「犬と猫」、まさに、そんなブログの引っ越し作業の結果、
100を超える記事の画像が表示できなくなり、非公開としました。
記憶を呼び起こしつつ、漸次、復活・再生させるつもりですが、
正直、皆目見当のつかない画像も多々あります。
上記のように、連続性を維持することは、このシリーズの
重要なファクターですので、時間がかかっても復活・再生を
果たさなければならないのですが、漸くこれで23作目です。
さてと、それでは、ここからが、
『ダ・ヴィンチの罠 犬と猫(改)』
の記事になります。
(以下、本文)
最近では日本でもよく耳にするだけでなく、
年々歳々その盛り上がりの度合いが増して
いる年中行事としてのハロウィン🎃が
間もなくやってきます。
実は、
ハロウィン🎃は、キリスト教に関する
お祭りではありません。
古代ケルト人の宗教(ドルイド教)における
秋の収穫を祝う祭、収穫祭なのです。
カボチャの中身をソックリくり抜いて作った
「ジャック・オー・ランタン」を飾って
魔女やお化けに仮装した子供たちが近所の
家々をまわって、お菓子(キャンディなど)
を貰ったりする風習ですが、
ハロウィン での色々なジャック・オー・ランタン
日本においては子どもよりも若者たちが
仮装コスプレを楽しむようなイベントとして
全国各地で定着しつつあるようです。
ハロウィン🎃と混同されるお祭りに
イースターがあります。
こちらはイエス・キリストの復活をお祝い
する復活祭でイースター・エッグ
イースターエッグ 赤く染めた復活祭の卵
(基本は赤く染めた卵)が有名ですが、
麦わらで飾られたイースター・エッグ
現代では、チョコレートで作られた卵や
ジェリービーンズやキャンディなどを
イースターエッグ チョコレート
詰めたプラスチックの卵で代用すること
が多いようです。
イースター(復活祭)は、イエスが
磔にされてから3日後に復活したこと
を記念し記憶するためのキリスト教に
おける最も重要な祭りであって、カトリック、
聖公会、プロテスタントなど西方教会では
イースター・エッグ(復活祭の卵)を運んで
くるウサギとしてのイースター・バーニーも
復活祭の風物詩のひとつになっています。
イースター・バーニーを描いた1907年の絵ハガキ
イースター・エッグを赤く塗るのは
卵そのものが復活のシンボルなのですが、
赤はキリストの血によって世界が救われ、
その血によって人類が再生することを
表しています。
さて、
ここに同じシチュエーション(状況)を描いた
ヤコポ・バッサーノの絵画が2枚あります。
『エマオの晩餐』Ⓐ ヤコポ・バッサーノ画
『エマオの晩餐』Ⓑ ヤコポ・バッサーノ画
エマオにおけるイエスと2人の弟子たちとの
食事の風景を描いた『エマオの晩餐』
のⒶとⒷですが、この場面の前段の話は、
クレオパに語り掛けるイエス
イエス・キリストの弟子がエマオ(地名)の
近くを2人して歩いていると復活したイエス
が弟子のひとりであるクレオパに近づいて、
何事か語り掛けるところから始まります。
エマオに向かうイエスと弟子たち
弟子たちはそれがイエスとは気づかずに、
その晩の食事に招待します。
『エマオの晩餐』Ⓐ
食卓でパンを分け、祝福をする姿を見て
それがイエス・キリストであることに気づく
という『ルカの福音書』24:13-32
にある場面を描いたもので、
『エマオの晩餐』Ⓑ
同じテーマのほぼ同じ構図の2枚の絵を
彼は微妙に描き違えて用意していたのです。
たとえば、食卓にのぼるメイン料理ですが、
Ⓐは魚料理、多分ウナギだと思われます。
『エマオの晩餐』Ⓐ
ハッキリとは確認できませんが、おそらくは
そうでしょう。
実のところ、魚とキリスト教の結びつきには
古くて長い歴史があるのです。
キリスト教がまだ、ローマの国教とはされず
に迫害を受けていた3世紀から4世紀の頃の
時代、キリスト教徒たちはお互いが同じ信仰
を持った者同士であることを暗示的に伝える
手段として下図のような魚のマークを用いて
いました。
魚が何故キリスト教のマークになるのか?
それは、
や、より詳しい内容については、
などでも記したように、次のようなギリシャ語
の文章(単語)に隠されています。
この文章を構成する各単語の頭文字を
順番に並べると「ΙΧΘΥΣ」となります。
ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ
<イエス キリスト 神の 子 救い主>
これはギリシャ語で「魚」を意味する
「イクトゥス(イクテュス)」と同じ発音となり、
初期のキリスト教徒の隠れシンボルでも
あったわけです。
初期のΙΧΘΥΣと太陽車輪。エペソ 3世紀初頭のΙΧΘΥΣ Wikipedia
このことは後半でも触れると思いますが、
ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』での
料理とも同じですね。
それが、
Ⓑでは卵と動物の丸焼きに変わります。
『エマオの晩餐』Ⓑ
卵は当然、復活したイエスをシンボリックに
表すものであり、
『エマオの晩餐』Ⓑ テーブル
運ばれてくるメイン・ディッシュは生け贄
(十字架での犠牲)の象徴としての動物の
丸焼き(首から先がないことに注目)です。
『エマオの晩餐』Ⓑ 大皿の料理
要するに、これはヤコポ・バッサーノが描く
『最後の晩餐』での大皿の上の子羊
の頭と期せずしてつながるわけですが、
ヤコポ・バッサーノはダ・ヴィンチの壁画
『最後の晩餐』を意識して、そこに
ある「罠」の一端を理解したうえで、
彼なりの『最後の晩餐』を仕上げた
わけであって、
画像元 レオナルド・ダ・ヴィンチの小部屋
『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ画
その制作意図における秘密を2種類
の『エマオの晩餐』に込めていた
ものと推理したわけなのです。
つまり、その主題はズバリ「犬と猫」
であってヤコポ・バッサーノは犬派(🐩)
として、ダ・ヴィンチは猫派(🐈)としての
『最後の晩餐』を描いたのですが、
その解説は後に回すとして、
このエマオにおけるイエスの顕現
以外にも、イエスは何度か弟子たちの前
に現れます。
『復活』シモン・チェホヴィッチ1758年
復活したイエス・キリストが11人の弟子の
前に現れている場面(イエスの顕現)です。
その状況は四つの福音書で、それぞれに
違っていて、イエスの復活後の顕現を
報告する記述は多くの矛盾に満ちており
聖書の記録の中でも最も信頼できない
もののひとつとなっています。
「うーむ・・・」
そのことはダ・ヴィンチも承知しており、
「解剖して分かったことだが、
人間は死ぬように出来ている」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
という言葉には暗にイエスの復活に
懐疑的であるだけでなく、人間としての
永遠なる命を完全に否定している
わけで、『最後の晩餐』の場面には、
そうしたダ・ヴィンチの心情と意思の発露が
秘密裏のうちに醸成されているのです。
以前から申し上げているように、
『最後の晩餐』とされる彼の作品は
狭義には過ぎ越しの祭りの夜の最後の
晩餐から磔刑死の後に復活をした
イエスが弟子たちの眼前に現れた時の
一瞬をスナップしたものであって、
一種の複合するスクリーン・ショット
としての静止画像データの集まりなのです。
そして、
広義には宇宙開闢(ビッグバン)から
人類の終焉(最後の審判?)までの一大
スペクタクル時空劇(舞台劇)であり、
それらは、
テンペラ画法がもたらす壁画の劣化が
及ぼす偶発的変化による未知の醍醐味
と計算され熟慮され尽くした設計に
基づく思考実験としての「罠」の仕込み
が『最後の晩餐』の真実なのです。
『最後の晩餐』修復前 www2.odn.ne.jp
『最後の晩餐』修復前(白黒写真)amazing-trip.xy
さてさて、それでは、
ヤコポ・バッサーノは似て非なる2種類の
『エマオの晩餐』を何故に用意した
のかということですが、
『エマオの晩餐』Ⓐ 『エマオの晩餐』Ⓑ
画家が同じモチーフの絵を2枚描くという
ことはまま見られることで、特に珍しいこと
ではありません。
但し、
大抵はその場合には、ほとんど同じ図柄に
なるのが普通です。
言わば、1枚は依頼者用であり、もう1枚は
作者のアルバム用としての複製なのですが、
この2枚はいくつかの点において明らかに
逆の意味もしくは対立する何かを表現しよう
とする意図が見て取れます。
『エマオの晩餐』Ⓐ
『エマオの晩餐』Ⓑ
そのひとつが、犬と猫の描写の違いです。
まず、
ⒶとⒷでは二人の弟子に対する犬と猫の
位置がそれぞれに逆転します。
その他にも、Ⓐでは給仕の奥の側に猫が、
Ⓑでは給仕の外側に犬が配置されていて、
しかも、
Ⓑの子犬は、猫か と見紛(みまが)おう
ばかりに鼻筋に沿ってタテに流れる白い毛
や耳も鼻も猫仕様ですが、長いヒゲはなく、
体つきや目の感じ、毛並みの色などは犬の
仕様で全体的には子犬を思わせています。
『エマオの晩餐』Ⓑ 犬
その姿も寝そべったうつ伏せの格好から
姿勢よく座ったポーズに変わっています。
一方の猫はと言うと、
Ⓐでは左側の弟子の座る椅子の横から
寝そべる犬を見ているようですが、
『エマオの晩餐』Ⓐ 猫
Ⓑの猫は右側の弟子の椅子の裾陰から
指示を待つかのように行儀よく座る子犬に
向けて鋭い視線を放っているようですが、
この違いは何でしょう
対立や敵対する者同士の関係を如実に
感じさせる対比であることは確かでしょう。
ある意味で犬と猫は人間の友(ペット)と
しての永遠のライバルです。
また、
忠実で従順で、規律正しい群れの一員と
しての習性を持つ犬と自分勝手で我が道
を行くが如き振舞いの猫とは、神に対する
従僕なる僕(しもべ)としての犬とサタンや
悪魔の使いとしての猫という、対立し敵対
する者同士の評価にもつながります。
『エマオの晩餐』Ⓐを反転すると
『エマオの晩餐』Ⓐ 反転
『最後の晩餐』(ヤコポ・バッサーノ)
での画面の右側を思わせるような位置に
『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ画
丸まって寝そべりながらこちらに視線を
送る犬と、同様にこちらを鋭く見つめる猫
の姿がみられますが、
その犬と猫が『エマオの晩餐』Ⓑ
では、給仕の手前で画面左の端に子犬が
座り、それを右側の隅っこから憎らし気に
睨みつける猫がいるという構成で、
『エマオの晩餐』Ⓑ
『エマオの晩餐』Ⓑ 犬
『エマオの晩餐』Ⓑ 猫
それが、
Ⓐでは給仕の向こう側で画面の左に猫が
いて、画面の右端に丸まらずにうつ伏せに
寝そべる犬がいるというように
『エマオの晩餐』Ⓐ
それぞれの位置や方向や視線や
動作などを微妙に対比させることで
対立する構造や相関関係を、
『エマオの晩餐』Ⓐ 猫
その形状の違いによって恣意的に
表現しているものと思われるわけです。
イエスもⒶとⒷではかなり違います。
左手をパンの上に添えて右手で祝福の
ポーズを取り、優しい視線を鑑賞者である
こちらに送るのはどちらも同じですが、
『エマオの晩餐』Ⓑ イエス
顔の向きと支える杖の方向が左右で
逆になっていますね。
『エマオの晩餐』Ⓐ
後光の表現方法(光輪の有無)や衣装
の配色も違います。
『エマオの晩餐』Ⓑ 中央部
そのどちらのイエスも高貴で神々しい
容姿に描かれていますが、Ⓐのイエス
が醸し出す雰囲気はヤコポ・バッサーノの
『最後の晩餐』におけるイエスの
風貌に似ていて薄いピンクのドレスシャツ
に身を包む姿はⒷのイエスと同じ衣装
をイメージさせます。
『最後の晩餐』中央部
そして、
印象から受けるⒷのイエスの佇まいは
『エマオの晩餐』Ⓑ イエス
ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』での
イエスと似ている感覚に見舞われます。
繰り返しになりますが、
2種類の『エマオの晩餐』ⒶⒷの
メイン・ディッシュが、Ⓐではダ・ヴィンチの
『最後の晩餐』を思わせる魚料理
(ウナギ)で、Ⓑではヤコポ・バッサーノの
『最後の晩餐』での子羊の頭
に繋がる補完材料として首のない
小動物の丸焼きが選ばれたわけです。
但し、
『エマオの晩餐』Ⓑ 皿の中身
Ⓑの場合の丸焼きは食卓の卵に対応
する意味での親鳥(七面鳥など)では
ないかと思われますが、
『エマオの晩餐』Ⓑ 大皿の料理
そこにもヤコポ・バッサーノの深謀遠慮
が見え隠れしているようです。
ダ・ヴィンチの描く『最後の晩餐』
と、その前後における彼の一連の聖書を
モチーフに仕組んだ数々の宗教シーンに
おける「罠」の構成と似た構図と構造
が、これら2枚のヤコポ・バッサーノが描く
異なった趣旨の『エマオの晩餐』
と、復活前の磔刑前夜でのイエスと弟子
たちの様子をその息遣いからニオイまで
を身近に感じさせるほど生き生きと活写
した彼の『最後の晩餐』には、
『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ画
ダ・ヴィンチの「罠」と同種の意思が
そこに蠢(うごめ)きながらも働いていると
いうことです。
しかしながら、
その主張するべき事柄については、
同じ意図を表現するにしても同床異夢
というか、アプローチの相違と言うべきか、
やはり、
犬派(🐩🐕)と猫派(🐈)の違いに
よるものと言うほかはありません
ということで、
次回は犬派(🐶🐕)と猫派(😼😺)の
犬と猫 wannya365.jp
アプローチの違いから天を指さす人物の
「謎」と皿の上の子羊などの「罠」
について解明してみたいと思います。
『洗礼者聖ヨハネ』部分 1513-1516年
ところで、
「アンタはどっち派かのぉ」
「わしゃ、狼派(🐺)じゃ」
ガオー !!
じゃなくて、
犬と猫 wannya365.jp
ワンニャン派(🐩🐈)ですよね。
・・・ って、おいおい、
犬と猫 president.jp 写真提供 amanaimages
… to be continued !!