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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 疑似餌(改)

 「疑似餌」、まさに、そんなブログの引っ越し作業の結果、

100を超える記事の画像が表示できなくなり、非公開としました。

記憶を呼び起こしつつ、漸次、復活・再生させるつもりですが、

正直、皆目見当のつかない画像も多々あります。

ダ・ヴィンチの罠 疑似餌 - 透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 疑似餌 - 透明人間たちのひとりごと

このページの画像は、故あって表示されませんが、連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、別途、新しく作り直すことにしました。同じ内容ですが、画像はその限...

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 url 『ダ・ヴィンチの罠 疑似餌』

 上記のように、連続性を維持することは、このシリーズの

重要なファクターですので、時間がかかっても復活・再生を

果たさなければならないのですが、漸くこれで22作目です。

 さてと、それでは、ここからが、

『ダ・ヴィンチの罠 疑似餌(改)』

 の記事になります。

 (以下、本文)

 

 エマオにおけるイエスと二人の弟子たちとの
食事の風景を描いたヤコポ・バッサーノによる
『エマオの晩餐』には二種類あります。

 
      『エマオの晩餐』Ⓐ ヤコポ・バッサーノ画


  『エマオの晩餐』Ⓑ ヤコポ・バッサーノ画

 ほとんど同じようなポーズで、似た色合いの
身なりをしたⒶとⒷの二枚ですが、

   
    『エマオの晩餐』Ⓐ 猫

 何か気づきませんか

   
     『エマオの晩餐』Ⓑ 犬

 そうです。

 犬と猫、そして、テーブルの上の品々などが

  
   『エマオの晩餐』Ⓑ テーブル

 彼の『最後の晩餐』でのテーブル上の
小道具(アイテム類)と 

 

 配置や皿の中身などを別にすれば、これも
またそっくりと言えるほどに似ているのです。


       『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ画

 食事の場面だから、そりゃあ似るのも当然と
思われるかもしれませんが、13人分の晩餐と
3人分の食卓とが ・・・、ですよ

 それに、

 『エマオの晩餐』Ⓐを反転させると

   
    『エマオの晩餐』Ⓐ 反転

 『最後の晩餐』での画面の右側を
思わせるような位置に寝そべっている犬と
のぞき込む猫のコラボが見られますが、

 その犬と猫が『エマオの晩餐』Ⓑでは、
二人の弟子とは逆に(Ⓐでは給仕の側に
猫、Ⓑでは給仕の側に犬が)配置され、


            『エマオの晩餐』Ⓐ


        『エマオの晩餐』Ⓑ

 犬は猫にも見えるような子犬に変身して、
寝そべっている姿からお座りのポーズへと

   
     『エマオの晩餐』Ⓑ 犬

 変わっているわけです。

 そもそも、

 
 『エマオの晩餐』Ⓐ    『エマオの晩餐』Ⓑ

 この絵画のシチュエーションは ・・・ 

  
    クレオパに語り掛けるイエス

  

 イエス・キリストの弟子がエマオ(地名)の
近くを二人して歩いていると復活したイエス
が弟子のひとりであるクレオパに近づいて、
何事か語り掛けます。

 
   エマオに向かうイエスと弟子たち

 弟子たちはそれがイエスとは気づかずに、
その晩の食事に招待します。

  
     『エマオの晩餐』Ⓐ

 食卓でパンを分け、祝福をする姿を見て
目が開けて、それがイエス・キリストである
ことに気づくという『ルカの福音書』
24章13-32節にある場面を描いたもので、


       『エマオの晩餐』Ⓑ

 同じテーマのほぼ同じ構図の二枚の絵を
彼は微妙に描き違えて用意したわけです。

 では、どこをどのように違えて描いたのか、
もう少し詳しく見ていきましょう。

 まずはイエス・キリストからですが、

   
    『エマオの晩餐』Ⓑ 中央部

 左手をパンに添えて 右手で祝福している
のは同じですが、顔の向きと杖が左右で逆
なのと衣装の配色が違っています。

   
   『エマオの晩餐』Ⓑ イエス

 そして、もうひとつはⒷのイエスには後光
と光輪があるのに対してⒶのイエスは後光
だけで光輪が描かれていません。


       『エマオの晩餐』Ⓐ

 比べて見ても、そのどちらのイエスも高貴
で神々しい容姿に描かれているのは後光や
光輪の所為ばかりではないようですが ・・・

 一方で『最後の晩餐』でのイエスは
どうでしょうか


        『最後の晩餐』中央部

 後光らしきものが描かれていて、光輪が
ないという点ではⒶと同じですが、どこか
軽薄でチャラい感じの人物に見えてしまう
のはどうしたことでしょう

 これはイメージの違いや感覚的な偏見の
為せる業(誤認知)なのでしょうか。

 それとも、ヤコポ・バッサーノの絵筆の
誤りか、あるいは確信的操作でしょうか?


     『エマオの晩餐』Ⓑ 中央部

 この場合の衣装は、Ⓑのイメージに近く、
Ⓑのイエスの姿はレオナルド・ダ・ヴィンチ
『最後の晩餐』でのイエスに似て
いる気がします。

 

 しかして、Ⓐのイエスの雰囲気や容貌は
ヤコポ・バッサーノの『最後の晩餐』
でのイエスに近いようですが ・・・

  


 次に弟子たちを見てみましょう。

 クレオパがどちらかは特定できませんが、


           『エマオの晩餐』Ⓐ


        『エマオの晩餐』Ⓑ

 左右二人の弟子のポーズはⒶⒷともに
ほとんど同じで、違いと言えば画面左側の
弟子の衣の色と右側の弟子の小首の傾げ方
と左手を置く手首の位置くらいのもので、

  

 あとは酷似していると言えるでしょう。

 そして、    

 このイエスと二人の弟子による正三角形
の構図を底辺の長い二等辺三角形の構図
に変えてギュギューと引き伸ばしたのが、

    

 復活前の磔刑前夜でのイエスと弟子たち
の様子を、息遣いからニオイまでが身近に
感じられるほどに生き生きと表象した絵画、


       『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ画

 そうです。 それが、

 ヤコポ・バッサーノの『最後の晩餐』
ではなかったか、と考えているわけです。

 いやいや、時間的には逆ですよね。

 底辺の長い二等辺三角形を正三角形に
凝縮して、裏切り者であるユダの正体を
知らせようとしてしたのかもしれません。

      なぜなら、 

 大変に気になることのひとつとしてⒷに
おける左の弟子の光輪の有無です。


        『エマオの晩餐』Ⓑ

 はっきりとは確認できませんが、どうやら
無いようにも思える(実際はある)のですが 

 もし、それが事実であるとすると、

ダ・ヴィンチの罠 醍醐味(改) - 透明人間たちのひとりごと

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 での「ユダは何処にいるか」
の答えにも、

ダ・ヴィンチの罠 無礼講(改) - 透明人間たちのひとりごと

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「無礼講」、まさに、そんなブログの引っ越し作業の結果、100を超える記事の画像が表示できなくなり、非公開としました。記憶を呼び起こしつつ、漸次、復活・再生させるつも...

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 url 『ダ・ヴインチの罠 無礼講(改)』

 での結論的な説明内容にも変更の必要が
生まれるのかもしれませんが、

 それは他の要素を十二分に検討してから
のことにいたしましょう。

 さて、

 奇妙ですよね。

 前述したように、ⒶとⒷでは二人の弟子
に対する犬と猫の位置が逆転します。

 しかも、

 Ⓑの犬は、猫かな と見紛(みまが)おう
ばかりに曖昧で寝そべった格好から座った
姿に変わっています。

   
     『エマオの晩餐』Ⓑ 犬

 鼻筋に沿ってタテに流れる白い毛色は猫、
耳も鼻も猫の仕様ですが、長いヒゲはなく、
体つきや目の感じ、毛並みの色などは犬の
仕様で全体的には子犬を思わせています。

 ところで、

 最大の違いは皿に乗った品物ですよね。

 Ⓐは魚料理、多分ウナギだと思われます。

 これは後々触れることになると思いますが
 ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』での
料理と同じです。

 Ⓑは鳥類(七面鳥など)の卵でしょう。 

  
   『エマオの晩餐』Ⓑ 皿の中身

 そして、おそらくは、

 その親鳥ではないかと思われるのが大皿
に乗って運ばれてきた丸焼きの正体です。 


   『エマオの晩餐』Ⓑ 大皿の料理

 以上、急ぎ見てきたように、

 これらの類似点や相違点にはそれ相応の
意味があって、そのように描かれているのだ
と思われますが、

 こうした疑惑のオンパレード状態の意図は、
明らかにヤコポ・バッサーノの「疑似餌」
ならぬ「疑似絵」とも言えるものであって、
あらぬ方向への真意を隠すための誘導や

     

 煙幕を目的にしているのだと感じます。

 詰まるところ「正解」はないのではなく、
ヤコポ・バッサーノにとってのユダが確実
に存在するのと同様に、

    
    出典:www.lets-bible.com

 ダ・ヴィンチの「罠」と同種の意思が
そこに働いていたということです。

          

 前回の記事では、ビートルズ名曲
『Hey Jude(ヘイ ジュード)の歌詞を



 Hey Jude, don't make it bad
   (なあ、ユダよ、 悪く考えるな)
 Take a sad song
       and make it better
   (悲惨な未来を、マシにしようぜ)

 と、(song)を〝未来世界〟や〝世の中〟
に、彼女(her)を〝イエス〟に見立てた意訳
を紹介しましたが、



 ヤコポ・バッサーノもダ・ヴィンチと類似する
シンパシーをユダに対して抱いていたとか、

 あるいは好意的でなくとも悪意のある感情
は持ち合わせていなかったと思われます。

 ダ・ヴィンチはイエスがメシアとしての
存在を世に知らしめるために、ユダという
名のひとりの優秀な弟子を見込んで悪役に

 仕立て上げ、裏切者汚名を着せて
生贄(犠牲)として捧げたと考えましたが、

 詳しくは、 

 

裏切り者ユダの福音書 - 透明人間たちのひとりごと

イエス・キリストにマグダラのマリアなる妻がいて子供まで生まれていたとする大胆な着想をベースに展開する同名の小説を映画化した“ダビンチ・コード”が話題となっていたの...

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 url『裏切り者ユダの福音書』

 並びに、

 

ダ・ヴィンチの罠 裏切者 - 透明人間たちのひとりごと

イスカリオテのユダと言えば、裏切り者の代名詞のような存在ですが、あからさまに、呪われてしかるべき、その忌わしき屈辱に塗(まみ)れた汚名を着せられることも厭(いと...

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 url 『ダ・ヴインチの罠 裏切者』

 などを参照してみてください。

 ヤコポ・バッサーノも同様に何らかの共感
ユダに覚えていたことは裏切りを強調し
非難をするような描き方をしていないこと
からもわかりますが、


       『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ画

 結論から先に言えば ヤコポ・バッサーノの
『最後の晩餐』における裏の主役は、
大皿の上の小羊の頭とその横に添えられて
いる片方の手首なのです。

    

 もう何が言いたいのか、わかりますよね。

 ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』
のトマス(大ヤコブ)の顔と、天を示す
とも密接に関連するもの ・・・


   イエスとヨハネが入れ替えられている

  
   画像元 レオナルド・ダ・ヴィンチの小部屋

    【洗礼者聖ヨハネの首とサロメの物語】 


 レオナルド・ダ・ヴィンチもヤコポ・バッサーノ
も、それをヘロデ・アンティパスによって 斬首
された洗礼者聖ヨハネの首と見なしたわけで、

 そのメタファとなるのが、

『洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ』 ベルナルディーノ・ルイーニ   

 大皿の上に盛られている  

  

 子羊の頭と片方の手首、そして首から
上だけの登場となったトマス(大ヤコブ)
に象徴される謎の指なのです。

    right  

 次回では、

 
 『エマオの晩餐』Ⓐ    『エマオの晩餐』Ⓑ

 その辺りの証左と謎解きを兼ねて二種類の
『エマオの晩餐』を見比べながら、その
深層真相に迫ってみたいと思います。

 「わしらも首だけじゃが」

      

 「疑似絵なのかのぉ」

 いろんな意味で「疑似餌」かもね!

     
     (しょうもな ・・・)

 アンタも首だけだよ !!


     「ほんまや !!」
       

 
『音楽家の肖像』『ウィトルウィウス的人体図』『自画像』
  

   
 「あなたがたのうちの一人が
   わたしを裏切るでしょう」

   
   『洗礼者聖ヨハネ』部分 1513-1516年

  … to be continued !!

コメント一覧

小吉
うーん。よく分からない。
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