相場が決まるこの季節ですが …
花粉症に悩まされるようになってからというもの、めっきり
と 「風薫る」 を感じることがなくなってしまったのです。
カゼと混同され、時にハナがクサくかおることはあっても、
風 が若葉の上を渡り、花 や 草 の香りを運んでくると
いうことは滅多にありません。
ちなみに、
春の代名詞といったら「桜」ですが、春の風物詩、その中
でも初物の代表格である初ガツオは 上り で、秋には下り、
または、戻り と称される回遊魚です。
黒潮に乗って2~3月に高知沖を北上し、駿河湾の沖に
到達するのが3~4月、房総から三陸にかけては4~5月
頃で北海道の手前でたらふくエサを頬張り、タップリと脂が
のったところでUターンに転じると、その後は一気に南下を
始め高知沖に9月~10月頃に再び戻るという計算です。
この時季、京料理で有名な鱧(ハモ)は、上りとは呼ばず
に 「走りハモ」 で、秋は下りや戻りではなく 「名残りハモ」
と呼ぶのだそうですが …
さすが京都、洗練されていますね
初物や初ガツオに関するちょっとした雑学記事としては、
2号 の 『初物・縁起・開運シール』 が参考
になると思いますが …
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/263.html(参照)
拙稿の 『一富士、二鷹、三茄子』 もうん蓄を
傾ける内容になっています。
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/262.html(参照)
雑学やうん蓄は、言わば、知的好奇心をくすぐり刺激する
「猫じゃらし」 のようなものですが、それが瑣末でくだらない
愚にもつかないようなトリビアなものとなるとどうでしょう
もはやそれは無益で無用な情報だといえるのでしょうが、
稀に宝石のように光り輝くものもあり、すべてが無駄なだけ
の情報とは限りません …
さて、
「知る権利」 を声高に叫ぶのであれば、当然のこと
に 「知る義務」 というものも同等に重視され 履行
されなくてはオカシイはずです。
「知る」 ことを権利主張する以上は、「知る」 ことの
義務も同様に果たされなくては完全に片手落ちということに
なるでしょう。
裁判員を務めた人たち20人が2月に、死刑の執行停止と
情報公開の徹底に関して国民的な議論を求める要望書を
法務省に提出したという記事が、静岡新聞(5月5日)朝刊
の 『核心核論』 に載っていました。
『「知る義務」果たしたか 決断のための情報』
と見出し打ちされた記事をそのまま引用してみます。
「 『知る権利』 の重要性については、いまさら多くを語る
必要はないだろう。決断の必要があるとき、人は多かれ
少なかれ、考え、迷う。そして、それが重要なことであれ
ばあるほど、決断には多面的で重層的な情報が必要だ」
「もし大切な情報が隠されているなら、適切な判断はでき
ない。いや、欠落した情報に基づく決定は、もはや自己
決定とさえいえず、誰かに操作されているというべきかも
しれない」
「例えば死刑の判断は、どうだろう。情報は十分に与えら
れているのか」
― 中略 ―
「法務省によると 裁判員裁判で死刑を言い渡されたのは
2013年末までに20人。うち4人が確定したが、執行された
人はいない。 … だが、裁判員制度開始から5年が過ぎ、
早晩、執行される人が出てくる」
として、死刑を判断した裁判員には今なお 「壮絶な重圧
と葛藤」 があって、死刑についての情報公開やオープンな
議論がないままに刑が執行された場合に 「苦しみは極限
に達する」 だろうと要望書は訴えているわけです。
文面からは、死刑に関する十分な情報もないままに判断
を下したことへの強い後悔がうかがえ、「知る権利」と
いうよりも 「知る義務」を怠ってしまったのではないか
という自責が感じられるのです。
記事では、裁判員制度に絡めて審議判断するのに必要
な情報の公開や適切な判断材料が提供されているのかに
疑問符を打つ論調で構成され、「知る義務を果たしている
のか」 が私たちに問われてるのだと結んでいましたが、
果たして、情報は多ければ多いほどいいのでしょうか
裁判という非日常の特殊なケースは別にして、私たちが、
通常、適切な判断を下すのには必要最低限のコアな情報
と時宜に適った適度の条件さえ揃っていれば、おそらくは
大きな判断ミスは起こさないだろうと思うのですが …
ところで、
インターネットの普及にともない誰もが膨大な量の情報を
手に入れられる現代においては、洪水のように押し寄せる
情報に溺れてしまう危険性の方がむしろ大きくて、それらの
情報を見極める「メディアリテラシー」の重要性が
叫ばれていますよね。
メディアリテラシーは「情報を読み解く能力」 と
言い換えられますが、時代を反映してか、学校教育の現場
にも導入されるようになりました
学校で取り上げるきっかけとなったのはネット上のいじめ
などが社会問題化してきたからですが、まだ、数年の実績
ではとても成果が上がるような段階ではないようです
ネットは自分の知りたい情報だけを都合よく集めるのには
最適ですが、その反面では知りたくない情報や都合の悪い
情報はいくらでも拒否できるという代物です。
便利な通信手段であり情報収集ツールであることは疑い
ようもありませんが、求める情報以外は目に入らなくなり、
視野を狭くするだけでなく、「対立構造を生みやすい」危険
なメディアであるという意識を持つ必要があるでしょう。
ヘイトスピーチやジャパニーズオンリーなどの差別的な
表現や行為・行動の裏に、排他性を助長する負の側面を
持ったネット社会の影を見る思いがします
インターネットは世界中の人が利用しているわけですが、
なかには人を騙したり興味本位や面白半分で「嘘の情報」
を流し、その反応を楽しむ輩がいないわけではありません。
相手が誰かわからないという特性を悪用するわけですが、
「善意を装った嘘の情報」を発信する者も少なく
なく不届者はあとを絶ちません。
いま見ている情報は 「正しい情報なのか」 を確かめる
必要性が常に生じますが、子どもはもちろん、大人にとって
もそれを見極めるのは簡単ではありません。
子どもたちに 「疑う」 ことを前提にして教育をするのは
先生たちにとっても苦痛だし抵抗を感じることなのでしょうが
、「身を守る術」 として必要な知恵であると認識
して納得するしか仕方ありません。
多くの経験と豊かな想像力と真贋を見極める審美眼など
に裏打ちされた 「正しい懐疑心」 というものを育て
ていくことになるのですが、「自分の信じていることが正しく
ないこともある」 と自覚させることが前提となるわけです。
それは容易なことではありませんが、多様な意見に接して
「発想や考え方やイデオロギーの違う人たちが大勢いる」
ということを知れば差別的な感情も自然と薄らぐはずです。
但し、「知る権利」 に対する「知る義務」 よりも
大手を振って 「知らない権利」 を主張して生きる方
が、ずっとずっと楽チンなのは確かです。
主義主張にシノギを削るよりも安直に八方美人的な平和
を唱えることの方が努力をする必要がないからです
その意味からは、 「知らない権利」 という
意識にも今後注目が集まるのかもしれませんね
なにせ、水は低きに流れ …
情報の渦にまかれて
人は快楽の波に溺れる
否が応でもそうした業を宿しているのだから …
コメント一覧
静岡こっこ
皮肉のアッコちゃん
餃子ライス
透明人間1号
おいら
透明人間1号
餃子ライス
ココナン
最新の画像もっと見る
最近の「ひとりごと」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事