S&N

創価学会学会員な彼女と非学会員な私。

彼女来襲

2005-09-30 01:27:20 | 日常
昨日は、彼女が私の家に来てくれた。私が嬉しかったのは、私が迎えに行かなくても、電車ではるばる私の家まで来てくれた事である。ちなみに、彼女と私の家は、それほど近くない。車で 30 分程度はかかる。その距離を彼女が来てくれたのが嬉しいのである。それほど遠くもないかもしれないが。

今週の初めは、彼女の体調が悪かったのでちょっと心配だったが、昨日会った際には、かなり回復していたように見えた。彼女は、もともと体が弱いタイプなので、元気な彼女を見てちょっと安心した。彼女も最近仕事が忙しいらしく、昼飯を食べれない時があるらしい。体が弱いのだから、無理してでも食べろと彼女に伝えた。体があっての仕事なのだからと私は思うのである。

そんな彼女は今日の夜は、遅くまで会合だったらしい。今週は、彼女の体調はそれほど良くないのだから、たまには休んで欲しいものだ。私に取っては会合よりも彼女の体調の方が重要なのだ。

信心のやり方には人それぞれあると、彼女は言う。仕事の都合などでたまにしか会合に行かない学会員の方もいれば、毎回会合に行く学会員の方もいるそうだ。

彼女には、彼女の体を大切にして、彼女のペースで会合に行くようにして欲しいと私は思う。

彼女の父親の外部に対する感覚

2005-09-30 00:51:29 | 折伏
先日の総選挙の際に彼女の父親とお話しさせて頂いたことは以前この blog 中で述べた。彼女の父親との話の一部で思ったことがあるで書いておきたいと思う。

話の最後の方で、彼女の父親に、

「友達や家族の人に公明党への投票をお願いしてくれ。」

と言われた。私は、投票は有権者それぞれが考えて投票するものだと考えているので、私にはできないことであった。

この彼女の父親の発言を聞いて、私の考えや感覚を理解してもらえていないと感じた。

ところで、創価学会では創価学会以外の世界のことを「外部」と呼ぶようだ。非学会員の私も外部の人間ということになる。

外部の人間にとって、投票とは誰かに頼まれた政党や候補者にするものではないと私は考える。少なくとも私は自分の頭で考え抜いて結論を出したいと思う。また、投票とは他人にお願いするものではないとも私は考える。あくまで、私の考えであるから、他の外部の方にとっては違うのかもしれない。しかし、私と同じ考えを持った外部の方は少なからず存在するのではないだろうか。実際、私の友人のほとんどは、投票に関して私と同じ考えを持っている。

彼女の父親は、私のような外部の人間の考え方を理解しているのだろうか。
理解していれば、私に冒頭のようなお願いはできないのではないだろうか。

彼女の父親は、彼女の父親の考えを私に押し付けているように私は感じてしまう。私の立場に立って物事を考えてくれていないような気がしてしまう。

創価学会の考え方を広めたいのであれば、外部の人間の考え方を理解して欲しいと私は思う。理解した上で、外部の人間の考え方を変える努力をして欲しいと思う。外部の人間が考え方を変えるかどうかは別問題であるが、そのような努力が他人を説得する上での大事な事であるように私は思う。

創価学会以外の事では、彼女の父親は本当に良い人だと私は思う。だが、創価学会の事になると、周りの外部の事が見えていないように思えてしまう。

彼女の父親を良い人だと思うからこそ、私は悲しくなってしまうのである。

彼女と彼女の父親の他宗教に対する感覚

2005-09-29 00:19:56 | 折伏
先日、総選挙の際に彼女の父親にお会いし、話をさせて頂いた。最初は、選挙の話だけであったが、途中から創価学会の話が中心となった。その際に、私は、創価学会に限らず、他の宗教にも良い部分はあると思うという旨を発言した。そして、キリスト教の「左の頬を打たれたら、右の頬を出せ(微妙に聖書の言葉とは違うかもしれない)」には、なるほどと私が思える部分もあるとも発言した。すると、

「普通に考えておかしい。頬を打たれたのに、頬を差し出さないだろう。やり返そうと考えてしまうのが普通だろう。」

というご意見を多少きつい口調で頂いた。私は、「やり返そうとはするな」という事ではないかと反論したが、やはり、

「それは普通ではない。」

とご意見を頂いた。なお、後で聞いたのだが、彼女も同じ意見らしい。私はキリスト教徒ではないため、私の解釈が正しいという確信はない。しかし、あながち外れているとも私は思っていない。解釈の問題なので、いろいろな意見があるのは当然かもしれない。

ところで、私が耳にした創価学会の教えを、私の解釈で反論すると、彼女や彼女の父親からは怒りに似た表情と共に猛烈な反論を受ける。間違った解釈なのだと言われる。どうして悪い方にしか取れないのかとも言われる。

一方、彼女や彼女の父親のキリスト教に対する意見も、彼女ら独自の解釈によるものである。その上でキリスト教がおかしいと判断しているのである。キリスト教徒ではない私ですら、何故そこまで悪い方に取るのだろうかと感じてしまう。

彼女や彼女の父親の発言を聞いていると創価学会が他の宗教に対して排他的であるように思えてならない。ただ、私の創価学会の教えに対する反論も、無宗教な人間による排他的な考えなのかもしれない。

それにしても、私の反論やキリスト教の教えに対して、そこまで猛烈に反論しなくても良いのではないかと私は感じてしまった。

家族と会合

2005-09-27 16:16:07 | 日常
2、3日前から彼女は体調が悪いようだ。先日は、会う約束をしていたものの、相当体調が悪いらしく、数分だけ会ってから私が彼女を家に送った。

昨日の夜にそんな彼女からメールがあった。体調が悪く夕食を食べていないのだそうだ。一人で食べに出る元気もないようだ。御両親や妹と同居しているのだから、家族の誰かに夕食を作ってもらうなり、買って来てもらえば良いのにと私は思った。

しかし、彼女の家では会合があったらしい。どうやら、彼女の家は創価学会の会合が開かれる「拠点」というものになっているようだ。彼女の父親、母親、妹なども参加していたようである。そのため、彼女は夕飯が食べれなかったらしい。なお、彼女は体調を理由にその会合には出ておらず、彼女の部屋で休んでいたようだ。その会合は、夜中まで続きそうだったらしく、夜中まで夕食が食べれそうにないと彼女は私に言ってきた。

体調が悪いときに食事を取らないと、より体調が悪くなると考えた私は、彼女を夕食に連れ出した。体調は悪そうだったが、食欲は旺盛で、ちょっと元気が出てきたように見えた。しかし、あまり遅くまで外に連れ出していると、体調が悪化すると思い、小一時間で昨日は別れた。

学会員の方にとって、家族と会合とではどちらが大切なのだろうか。
学会員の方にとって、今回のようなことは当然なのだろうか。

今回の件は「たまたま」であったと私は信じたい。

いつかの同時中継

2005-09-25 07:05:49 | 会合
weblog を始めたのがつい最近であるから、時系列が前後してしまうが、いつか行った同時中継のことを書いておきたいと思う。確か 5 月の GW 辺りだったと思う。

話の内容は、あまり変わりばえがしなかったように私には感じられたので、あまり良く憶えていない。しかし、その同時中継の会場に入場する際に、小さなホッチキスなどが入った文房具セットを渡された事はよく憶えている。その文房具セットはどこにでも売ってそうなものであったが、彼女は何度も有難いと言っていた。

私にとっては、文房具セットはあまり有難くなかった。というのも、大雑把な私が扱うと、この手のものは簡単に壊れてしまうからだ。また、私は既に文房具をいくつも持っているので、今更もらっても使わずにホコリを被ってしまうのが目に見えていた。

文房具セットは私にとっては必要なものではなかった。本当に必要な人に使って欲しいと私は感じた。だから、私は、会場から去る際に文房具セットを返却した。彼女には私の行動が理解できなかったように見えた。

全ての学会員の人は、受け取った文房具セットを本当に有難いと思ったのだろうか。その方達にとって本当に必要なものだったのだろうか。

学会員の方が身を削って収めている財務や新聞代で、文房具セットが購入されたのだと考えると、私は無性に悲しくなった。

文房具セットを購入する代わりに、本当に困っている人に寄付したり、医薬品を購入してあげて欲しいと私は思った。学会員、非学会員の分け隔てなく。

マインドコントロール

2005-09-25 06:20:20 | 日常
マインドコントロール (Mind Control: MC と略されることもあるようだ) という言葉に対して一般的にはどうしても負のイメージを持ってしまうように私には感じられる。しかし、私の考えでは、マインドコントロールとは人の考えの基になるものを植えつけることである。つまり、マインドコントロールにも良いものと悪いものがあるということだ。なお、何が良くて、何が悪いのかは、個人の価値観に依存するだろう。

私の両親 (無宗教) は、私が小さい頃から、

o 自分がされて嫌な事は他人にしてはいけない。
o 他人に迷惑は掛けてはいけない。

と、ずっと私に言い続けて来た。私もこれらの事が当然の事だと思い込んで来た。成人した今でも、両親から教えられた言葉が間違っているとは思わない。だから、このケースは良い意味でのマインドコントロールであると私は思う。もしかしたら、他人に取っては良い意味ではないのかもしれない。例えば、後者の「他人に迷惑を掛けてはいけない」という事をあまりに気にしすぎて、人に頼れなくなってしまう人もいるという。他人に迷惑を掛けずに生きて行くのは不可能なはずなのに、それに気付けなくなってしまうのだろう。そういう人に取っては、悪い意味でのマインドコントロールであったということになる。

また、学校の先生、祖父母、両親などから、

o 悪い事をすると罰があたる。

とも、私が少年だった頃言われ続けて来た記憶がある。今でも罰のような事が私に生じると、以前犯してしまった悪いことへの罰かなと考えてしまう自分がいる。これもまた、一種のマインドコントロールと言えるだろう。子供に悪いことをさせないために、大人が考え出した、教育方法であると私は思っている。これは、悪い事を防止するという意味では良いマインドコントロールと言えるだろう。しかし、人によっては、罰を恐れ過ぎるが故に、自分にとって目上の人の言葉が常に正しいと思い込んでしまうかもしれない。そのような人は、自分の価値観で正しい事と悪い事との判断ができなくなってしまうのではないか。

人は誰でも、多かれ、少なかれ、マインドコントロールの影響を受けていると私は考える。自分の行為が本当に正しいのかどうかを客観的に考え、判断していくことが、マインドコントロールから逃れる術だと私は考える。マインドコントロールから逃れ、自分の力で判断することが重要であると私は思う。

人は考えるからこそ、人であるのではないだろうか。

約束

2005-09-21 01:07:36 | 日常
創価学会の会合は、直前に決まることがようだ。また、月の定期的な会合はその月の初めにならないと分からないことが多いようだ。そのため、学会員である彼女は私との約束を変更することが多い。

会合による変更は、彼女がしたいことのために生じるのだから、私は理解できる。また、仕事の都合による変更も同様に理解できる。

さらに、友達との約束による変更も、私は理解できる。しかし、あまりにも約束の変更が頻繁かつ連続で生じると、私も気分を損ねてしまう。こういう際に私はまだまだ小さな男であると感じてしまう。

彼女は、

「会おうと思えばいつでも会えるので変更してしまう。」

と言う。

しかし、「いつでも会える」とは限らないと私は考える。御互い仕事を持っている身であるから、忙しい時には、二人の都合が合わない時もある。だからこそ、約束は出来る限り守っていないと、会えない時期が続く可能性がある。会えない時期が続くと、二人の心も離れてしまうだろう。

彼女は、数ヶ月会えない時期があっても、仕方無いと考え、平気なのだそうだ。しかし、「仕方無い」と結論付けるのは、良いことではないと私は考える。「仕方無い」で済ましてしまうと、全てが終わってしまう。

忙しい時にこそ、時間を作り、会うことが重要であると私は思う。
忙しい時にこそ、二人の関係が強いものだと私は実感するのである。

なお、私の彼女は私より年上だが、大人の女性というものは、「仕方無い」と簡単に諦めることができるものなのだろうか。

信じるということ

2005-09-19 23:20:23 | 日常
何かを信じられるということは素晴らしいことだと私は思う。

人は弱くもあり、強くもある。人は「考える」ことが出来るからこそ、考え、悩んでしまう。そして、その悩みを乗り越え、強くなっていくのだろう。時に、自分一人で乗り越えられないこともあるから、他の何かを信じることもあるのだろう。

信じることは素晴らしい。信じることでココロが救われることもある。しかし、信じることで全てが救われるわけではない。自分の力でつらいことに立ち向かう必要もあるはずだ。

「信じる」ためにつらいことに立ち向かう必要はないだろう。つらいことを乗り越えるために「信じる」ことが必要なのだろう。

今日の約束

2005-09-18 02:08:22 | 会合
今日はそもそも彼女と温泉巡りをする約束だった。
しかし、数日前に家族で昼御飯を取る約束が入ったらしく、温泉巡りは敢えなく中止となった。
家族を大事にするという指導が創価学会にはあるそうだが、創価学会云々を抜きにして、実家から離れて生活をしている私は、家族と時間を過ごすことは素晴らしいと感じる。彼女が両親をあまりにも優先し過ぎることも時にはあるが。

そして、温泉巡りの代わりに、今日は、イタリアンレストランに行く予定に変更になった。ちなみに、そのレストランは、先日の総選挙で彼女が投票のお願いをしに行ったところである。彼女が御礼をするために、行こうということになった。なお、彼女の本当の目的が、御礼なのかワインを飲むことなのかは微妙なところであったように私には感じられた。

しかしながら、今日になって、同時中継を一緒に見に行って欲しいと言われた。「いいよ」と私は返事をした。もう少し早めに言ってくれれば、、、とは思ったが。

さて、今日の同時中継では、秋谷会長の話はいつもどおりということで置いておいて、海外の学会員の表彰式が行われていた。その表彰式では、ロベルト・バッジョが表彰されていた。バッジョは、イタリアの有名なサッカー選手である。私はバッジョのファンだ。アメリカワールドカップの際のバッジョの姿を見て、これぞ男だ、と私は感動したものだ。久しぶりに見たバッジョは髪型こそ変化がないものの白髪が増えていた。時の流れを実感した瞬間だった。

ところで、バッジョが学会員というのは以前から知っていたが、創価学会を抜きにして、久しぶりにバッジョが見れて良かった。白髪が増えてもバッジョは格好良かった。今日は得をした気分だった。

なお、例え私がバッジョのファンだと言っても、それだけを理由に私が入信することはあり得ない。

同時中継

2005-09-17 04:16:26 | 会合
創価学会では、ある創価学会の建物 (会館) で、池田 SGI 名誉会長や秋谷会長が、学会員の前で演説などを行う。その様子を日本全国の創価学会の会館内でテレビで映し、会館に学会員が集まり観賞することを同時中継というようだ。

彼女に連れられて、この同時中継なるものを数回私は体験した。

まず、初めに、秋谷会長が演説を行っていた。他の宗派の批判ばかりであったように私には感じられた。数回拝聴したが、何れも批判ばかりであったように思う。例え、他の宗派が正しくないとしても、何もそんなに批判せずとも良いだろうと私は感じた。それよりも、どうすれば他の宗派を正せるのか、という話を聞いてみたいと感じた。何が本当に「正しい」のかは、また、別問題ではあるが。

次に、池田 SGI 名誉会長が登場し演説を行なった。私にも共感できる部分とそうでない部分があった。しかし、池田 SGI 名誉会長の発言に時折拍手が起こり、また、「~だよね?」という問いかけに対して、「ハイ」という一矢乱れぬ同意の声が学会員の方から聞かれた。発言に対して疑問を感じた個所が個人的にはいくつかあったのだが、そのような発言に対しても学会員の方は誰一人として疑問を持っていないように私には見えた。

本当に誰も疑問を感じないのだろうか?
師である池田 SGI 名誉会長を信じ抜いているから、疑うことはあり得ないのだろうか?

師を信じ抜くこと自体は素晴しい事だと私は思う。しかし、師も人間なのであるから、間違いを犯すものだと私は思っている。実際、私の尊敬している師と呼べる人も、たまに間違いを犯す。それは違うのではないかと私が私の師に意見すれば、間違いを認め、非を改めてくれる。逆に、私の意見が間違っている際には、私の間違いを師は正してくれる。師を信じ抜くということは、師の人としてのあり方を信じる事だと私は考える。師の発言全てを疑いなく信じることではないと私は思う。

同時中継を経験し、一矢乱れずに同意する学会員の方々の反応を見て、私は、北朝鮮の恐怖政治の映像を想像してしまった。学会員の方にすれば両者は全く違うのだろうが、非学会員の私から見れば、同じように見えてしまうのである。批判ではなく卒直な私の感想である。慣れの問題だと彼女と彼女の父親は言うが、そういうものなのだろうか。