このページの画像は、故あって表示されませんが、
連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、
別途、新しく作り直すことにしました。
同じ内容ですが、画像はその限りではありません。
新たなページは、
(以下、本文)
裏切者の代名詞として2000年もの間、
糾弾され続けている十二使徒のひとりで
あったイスカリオテのユダも可哀想です
が、イエスを十字架にかけたユダヤ
の総督ポンティオ・ピラトも哀れです。
彼もまた今日までクリスチャンたちから
罵倒され続けている人物の一人ですが、
「この人を見よ(Ecce Homo)」Wikipedia
エルサレムの人々にイエスを示すピラト
それもユダと同じく「濡れ衣」だと
ダ・ヴィンチは確信していたのです。
ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』でのユダ
ピラトの名は『使徒信条』に記され、
ポンティオ・ピラト plaza.rakuten.co.jp
「ポンティオ・ピラトの名のもとで、苦しみ
を受け、十字架につけられ、云々・・・」と
キリストの処刑 Wikipedia
今日もどこかの教会で、その罪を責め
続けられる告白を受けていることでしょう。
『キリストの磔刑』 ルーベンス
『新約聖書』が宣べ伝えるところの
「膏(あぶら)注がれし者(キリスト)」
がイエスであって、そのことを彼が自覚
していたのなら、むしろ ユダもピラトも
「イエス・キリスト計画」の協力者
であり、決して 蔑まれたり、罵倒される
べき対象ではないはずなのですが ・・・
出典:www.lets-bible.com
ピラトの「濡れ衣」については、
イエスの裁判 sueyoshiccho-catholic-chuech.jp
ユダヤ人を貶めるための方便として
使われたようなもので、シェークスピアの
『ベニスの商人』でのユダヤ商人
シャイロックのような役回りですが、
そりゃ、
「ち・が・う・だ・ろ」
(んなわけないがな)
と、ばかりに、全面否定の十字砲火を
浴びせられそうですが、ダ・ヴィンチの
考える広義の解釈では、大同小異の範疇
に入るものなのです。
イエスの処刑は、
「エルサレムの祭司たちで構成された
裁判(法廷)で死刑の決定が下され、
当時の
ユダヤの総督ポンティオ・ピラト
がOKを出したので実行されたわけで、
ピラトは祭司階級の圧力に屈し、
イエスの裁判 sueyoshiccho-catholic-chuech.jp
手を洗うという象徴的なジェスチャーを
することで、あなた方(ユダヤ人の側)が
決定したことだから、わたし(ローマ側)
の感知することではないということで、
イエスの処刑を了承したのです。
それが、
もしもピラトがユダヤの側の圧力に
屈せずに自分が体現するローマの法に
従って行動していたならば、イエスの
十字架上の死は実現しなかったのです。
『キリストの昇架』『キリストの降架』ルーベンス
言わば、そうした
『マタイの福音書』の記載内容が、
狡猾・非道なシャイロックをして
彼自身が貶められたように、イエスを
拒絶して死に至らしめたユダヤ人
という付会されたイメージがゆえに
否定の集中砲火を浴びるとしても銃弾
がクロス・ファイアする十字砲火で
あるとしたわけですが、
(なんのこっちゃ)
後世に創作されたシェークスピアの
話をダ・ヴィンチが知っているはずは
ありませんよね
『神』の名を簡単に口にすること
は、ユダヤ教ならば極刑に値しても
『神々の会議』ラファエロ・サンティ(1511年)
『神々』がたくさんいるローマでは
、罪には問われないわけで、社会不安
(暴動)の源になる可能性が大きかった
という理由も、実際に起こったわけでは
なく 可能性にとどまるならば、ローマの
法律では追放に処されて終わりでした」
「十字架の上で死なずに、黒海あたり
に追放になっただけのイエスでは、
後の世界宗教 「キリスト教」拡大
の起因にはなりえなかったであろう」
というようなことが
『ローマ人の物語』塩野七生著
に書かれていますが、
『マタイの福音書』を大枠で括れば、
一方にあるそんな意図が見て取れます。
要は、
反ユダヤ的色彩を帯びた思想背景が
『福音書』の中に見え隠れしていると
ダ・ヴィンチには感じられていたのです。
さて、
洗礼者ヨハネが、ガリラヤの領主
ヘロデ・アンティパスの手に落ちて
、斬首されるという悲劇に見舞われた
のは、AD28~29年頃のことでしたが、
『洗礼者ヨハネの斬首』カラヴァッジョ(1608年)
「濡れ衣」という観点から言えば、
洗礼者ヨハネの「斬首刑」も同じ
ように、とんだ災難と言うべきか、全くの
とばっちり、巻き添え、物の弾み …
要するに、詰まるところ、
サロメのおねだりという「流れ弾」
が唐突に飛んできたわけで、
ダ・ヴィンチの考えによれば、
ここにクムラン宗団によって企図されて
いた「アロン」と「イスラエル」という
二人の「救世主」(メシア)のうちの
「アロンのメシア」になるはずだった
「洗礼者ヨハネ・キリスト計画」
は無惨にも頓挫して、
新たにイエスがプロデュースする
単独の「イスラエルのメシア」なる
「イエス・キリスト計画」が発動
されることになったというわけです。
しかも、その実態は計画されていた
「武」によるダビデ的な解放者として
のユダヤ(イスラエル)の「救世主」
である「イスラエルのメシア」では
なく、「愛」と「義」をもって人々を罪
から救い出す「アロンのメシア」と
してのものでした。
車の両輪の如き「愛」と「義」に
貫かれて、ローマからの解放と独立
を推し進めるアクセルと、それを統制
するハンドルが如き「武」を携えての
「二人のメシア計画」によって
、事の成就をはかるはずが ・・・
すなわち、
自動車のスロットル・バルブ(エンジン)
に直結するアクセルとしての「武」
を有する「イスラエルのメシア」と
ドライブを制御するステアリングと
しての「愛」と「義」に裏打ちされた
「アロンのメシア」とが、車の両輪
の如くに相互作用して ローマからの
解放と独立という重大事の成就
をはかるというのが、宗団の企図した
「メシア計画」だったのですが、
いわゆる、
イスラエルの三種の神器
失われたアーク(聖櫃)に納められ
ているとされる「三種の神器」の
うちの「マナの壺」が「愛」であり、
「十戒の石板」が「義」に相当し、
「アロンの杖」が「武」を象徴して
いるわけなのです。
イスラエルの三種の神器 nazo108.sblo.jp
そうした宗団の宗教的クーデターから
社会変革(革命)を惹起しようとした
「二人のメシア計画」であった
ものが 単独の、それも当初の計画とは
違う「贖い(自らが犠牲となること)」
によって人々をその罪から救うという
予定外の「イエス・キリスト計画」
に変更されてしまったのです。
そして、
目ざとくも、そこに謀略の何たるかを
見つけ出していたのが、万能の天才
である我らが ・・・
レオナルド・ダ・ヴィンチだったのです。
結論から言えば、
『旧約聖書』の預言における
真の意味での「救世主」は兄である
「アロンのメシア」(洗礼者ヨハネ)
であって「後継者」として彼を補佐
(サポート)し護衛(ガード)する役目を
「イスラエルのメシア」としての
イエスが担うという計画でしたが、
それが唐突にも、洗礼者ヨハネは
ガリラヤ領主ヘロデ・アンティパス
によって捕らえられ、事態は急展開
をむかえることになるのです。
投獄されたヨハネは打開を模索する
べく弟子をイエスのもとに遣わします。
その時の会話が、
『マタイの福音書』11:2-6に載って
いますので、現代風に翻訳してみます。
獄中でイエスの起こす奇跡について
伝え聞いたヨハネは、弟子たちを彼の
もとに遣わして問いただします。
「来るべき方はあなたですか、
それとも他の人を待つべきですか」
イエスは答えて言います。
「行ってあなた方が見聞きしたことを
ヨハネに伝えなさい。 盲人は見え、
足なえは歩き出し、ライ病はきよまり、
耳しいは聞こえ、死人は、生きかえり、
貧しい人々は福音を聞かされている」
「私につまづかない者は幸いである」
(マタイの福音書11:2-6)
もう少し詳しく解説すると、これ以前の
イエスの公生涯のスタートの場面で、
洗礼を授かりに来たイエスを見た
洗礼者ヨハネはイエスを指さして
出典:muragon.com
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」
(ヨハネの福音書 1:29)
出典:blog.livedoor.jp
と言ったと記されていますが、
『マタイの福音書』ではそのシーン
をこう表現しています。
「そのときイエスは、ガリラヤを出て
ヨルダン川に現れヨハネのところに
来て、バプテスマを受けようとされた」
(マタイの福音書 3:13)
「ところがヨハネは、それを思いとど
まらせようとして言った。
『わたしこそあなたからバプテスマを
受けるはずですのに あなたがわたし
のところにおいでになるのですか』」
(マタイの福音書 3:14)
「しかし、イエスは答えて言われた
『今は受けさせてもらいたい。 この
ように すべて正しいことを成就する
のは、我々にふさわしいことである』
そこで、ヨハネは、
イエスの言われるとおりにした」
(マタイの福音書 3:15)
出典:www.diwanmsr.com
繰り返しになりますが、
ダ・ヴィンチは『福音書』の内容に
疑念を抱いていますので、この記述
が事実であったとすれば、
この時に、来たるべき「救世主」
の到来を察知し、確信したからこそ
ヨハネは「神の小羊」と叫び、
出典:muragon.com
「洗礼を受けるべきは自分だ」
とイエスに言ったわけで、『福音書』
の記述内容が正しければ、
イエスの洗礼 出典:blogs.yahoo.co.jp
この出来事があって以降のヨハネ
の心持ちは感激と歓びの絶頂期に
あったはずなのです
しかるに、それを、獄中からわざわざ
弟子を派遣して、あなたが待望される
「救世主ですか」などと確認を
求めるなどあり得ないことなのです
それならば、むしろ、
ここでの会話のやり取りの真実は
「こうであったはずだ」とばかりに、
ダ・ヴィンチは推理を展開します。
獄中でイエスの起こす奇跡について
伝え聞いたヨハネは、弟子たちを彼の
もとに遣わしてこう訊ねたに違いないと、
― 曰く ―
「(助けに)来る方はあなたですか、
それとも他の人を待つべきですか」
イエスは答えて言います。
「行ってあなたがたが、見聞きしたこと
(奇蹟の数々)をヨハネに伝えなさい」
「私につまづかない者は幸いである」
(マタイの福音書11:2-6)
スケープゴート ボク、羊だよ、ヤギじゃないよ
つまり、ここでのやり取りの要諦は、
(エスケープ・シープ ・・・)
イエスに対する救出の依頼(嘆願)
だったのですが、イエスからの返答は、
「あとのことは自分に任せて 獄中での
生活を甘んじて受け入れてください」
と言うような非情な意味合いのもので
あったと読めてしまうわけです。
その挙句に出た言葉が、
「あなたがたによく言っておく、およそ女
から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより
偉大な者は現れなかった。しかし天の国
で最も小さい者でも彼よりは偉大である」
(マタイの福音書11:11)
そのことを端的に表現しているのが、
『岩窟の聖母』の絵に見られる
洗礼者ヨハネとイエスの入れ替え
(ポジションチェンジ)です
パリ・ルーブル版 ロンドン・ナショナルギャラリー版
ルーブル版では洗礼のための「水」
が用意されていますが、ロンドン版では
「水」は干上がってありません。
つまり、
出典元 レオナルド・ダ・ヴィンチの小部屋
「火」と「水」で洗礼を行うとされる
イエスのもとに「水」がないわけで、
洗礼を授ける資格とともに『福音書』
の記述内容そのものにも大いなる疑問
を投げかけているわけです。
同じく疑問を投じた絵がデビュー作
『受胎告知』(1472年-75年)で、
出典: blogs.yahoo.co.jp
こちらは処女懐胎そのものに異議を
申し立てているわけです。
御使いガブリエルが携える白百合の花も、
おしべが花粉を出して、
めしべが花粉を受ける。
それが受粉(受精)であり、
人間においては受胎となる。
それが自然の摂理であって、生物界で
の決まり事なのです。
その決まり事を「神」自身が破って、
聖霊の力によって、新たな生命を宿すなどと
いうことは、「エデンの園」で
出典:blog.livedoor.jp
「命の木」からその実をもぎ取って
食べる行為よりもずっと罪深いもので
あるとダ・ヴィンチには思えたのです。
さて、
本来は『斬首刑』というタイトルで
の投稿を予定していたのですが、
出典元 レオナルド・ダ・ヴィンチの小部屋
ちょっとした手違いと言うか、トラブルに
見舞われた結果、更新が遅れ 内容的に
かなり違ったものになってしまいました。
「えっ !!」
それって、
「言い訳よね」
単に、トラブルと言っても、
アクシデントなのか、ハプニングなのか
妙な詮索をしないのが
「わたしの流儀 !!」
「だ・よ・ね !!」
でも、きっと、
「裏切り」じゃなくて、
「濡れ衣」だと言いたいんじゃろ
・・・ って、おいおい、
『サロメ』 フランツ・フォン・シュトゥック(1906年)
… to be continue !!
ここにも秘密があるよ。