と壮絶な生きざま …
そこでは 「天道は是か非か」 が問われて
いるようです。
壮大かつ遠大な歴史劇場の全篇を貫く思想的背景にして
著者である司馬遷の起死回生を期すテーマ(主題)とは …
つまり、「天網恢恢」 の真偽・是非の答えを後世の
人々に迫っているかのようです。
「天の網は粗(あら)く抜け穴だらけで空きだらけのように
見えるけど究極的には悪は必ずその報いを受ける」 という。
いわく、「天網恢恢、疎にして漏らさず」
とした老子の言葉は真実なのか … という問い掛けです。
原典では 「天網恢恢疏而不失」 とあり、「漏らさず」 は
「失せず」 となっています。
また、最近では 「疏」を 「疎」 と表記するものが多いので
ここでは 「疎」 としておきます。
『老子』 第73章にあるこの言葉に対峙した司馬遷に
は疑問を称えるべき理由があり、それがあってこそ歴史書
としての 『史記』 の特異な完成が見られたのです。
『史記』 は並大抵の歴史書ではありません。
中国では、正史と呼ばれる公式の歴史書(二十四史)の
筆頭におかれていますが、他の二十三の史書と異なるのは
歴代の皇帝の命により書かれたものではなく、司馬遷自身
の意志によって最古の時代から漢王朝武帝時代の現代史
に至るまでの百三十巻に及ぶ壮大なる歴史記録なのです。
事実の記録の正確性を根底にして歴史の真実性をその
表層上にとどめずに事象の内側に介在する豊富で多彩な
人間模様、人生物語、歴史群像として記述しているのです。
司馬遷は友人(李陵)を弁護したために武帝の逆鱗にふれ
皇帝誣告罪(ぶこくざい)に問われ死刑の宣告を受けます。
死刑を免れる手立てとしては、朝廷に五十万銭を差し出す
か、宦官に身を落とすか、二つに一つの道しかありません。
司馬遷には五十万銭もの蓄えはなく、かかる災難を恐れた
のか、友人縁者の誰一人として、彼に救済の手を差し伸べる
者はいなかったのです。
孤立無援のなかで男根を切除する陰惨な刑を受けることで
死を免れた司馬遷は、この時から世間で最も卑しめられて
いる宦官となったのです。
彼が宦官に身を落としてまでも生きる道を選んだのには、
臨終の際に父から負託された『太史公書』=『史記』の編述
が未完成のままだったからにほかなりません。
彼が弁護した李陵は都尉(とい)として歩兵五千を率いて、
敵地匈奴(きょうど)の奥深くに進攻したが、匈奴の主力軍と
遭遇し、幾重にも包囲され退路を断たれてしまいました。
死力を尽くして善戦するも刀折れ矢尽きるなか、ついには
李陵は捕らわれの身となってしまったのです。
この報に怒り狂る武帝の様子に、文臣たちは挙(こぞ)って
李陵の非を唱えます。
しかし、友人として李陵の人物たるを知っていた司馬遷は
武帝を前にしても臆することなく李陵を庇い弁護したのです。
その結果が宮刑(男性の機能を切除する)という理不尽な
仕打ちとなって跳ね返ってきたのでした。
(天よ、この罪を如何に問う これが罪と言えるのか)
虫けら同然に臣下・平民の命を弄(もてあそ)ぶ権力者に
対する義憤にも似た激しい怒りと屈辱が『史記』の完成
を急がせる起爆剤になったことは容易に想像できます。
そうしたなかで、過去の歴史において義を貫きながら酷薄
な運命に翻弄される人々や悪徳非道の限りを尽くしながらも
甘い蜜に酔いしれてぬくぬくと生をまっとうするという全く逆
の人生模様を壮大な史劇として生き生きと描写したのです。
「天道は是か非か
天網は正なりや否や」
自らに降りかかった忌わしい出来事をして天に質(ただ)す
疑義の訴求であり、屈辱に呪縛化される己自身の耐え難い
運命に重ねた遡及的な アンチテーゼ だったのか。
それにしても、巷には 「天網恢恢」 をあざ笑うような
事件や出来事に溢れ返っているようです。
ところで、
昨年12月31日に自ら出頭し逮捕された平田信に続いて
オウム特別手配犯の菊池直子容疑者が今月3日に丸17年
の逃亡生活の末に逮捕されました。
彼女の情報から最後に残る特別手配犯である高橋克也
容疑者の逮捕もおそらくは時間の問題かと思われますが …
果たしてどうなるのでしょうか
一方、東京電力女性社員殺害事件の犯人とされながらも
無実を訴え続けたネパール人のゴビンダ・プラサド・マイナリ
さんにも15年ぶりに無実への扉が開かれました。
東京高裁が7日に再審開始と刑の執行停止を認めた決定
を下したのです。
彼らにとっての天網 は、やはり 恢恢にして疎なれど
決して漏れないものとなっていたのでしょうか
「天知る、地知る、我知る、人知る」
所謂(いわゆる) 四知 『後漢書 楊震伝』 によると、
二人の間だけの秘密でも、天が知り、地も知り、我も知り、
相手も知っているから、いつかは漏れるものであるとして …
不正や悪事はいつの日か必ず世間の人に知られるように
なると戒めています。
日本の諺(ことわざ)にある
「壁に耳あり、障子に目あり」 は、隠し事
や秘め事はとかく漏れやすいものだから十二分に注意する
ように … といったニュアンスですよね。
不正や悪事はいずれ発覚して白日の下に晒されるとする
一方で秘密や隠し事は露見しやすいから注意するように …
とは逆さまで面白いものです。
さて、話を 「天道・天網」 に戻しましょう。
『史記』 の編述を進めていくなかで司馬遷は大いなる
矛盾 を覚える史実の連続に 「天道は親(えこひいき)なく、
常に善人に与(くみ)す」 と言われているが、天道というもの
が存在するのなら 「天道は間違っているのではないか」 と
いう疑問に突き当たり 「余は甚(はなは)だ惑(まど)えり、
もしくは所謂(いわゆる)天道は是か非か。」 という言葉が
司馬遷の声となって口を突いて出たのでした。
さもありなん。
… が、しかして、されど、凡夫なる1号 が、敢えて言うと
なれば 「天網恢恢 疎にして漏らさず」 とは
厳然たる事実なのです。
悪人は逃げ遂(おお)せると思っても、いずれどこかで正義
の網に掛かるということです。
正義と言っても、いかなる正義かはわかりません。
公正なる正義に限らず、正義が真理や誠と合致するとも
限らないのです。
正義とは、人によっても、国によっても、また時代によって
も違ってきます。
宗教やイデオロギーの違いでも変化します。
ですから、これが 「正義」 だと大上段から振りかざして
言えるような絶対的な 「正義」 などはないのです。
ただ、万民の調和を害(そこな)わない範囲の意識や意思
がはたらく 「道理」 というものはあります。
その 「道理」 は、遍(あまね)く、広く世間全般にまで
行き渡っています。
それが、「天網恢恢」 なのでしょう。
不正や悪事が発覚せずに罰を受けなかったり、たとえ発覚
したとしても罪に問われずに、罰から免れたとしても、それは
法律という人為による規律や罰則等の網に掛からなかった
というだけのことです。
誰にも知られることはないとしても不正や悪事をはたらいた
ことは本人自身が誰よりもそのことを知っています。
その事実は、本人にも誤魔化せないし、その事柄からは
決して逃れることはできません。
消すことの出来ない苦悩を誘発する心の奥底に疼(うず)く
意識は、廻り巡ってその真実に見合った裁きを与えます。
波及 は 一巡 して、昇華・還元 されるのです。
この世の中を見渡せば、一切合切 において …
いったい何をもって 公正・公平 と言えるのだろうか
同じ人間として生を享(う)けるとしても戦乱の国に生まれる
者もいれば、平和な国に生まれる者もいる。
裕福な家に、あるいは、貧しい父母のもとに、また、病弱な
身体や障害をもって生まれる場合もあります。
このように先天的な差別的境遇には人為は無力です。
私たち自身では如何ともし難い現実がこの世界なのです。
それは果たして、意図された 「天の采配」 なのか
それとも、無為なる 「天の差配」 なのでしょうか
老子 は、
「天の道は、あるがまま(自然体)で、作為で成り立つもの
ではなく、天の網の目は粗く広大なために、私たち人間には
わからないが、天はすべてを把握していて、すべてのものは
あるようにあり、あるべきように収まるのだから 天の差配に
任せるべきである」 と言っています。
人間は自らが作り出した社会の複雑さに誤魔化され、本来
あるべき姿を見失っているのかもしれませんね。
穿った見方をすれば、
もしも司馬遷が李陵の弁護の罪で宮刑に処されなければ
『史記』 の完成はなかったのかもしれません。
ひょとしたら、「天の差配」 とは、
そうしたことをいうのかもしれません。
コメント一覧
出たとこ勝負
出たとこ勝負
温故知新
透明人間1号
何も司馬遷
天の軍配
透明人間1号
てんとう虫
透明人間1号
落ちこぼれの医学生
アテント・パンパース
最新の画像もっと見る
最近の「ひとりごと」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事