S&N

創価学会学会員な彼女と非学会員な私。

下敷きになった聖教新聞

2005-11-28 02:30:37 | 聖教新聞
先日、彼女が欲しいと言った植物の苗木を彼女に贈った。その苗木を育てるための鉢などの道具一式も贈った。そして、彼女の家で、苗木を鉢に植え替えるのを手伝うことになった。

最近はめっきり冷えてきているので、室内で作業することとなった。

その際、土が床に落ちるのを防ぐために、新聞を彼女が床に敷いた。聖教新聞をである。彼女は4部の新聞を床に敷いた。驚く事に4部とも同日の同じ聖教新聞であった。

マイ聖教と呼ばれるものであろうか。彼女は、ご両親と妹、4人で同居しているのだが、4人共それぞれ別々に聖教新聞を購読しているのである。

私は、作業中にすぐ傍に居た彼女の妹に尋ねた。

「新聞、床に敷いても良いんですか?ゴミにしても良いんですか?」

すると、あっけらかんとした回答が返って来た。

「いいよ。」

。。。

である。

「聖教新聞は素晴らしい。」
「君(私)こそ読むべきだ。」

と私に勧めている新聞をである。

「やはり新聞を勧めるのはノルマのためなのか。」

と私は感じてしまうのである。「聖教新聞は素晴らしい」という言葉が色褪せてしまう。

他人の考えを認めるということ

2005-11-28 02:11:56 | 日常
最近、彼女の家を訪ねる機会が多くなった。訪ねる度に彼女の母親に夕食をご馳走して頂く。

夕食を頂く前には、大体彼女の父親との創価学会関連の会話に花が咲く(爆発すると言った方が良いのかもしれない)。ちなみに、彼女はその間寝ていたり(フリをしているのかもしれない)、食事の準備をしている事が多い。

彼女の父親と会話する度に、私は、

「疑問云々以前に、自分にとっての必要性が感じられません。」

と言う。すると、彼女の父親は、

「無宗教の人は良くそういうことを言うよね。」

と言う。また、私は、

「自分は、人の考えを理解して、認めたいんです。他の人の考えを認める事が重要だと思うんです。例え、相手の考えが自分の考えと違っていても、自分は相手の立場とは違うのだから、私の考えが相手にとって必ずしも正しいとは思わないからです。」

とも言う。彼女の父親は、私の考えに対して以下のように反論する。

「他の人の考えを認めるという君の考えが良く分からないんだよね。自分が正しいとは思えない事をどうして認めるのかが。」


私には自殺をした知人が何人かいる。私自身は、自殺することは絶対に正しいとは思っていない。自殺することは現実から逃げているように私には思えるからだ。自殺する前に、自殺する位の覚悟で努力すべきだと私は思うのである。自ら命を絶つ覚悟があれば、大抵の障害は乗り越えられると私は思っている。

しかし、私は自殺した知人ではない。それ故に自殺した知人の苦悩を完全に私が理解できるとは思わない。完全に理解できる程、私は人生を悟っているような偉い人間ではない。

私は、自殺する事を許せない。しかし、自ら命を絶つ事を選んだ知人を責める事はできない。むしろ、自殺する事を止める事ができなかった自分の無能さ、無力さを恥じるだけである。

人の考えを否定することは簡単であると私は思う。自分には理解できないような考えを認める事は難しいことだろう。しかし、認める努力を怠りたくないと私は思うのである。

他人の考えを認める事が、他人を尊重する事になるのだと私は信じている。

事実を受け入れるということ

2005-11-27 03:28:44 | 日常
信じ難い事実もある。

しかし、事実は受け入れなければ、前には進めない。
事実から逃れては、何も解決しない。

事実を事実として受け止めた上で、考え、行動したいものだ。

事実から逃れて生きていても、異次元世界に迷い込むだけだ。

異次元世界の常識は、現実の世界では通用しないのだ。

記念座談会

2005-11-22 19:15:12 | 会合
11/18 が創価学会の創立記念日なのだそうだ。75周年になるらしい。先日、記念座談会が彼女の家で開催された。座談会があるのは事前に知っていたが、私は、彼女から誘われてもいなかったので、見に行くつもりもなかった。積極的に行きたいとは思わないのである。

しかし、当日になって彼女から連絡があり、「座談会に来きてみない?」と誘われた。何事も経験は大事だと私は思う。そのため、私は、参加することにした。

彼女は仕事で遅れるようなので、彼女の家の前で彼女と待ち合わせ、一緒に彼女の家の中へ入って行くことにした。さすがに、自分のみで座談会に行く勇気を私は持ち合わせていないのである。

彼女の家に入ると、御書の勉強会のような事がされていた。大白蓮という書籍の一部を読み、一人の方が御書の解釈について解説されていた。御書の解説が終わると、連絡事項(と思われる事)などが報告され、唱題をあげ(3回南無妙法蓮華経と唱えること)、座談会は終了したようだ。座談会後には、皆さんが、お茶を飲んで、雑談されていた。

さて、座談会中の連絡事項の中には、任用試験なる試験を、予定通り全ての受験者が受験したという報告があった。受験することを逃げる方もいるのだろうか。嫌々ながらも、「受験する」と言わざるを得ない状況の方もいるのだろう。

また、沖縄のある町の町長が創価学会の事を賞賛した、という報告もあった。その町長の親も以前町長であったらしい。その親が町長であった際に、創価学会を弾圧したらしいのだ。そして、創価学会を弾圧した町長の息子が創価学会を賞賛したとあって、創価学会は正しいのだ、という結論になっていた。

ところで、彼女の家の中には、彼女の家族を含め、10 人以上はいた。もちろん、全て創価学会の方である。中には、どこかの会館で見かけた方もいた。少し驚いたのは、参加している方の平均年齢が微妙に高そうだったことだ。ほとんど壮年部の人ではなかろうかと思うくらいである。

そういう座談会だったのだろうか。それとも、人手不足なのだろうか。

そして、中には、婦人部長なる方もいらっしゃった。彼女の父親に、

「婦人部長に疑問を聞いてみたら?」

と促された。その時点で、私は創価学会の方の感情を逆撫でしないような言葉が思い浮かばなかったので、何も聞かなかった。何も考えずに発言しても良いのが、彼女が後で彼女の父親などに攻められるような気がしたので、婦人部長の方には何も聞けなかった。

疑問は山のようにあるが、創価学会の方と話す際には、言葉を捜さなければならないため、質問するのも骨が折れる作業なのである。

約束することを止めた時

2005-11-20 00:14:54 | 日常
彼女と事前に約束することを最近はしなくなった。特に私からはほとんどしなくなった。

以前、彼女に約束が連続して破られて、私は多少なりとも怒ってしまった。私は自分自身の器の小ささを後悔した。

約束が破られて怒ってしまう自分が嫌になっていた。
彼女との約束は破られるものだと思ってしまう自分が嫌になっていた。
約束が破られることを恐れてしまう自分がいた。

そのため、今では私から約束をすることはほとんどなくなっている。彼女から約束をしてくることも少なくなってきている。会う約束をするのは、本当に直前になってから、もしくは、当日になってからである。

事前に約束をしないから、遠出する約束もしなくなってきているし、洒落たレストランに行く時も予約をして行くことはほとんどなくなった。彼女は旅行やレストランに誘って欲しいと思っていると私は感じる。しかし、私からは約束することができないでいる。

彼女は、創価学会の会合の約束だけは、事前に私と約束しようとしてくる。
私とは創価学会以外の約束は守れないのだと私は一瞬感じてしまう。

所詮、私との約束は創価学会の会合には勝てないのだと私は思わざるを得ないのである。

いつも私との約束を守って欲しいのではない。

野球選手の打率くらいには守って欲しいと思うのである。
約束出来そうにないときは、約束して欲しくないと思うのである。

私の精神年齢が幼すぎるだけなのだろうか。

「ありがとう」という言葉

2005-11-19 01:25:30 | 日常
先日、音楽祭なるものに私が参加した事に関して、彼女に

「来てくれて、ありがとう。」

と言われた。彼女からの心からの感謝の言葉であったように私には感じられた。

この感謝の言葉を聞いた私は複雑な気分になる。

創価学会に迎合するような行動でしか、彼女を本当に喜ばせることは私にはできないのだろうか。

私の人としての価値は「創価学会」に対して肯定的であるかどうかのみで判断されているのではないか。

私が安易に創価学会に理解を示すような(理解しようとする)行動をするのは、彼女にとっては優柔不断で失礼なことになるのではないか。

感謝されても素直に喜べない私がいる。

嘘をつくということ

2005-11-16 23:44:57 | 日常
人に嘘をつくのは良くないと私は考える。

嘘をつかれた人は傷つく。嘘をついた人を信じられなくなる。
嘘をついた人も傷つく。後ろめたさが頭から離れなくなる。

嘘つくことで精神的に人を救えることもあるかもしれない。
しかし、自分の価値観で嘘をついても、相手のためになるとは限らない。
相手の価値観を理解して、嘘をつかなければ、相手のためにはならない。
また、どんなに相手のためになる嘘であっても、その嘘をついたという事実を消すことはできない。
嘘をついた人は、その事実を背負って生き続ければならない。

そして、大抵の嘘はすぐに見破られる。

嘘をついてまで人の考えを変えようとしても、それは無駄である。
嘘が嘘だと判った時、人の気持ちは離れていく。

嘘で作り上げたものは、何れ音を立てて崩れていく。

現実社会で生きていくためには人は嘘をつかねばらない時もあるのだろう。
しかし、嘘をつく事に慣れてしまうような人間には私はなりたくない。

合唱コンクールとその後

2005-11-14 02:57:54 | 会合
今日は創価学会の音楽祭となるものに行ってきた。彼女は忙しいらしく先に会場に行っていたので、私は、彼女の父親、彼女の妹、彼女の妹の友達と共に会場まで一緒に向かった。

さて、彼女は、今日まで、時間と体力を削って、合唱の練習をしてきた。しかし、前日になって役員なるものに割当てられてしまったらしい。合唱には参加できずに他の作業をしなければならないようだ。それにしても、前日に役割を割当てるというのは、少し無茶ではないかと私は思ってしまった。彼女の練習が無駄になったように私には感じられ、少し彼女が可哀想になってきた。彼女は無駄だとは思わないのだろうが、運営側にはもう少しスケジューリングをきちんとして欲しいものだと私は思ってしまった。

私達が会場に着くと、彼女は何やら作業を行なっていた。ちょっと表情が暗かった。後に聞いたのだが、彼女は体調があまり良くなかったらしい。体調が悪いならば、代わってもらえば良いのにと思ってしまった。代わってくれるような人はいなかったのだろうか。とありえず、私は、作業の邪魔をしては悪いと思い、彼女とはあまり話さずに会場の中へと入って行った。

そして、彼女を除いた私達一行は、テレビ画面で合唱を観賞することとなった。テレビ画面では、メイン会場の様子が映し出されていた。1つの会場がメイン会場となり、そのメイン会場の映像が各会場に衛生中継で配信されていたようだ。各会場では、メイン会場の映像に合わせて合唱するようだ。合唱が始まる前に幾つか話があった。一つは活動体験なるもので、創価学会の活動の中での苦労話や功徳話が語られていた。他には、池田副会長のスピーチがあった。さらに、池田名誉会長からのメッセージも読まれ、それを聞いた学会員の方は感動されていたようだ。

幾つかの話や挨拶の後、いよいよ合唱が始まった。ソプラノ、アルトといった各パートでそれぞれソロをするような方が居り、プロ?とも思える程上手かった。いくつかのソロがあった後、大人数での大合唱になだれ込むという構成であった。かなりの人数であったので迫力もあった。参加されている学会員の方は今日のために練習を頑張られたのであろう。彼女などは体調を悪くしてまで、練習していた程である。練習している方の努力を思うと、何かいたたまれなくなってきてしまった。

合唱も終わった直後に池田名誉会長からメイン会場の方に電話が入り、メッセージが伝えられたそうだ。そのメッセージが会場で読みあげられると、学会員の方の中には涙を流されていた方が少からずいた。「ありがとうございます。」というのがその方達の唇の動きから見てとれる。さらに、合唱を聞いていただけの方達の中にも涙を流されている方が少なからずいた。彼女の妹も涙を流していた。何か感じる事があるのだろう。

こうして音楽祭は終わった。

何かを大勢で同時に成し遂げることで、連帯感が生まれ、結束を強めることができるのだろう。

合唱コンクール(?)への誘い

2005-11-12 01:18:18 | 会合
今度の日曜日に創価学会に関連した音楽祭があるそうだ。ベートベンの第九を彼女は他の学会員と一緒に合唱するらしい。

ところで、一時、彼女が私を会合などに誘う事が減少してきていた。彼女は誘わないでおこうとしていたらしい。私が創価学会に徹底的なまでに批判的であると彼女は思い込んでいたからだ。私が批判的でないとは言わないが、頭ごなしにどなるといった強い批判はしないように私はなるべく気を使ってきたつもりなのだが(まだ、気の使い方が足りないのかもしれないが、若気の至りという言葉もある)。それにしても、彼女だけでなく、創価学会の学会員の方は、少しでも批判した人間を(創価学会の事に関しては)相手にしないような傾向があるように私には思えてしまう。批判する人間には何を言っても無駄だだと思い込んでしまうのではないだろうか。学会員の方にとって、創価学会は identity そのものだろうから仕方のない事なのかもしれない。

最近、創価学会に関しては、彼女と本音の(本能に委ねた?)会話をすることが難しいと私は感じている。創価学会関連の会話の中では、優しい気持ちで相手の話に耳を傾け、優しい言葉で自分の思いや考えを相手に伝えなければならない。難しいことだが、実践できるように私は努力している(つもりである)。創価学会云々に関わらず、人に優しく接する事は悪いことではない。これも、私自身の人間性を高めることだと信じて努力する今日この頃である。

話は逸れてしまったが、その甲斐あってか(?)、つい最近は、会合への誘いが増えてきたように思う。嬉しいような、悲しいような、複雑な気分である。

今回は、合唱を見に来て欲しいと彼女から誘われた。そして、私は行くことにした。飛び入りで合唱に参加もできると言われたが、さすがにそれは断り、見に行く約束だけをした。そもそも、私が第九を歌ったのは小学生時代が最後であるし、歌詞も当然記憶していない。声変わりもしているし、昔のように歌えるわけもない。ただ、第三者的な立場(完全にそうであるが)から、音楽祭を客観的に見てこようと思う。

「結果」というもの

2005-11-08 17:32:34 | 日常
彼女や彼女の父親はしばしば次のようなことを発言する。

「結果を出さないと。」

ここでいう「結果」とは、折伏した方の人数や新聞購読を始めた方の人数、功徳などの正の意味での成果を意味するようである。

ところで、資本主義社会では利益という「結果」がなければ社会が成り立たない。日本が資本主義であるかどうかは私には断定できないが、少なくとも企業では利益を上げなければ、企業は成り立たない。

「結果」は生活を成り立たせる上で重要であろう。しかし、人間社会において「結果」が全てだとは私は思わない。例え何かに失敗したとしても、失敗に至るまでの「経過」で得られた経験は、何事にも代え難いものではないだろうか。「経過」があるからこそ「結果」があると私は考える。

「経過」を無視した「結果」は、その瞬間だけは良いのかもしれない。しかし、長期的にはどうなのだろうか。

確かに、利益を追求する企業が結果を重視するのは、ある程度仕方ないのかもしれない。しかし、心を支えるための宗教には「過程」も重視して欲しいと私は思う。

「経過」を無視して、「結果」だけを追求しても、上辺の、形だけの「結果」しか得られないだろう。

形だけの信心では意味がないだろう。
「形から入る」という言葉もあるが、宗教には当てはまらないのではないか。

私は、上辺や形を重視している人に対しては、上辺だけの付き合いしかできないかもしれない。