寵愛が深かったという。
しかし実家に影響力がないため、高明は7歳のとき臣籍に下り源姓を名乗る。
なまじ皇族として息苦しく生きるより、臣籍に下った方が自由であるし、自分の努力次第では出世の道を歩める、と醍醐天皇が判断したようである。
血統的に優れていること(臣籍に下ったとはいえ、天皇の子であるには違いない)や、彼自身の能力が優れていたこと、時の権力者である藤原師輔(もろすけ)の娘を妻に迎えていたこと、などが重なり着実に出世していった。しかし、義父である藤原師輔が亡くなった頃から、雲行きが怪しくなる。
左大臣に就任した翌年、冷泉天皇を廃して娘婿である為平(ためひら)親王を皇位に就けるべく謀反を企んでいる、という源満仲(みなもとみつなか)の密告により、九州の大宰府に左遷させられる、いわゆる『安和の変』が起こる。
これは藤原氏による他氏排斥計画の一環であることは間違いない。
為平親王は冷泉天皇の同母弟である(村上天皇の皇子、生母は藤原師輔の息女・中宮安子)
冷泉天皇は、奇行が目立つ上に病弱であったため、天皇位に長くいることが難しかった。
そうなると当然すぐ下の弟である為平親王が即位するべきであるが、源高明の娘を妻に迎えていたため、その間に男児が産まれると次期外戚の地位を源高明に取って代わられる危険性があった。
しかも源高明の妻は中宮・安子の妹(共に師輔の娘)であり、源高明と安子の関係も良好であったし、冷泉天皇や為平親王の父である村上天皇(源高明は村上天皇の異母兄)との関係も良好であったのだ。
今までは師輔が間を取り盛っていたため、平穏無事に時は流れていったのであるが、師輔の死により、歯止めが利かなくなったのである。
大宰府に左遷させられた後、許されて帰京するも政界復帰することはなく、失意のまま隠居し、69歳で亡くなっている。
正妻 藤原実頼の娘
藤原師輔の三女・・・忠賢 惟賢 俊賢
愛宮(藤原師輔の五女)・・・明子(藤原道長室) 経房
源泉の娘
醍醐天皇の皇子、生母は右大弁源唱(みなもととなう)の娘である更衣・源周子(みなもとしゅうし) 。
源周子は、数多く入る醍醐天皇の妃達の中でも、特に寵愛が深かったという。
しかし実家に影響力がないため、高明は7歳のとき臣籍に下り源姓を名乗る。
なまじ皇族として息苦しく生きるより、臣籍に下った方が自由であるし、自分の努力次第では出世の道を歩める、と醍醐天皇が判断したようである。
血統的に優れていること(臣籍に下ったとはいえ、天皇の子であるには違いない)や、彼自身の能力が優れていたこと、時の権力者である藤原師輔(もろすけ)の娘を妻に迎えていたこと、などが重なり着実に出世していった。しかし、義父である藤原師輔が亡くなった頃から、雲行きが怪しくなる。
左大臣に就任した翌年、冷泉天皇を廃して娘婿である為平(ためひら)親王を皇位に就けるべく謀反を企んでいる、という源満仲(みなもとみつなか)の密告により、九州の大宰府に左遷させられる、いわゆる『安和の変』が起こる。
これは藤原氏による他氏排斥計画の一環であることは間違いない。
為平親王は冷泉天皇の同母弟である(村上天皇の皇子、生母は藤原師輔の息女・中宮安子)
冷泉天皇は、奇行が目立つ上に病弱であったため、天皇位に長くいることが難しかった。
そうなると当然すぐ下の弟である為平親王が即位するべきであるが、源高明の娘を妻に迎えていたため、その間に男児が産まれると次期外戚の地位を源高明に取って代わられる危険性があった。
しかも源高明の妻は中宮・安子の妹(共に師輔の娘)であり、源高明と安子の関係も良好であったし、冷泉天皇や為平親王の父である村上天皇(源高明は村上天皇の異母兄)との関係も良好であったのだ。
今までは師輔が間を取り盛っていたため、平穏無事に時は流れていったのであるが、師輔の死により、歯止めが利かなくなったのである。
大宰府に左遷させられた後、許されて帰京するも政界復帰することはなく、失意のまま隠居し、69歳で亡くなっている。
最近中世の歴史に興味を持ち、あれこれ検索して
たどり着きましたところ、こちらで「高明」の名前を発見。
興味深く読ませてもらいました。
「満仲」も「藤原」と組んでいたんでしょうね。
悲運な高明・・・。
この後も「藤原」の意向が何より優先される時代が
続くのですね。