研究目的・動機
人と会話をしていると、しばしば「私のこの気持ちは誰にも分からない」と感じることがある。しかし、この「自分にしか分からない気持ち」というものは、いったい何なのだろうか。また、それは本当に存在するのだろうかと考えた。
本研究では、後期ヴィトゲンシュタインの思想や彼を取り巻く議論を取りあげ、私的言語について考察することを目的とした。
研究方法
主に文献調査によって行った。私的言語について述べている、ヴィトゲンシュタインの著作『哲学探究』や、関連する諸文献を読み、彼はどのようにして私的言語を批判したのかを整理した。
研究内容
言葉の源は個人の心理的な何かに由来すると考えることは、古くからの考え方であった。そしてこの考えに従うと、私にしか分からない意味を持つ「私的言語」は自明のものとなる。しかし、後期ヴィトゲンシュタインはこれらの伝統に異議をとなえた。心的な存在は言葉の成立には不必要であると考え、言葉にまつわる神秘性を排除しようとしたのであった。
- ヴィトゲンシュタインは言葉の意味についての考察を行っている。言葉の意味とは何かと問われれば、普通我々は"その語が指す何らかの対象"だと答えるだろう。そしてこの「対象」は、具体的に提示できる物理的なものと、イメージなどの心理的なものの2つに分かれるのではないか。
- 前者(物理的なもの)の例・・・例えば「N・N氏」という固有名であれば、そのN・N氏自身が彼の名前の意味そのものだと考えることである。しかし、N・N氏が死んでしまうと「N・N氏」という語の意味がなくなってしまい、そもそも「N・N氏は死んだ」ということ自体が無意味になってしまう。
- 後者(心理的なもの)の例・・・私は「赤い花を摘んできなさい」と言われたとする。このとき、私はまず赤い花のイメージを思い浮かべ、そのイメージと一致する花を摘んでくるのである。これによって私は「赤」という語を理解したことになるのならば、もしその命令が「赤のイメージを思い浮かべる」ことであったとしたら、どうなるだろうか。私は、その命令を理解するためにまず赤のイメージを思い浮かべる。そして、そのイメージと一致するような赤のイメージも思い浮かべなければならない。
ヴィトゲンシュタインは、言葉の意味を何らかの対象に求めようとはしなかった。「言葉」と「言葉の意味」とは、それぞれ独立していて別々に存在するようなものではないと考えたのである。彼は、「考えるのではなく、見よ」と述べ、その言葉が人々の生活(言語ゲーム)の中で、実際にどのように使用されているかを見ることが大切だと考えたのである。言葉の意味とは、我々の実践(言語ゲーム)において確立されるものだと考えたのであった。
- 言語ゲームとは、「言葉が使われている我々の諸活動の全て」のことである。
- 彼は『哲学探究』の中で様々な言語ゲームの例を挙げている。それは、子供が言葉を覚え始めるときのような初歩的な言語使用からはじまり、願うこと、感謝すること、ののしること、のような完結した言語の体系としてのものまで多様である。言語ゲームとは、まさに我々のコミュニケーションそのもののことである。
また、言葉を使用するということは、その言葉の規則を正しく身につけているということでもある。しかしそうすると、この「規則に従う」ということでも、何か心的なものと結びつけようとする考え方が出てくる。
- クリプキが想定した「クワス算㊤」(※2025年注:本当の記号は、〇の中に+)というものがある。例えば私は足し算を習ったばかりであり、今まで57以上の数を扱ったことがないとする。そうすると必然的に、68+57という計算は初めて出会う式だということになる。ここでクリプキは1人の懐疑論者を想定する。その人が主張するには、68+57に対して私が出すべき答えは125ではなく5なのだ。彼は、私がそれまで行っていた算術は、「プラス+」ではなく実は「クワス㊤」であったと主張する。そしてこのクワス関数に従えば、xとyが共に57未満であればx+y=x+yになるのだが、片方でも57以上であればx㊤y=5になるのだ。
- また、同じようなことは言葉に対しても適用できる。私は、初めて訪れたエッフェル塔で懐疑論者に出会う。その人は、私がそれまで「テーブル」という語で意味していたのは、タベヤー(tabair)であると主張する。彼の言うタベヤーとは、エッフェル塔の中以外でのテーブルか、エッフェル塔の中の椅子を意味する言葉である。
- この懐疑は、たとえどんなに無理があっても論理的に不可能な話ではない。私はこの懐疑に答える事はできないのだ。なぜなら今現在の私が、麻薬などの酔いによって、クワス関数やタベヤーを誤用していると考えることはいくらでも可能だからである。
これに対しヴィトゲンシュタインは、コペルニクス的転回とも呼ばれる発想の逆転を行い、規則が人々の行為を決定するのではなく、人々の行為が規則を決定させるのだと考えた。そう考えると、規則に従うためには、ある人の行為の是非を問う言語共同体が必須になる。彼は、「人は、規則に私的に従うことはできない」と述べて、自分だけの言葉の規則に私的に従うということの不可能性を主張したのである。
これらの考えを踏まえて私的言語は批判された。ヴィトゲンシュタインは私的言語を、「話者の直接的で私的な感覚、感情、気分などを指示すべき言語」であると定義している。
- そもそも、感覚を指示するということはどういうことなのか。普段我々が日常言語において、言葉で感覚を指示することができるのは、我々は「自然な表出」を行うことができるからだ。子供が転んで泣くと(表出)、その子は「痛いの?」などと声をかけられる。そして次に転んだときには「痛い」と言葉で表すことができるようになっているだろう。その子は言葉で感覚を指示するようになるのである。
- しかし私的言語では、何らかの表出は行われてはいけない。なぜなら、自分だけの感覚を私的言語として表現しようとするとき、表情や仕草としても表れてしまうと、他人がその語を理解する手がかりになってしまうからだ。つまり、表情や仕草を伴わない何らかの感覚に名前を与えて感覚語(私的言語)を作り、これと感覚そのものとを結びつけるという、非常に孤独な作業が必要になるのである。
- 「私的」という語は、ニュアンスの違いで2種類に分けられる。一つは、他人に譲渡することが不可能という意味での「私的」であり、もう一つは、伝達することが不可能という意味での「私的」である。前者の「私的」は、私のこの痛みはあくまでも私しか感じられないという、まったく当たり前の性質を持つ。彼が「私的言語」として問題にしているのは、あくまでも後者のほうである。
私的言語の典型例として、ヴィトゲンシュタインは感覚日記を想定した。ある私的言語支持者は、自分にしか分からない謎の感覚を「E」(Emotion)と名付け、その感覚を感じた日には日記に「E」と書くのである。その人はこの私的言語の語「E」で、自分だけの感覚を指し示すことができ、有意味なものとして扱うことができると考えるのである。しかし彼は、この語に定義付けを行うことはできないと述べる。定義とは、ある語に一定の意味を与えるということだが、たびたび起こるその「E」が、本当に毎回「E」であるかどうかが証明されないからである。しかし百歩譲って定義付けしたとしても、それをある「感覚」と言うことはできない。なぜなら「感覚」とは、あくまで我々に共通した言語の一つであるからだ。これを突き詰めていくと結局、私的言語とは文節化さえ出来ない何か「音声のようなもの」にまで行き着いてしまう。つまり私的言語というものは、我々の作り出した幻想に過ぎなかったのだ。
- 定義付けができないというのは、私が2度目に「E」を感じたとき、それは最初感じた「E」と本当に同じものであるかどうかが疑わしいためだ。もしかしたら、本当は「G」とでも呼ぶべきものかもしれないのに、私はそれを「E」とするしかない。それが「E」であるかどうかを判断する客観的な基準がないために(規則論の考え方)、その感覚が起こる度に「これはEだ」という定義付けをするしかないのである。
- この「E」が公的言語に昇格する場合がある。たとえば「E」を感じるときは常に、血圧計の針が上がっているという事実が発見されたとする。この場合は感覚日記と違い、その人が「E」を感じているかどうかが客観的に判断できる。また「E」を持つことによって自分の血圧の具合を知ることができ、有意味でもある。そして「E」を間違って認識しても、また、今感じているそれが本当に「E」なのかどうかが曖昧でも、全く問題はない。なぜなら私が今「E」を感じているかどうかは、血圧計を見れば他人でも分かるからだ。このように、客観的な出来事と結び付けられるならば、「E」は晴れて公的言語に昇格することができるのである。
- しかしこのことを裏返せば、「E」それ自身はあまり重要ではないことが分かる。
考察
ヴィトゲンシュタイン研究者の中には、彼の議論だけを以て、私的言語は完全に否定されたと考えている人がいる。例えば黒崎宏氏は、彼の著作の中で「したがって「私的言語」とは、他人には感じられない話者の感覚を指示する語、そして、その話者の感覚がその語の意味である、と考えられる語、によって構成される言語、なのである」と定義し、「私的言語は論理的に不可能である、という事を物語っている」と述べている。もし、私的言語が本当にそのようなものであるなら、それらはヴィトゲンシュタインによって論破されたと考えることが出来るだろう。
しかし、我々(少なくとも私)が日常的に会話を交わす中で、ふと感じるような「私にしか分からない気持ち」というのは、彼の定義する私的言語とは違うと思う。この気持ちはあなたには分からないわ、と思うとき、大切なのはあくまでも自分の気持ちであって、それを指し示す言葉のようなものではないのではないか。愛するペットが死んだとき私は、言葉では表せないほどの悲しみを感じたことがあった。そして、この気持ちがいかに大切で、私にとって大きな存在であるかを感じた。というのも、仮に他人が全く同じ体験をしたとしても、私の気持ちを分かるのは私でしかないと思うからだ。
ヴィトゲンシュタインが私的言語を批判したのは、そもそも、言葉は個人の持つ内面的なもの、観念的なものに由来するという主張を放棄したいためであって、そこに私的な体験が存在すること自体を疑ったりしたわけではなかった。しかし、彼が言語ゲームにおいて、個々人の持つ心的現象のようなものは、それほど重要ではないと考えていたことは事実である。
子供が言葉を覚え始めるような言語ゲームでは、個人の内面的なものは重要視されないということは納得できる。しかし一旦言葉を習得し終えたとしたら、この場合はむしろ、言葉の限界を感じることのほうが多い。悲しさ1つにしても、人によって抱く感情は様々だ。それらは人の数だけの「悲しさ」があり、例えば「悲しみa」「悲しみb」・・・と表現されるべきものかもしれないのに、言葉はそれらをひっくるめて「悲しい」と言うことしかできない。これは、我々の言葉が「伝達不可能」ではなく「譲渡不可能」という意味での私的さを持っているからだと思う。言葉は、ある意味で私的言語なのではないか。私はこのような意味で、自分だけの気持ちを表すための言葉は「言語」として呼ばれても良いのではないかと思っている。(※2025年注:次の段落も含めて、突っ込み所しかありませんが・・・スルーして下さい。涙)
ヴィトゲンシュタインに従えば、他人に伝えられないものは意味を失ってしまうように思えるが、この気持ちは、他人に伝えられるか否かでその価値を判断できるとは思えない。私は、彼の私的言語批判によって、自分の中のこの気持ちまで無に等しい存在として考えられてしまうのには納得がいかない。ましてや黒崎氏のように、ヴィトゲンシュタインの言う「私的言語」が不可能だからといって、私的言語一般(※2025年注:なにこれ?)が不可能だと言ってしまうことは、無意味なことでしかないと思うのである。
目次
1.はじめに ・・・1
2.私的言語 ・・・1
2.1 『哲学探究』 ・・・1
2.2 私的言語とは ・・・2
3.ヴィトゲンシュタインの考察 ・・・3
3.1 言語ゲーム論 ・・・3
3.2 規則のパラドックス ・・・7
3.3 私的言語批判 ・・・9
3.4 私的言語批判の応用としての独我論批判 ・・・12
4.考察 ・・・14
5.おわりに ・・・16
注 ・・・17
参考文献 ・・・18
参考文献
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます