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S&N

創価学会学会員な彼女と非学会員な私。

F取り

2005-09-15 02:26:43 | 選挙活動
創価学会では、非学会員の知人に公明党への投票をお願いすることを「F 取り」というようだ。F は Friend(友人)の略と思われる。

さて、先日の総選挙の際、私の彼女も「F 取り」を行っていた。私と一緒にレストランに食事行った際に、レストランの方に選挙へのお願いをしていたこともある。あるレストランの方は「公明党」を紙にメモしてくれたため、彼女はかなり喜んでいた。彼女のお願いが受け入れられたと感じたのであろう。

また、彼女の学生時代の友人にも連絡し、公明党への投票をお願いしていたようだ。しかし、昔から気心も知れているだけに、学生時代の友人からは、かなり辛らつな反対意見を受けたらしい。つらい思いをしたと言っていた。

私は、彼女に

「何故そこまでつらい思いまでして F 取りをするの?」

と聞いてみた。すると、彼女はこう答えた。

「訓練だから。」

私は意味が分からず、

「何の?」

と質問したが、彼女は黙ったままだった。その後、会話は完全に別の話に移った。

さて、彼女の言う「訓練」とは何だったのだろうか?
それは、「他の人にお願いしにくいことをお願いする」ことに慣れるための訓練だったと、彼女との日々の生活の中で私は感じた。訓練をすることで自分を高めることができるという思考のようだ。

確かに、実行し難い事を実行するのは、自分を高めるし、困難な事に立ち向かうのは良い事だと私は考える。

しかし、それは他人の気分を害さないという前提が成立する際にのみ正しいと、私は思う。もちろん、議論する中で他人の気分を全く害さないことは、ほぼあり得ないだろう。しかし、せめて相手の立場に立ち、相手の気持ちを考えることは必要だろう。

選挙をお願いされた人はどう感じたのだろうか?
F 取りがつらいのは、相手の気分を害しているからではないか?
選挙という国の行く末を決定する重要なイベントで、訓練をする必要があるのか?

選挙でなくとも我々の人生そのものが訓練であると私は考える。人生の中で意見の異なる他人と衝突することもしばしばある。議論によって相手の考えを変えれたり、変えれないこともある。しかし、たとえ考えが異なっていても、互いを尊重し合い、異なる考えを一つの考えとして認めることが重要なのではなかろうか。それこそが本当の「訓練」ではなかろうか。