S&N

創価学会学会員な彼女と非学会員な私。

クリスマスって?

2005-12-24 11:31:03 | 日常
今日はクリスマスイブである。今晩はフランス料理を彼女と堪能する事になった。以前にも行った事のあるレストランであるが、料理が美味しいので非常に楽しみである。男の私にとっては、クリスマスというのはどうでも良いのであるが、美味しい料理とお酒を食すのは、私にとって非常に楽しい事である。

さて、キリスト教に関連したイベントですら祝う事ができるのは、日本人が無宗教であるが故ではないかと私は思っている。他の文化を取り込み、自分のものにしてしまうのは日本人特有の特徴ではないだろうか。宗教に関する拘りがないからこそ、他の宗教の文化を取り込んでしまえるのだと私は思う。そんな日本人の文化が私は好きである。

ところで、先日、彼女はクリスマスケーキを買って、彼女の家に持ち帰っていた。その際、彼女の父親は、

「クリスマスケーキを買ってクリスマスを祝う必要はない。」

と嫌悪感を示していた。創価学会にとっては他宗(邪宗?)であるキリスト教に関連したクリスマスというイベントに対して彼女の父親は嫌悪感を持っているようであった。彼女の父親の発言を聞き、あまりにも拘りすぎではないかと私は感じてしまった。

彼女の父親だけでなく、創価学会の方は、他宗教に関連したもの(仏壇や神棚)やイベントを毛嫌いする傾向があるようだ。何か形に囚われていて、物事の本質を見ていないように私には感じられる。また、創価学会の方が、他宗教の仏壇や神棚自体の存在を否定するのはどうかとも私は思う。何故なら、仏壇や神棚に対して心の底から祈っている非学会員の方は少ないと私は思うからである。心の底から祈っていないものに対して嫌悪感を示してもどうしようもないであろう。

話は逸れてしまったが、彼女や彼女の妹は、今までクリスマスケーキを買った事がないと言っていた。美味しいものを食べるだけなのに、何故に彼女の家族ではクリスマスケーキを買って祝う事がなかったのだろうか。

人生の楽しみを自ら放棄しているような気がしてならない。

日本におけるクリスマスとは、親しい仲の人と楽しく時間を過ごすための単なるイベントに過ぎないと私は思う。その起源に拘っていても、何も意味はないのではないだろうか。


彼女の母親の体調

2005-12-11 03:58:42 | 日常
彼女の母親は、以前、病気で倒れた事があるらしい。病気の後遺症なのか、家事をしている時に、彼女の母親は時々少し辛そうに見える。旅行から帰って来られた際にも、彼女の母親は辛そうな表情を見せたりした。彼女の母親も体の強い方ではないのだ。

さて、先日、創価学会の創立75周年を記念した座談会があった。地域によってその座談会が実施された日は異なっていたようである。彼女の父親は、自身が所属する地域に加えて、他の2つの地域で実施されていた座談会に参加していたようである。彼女の父親は、彼女の母親に対しても、他の地域の座談会へ参加するように促していたらしい。

ある日、私が彼女の家にお邪魔していた際に、彼女の母親がその座談会に向かう瞬間に立ち会った。彼女の母親は非常に辛そうに見えた。彼女は、

「きついなら行かないでいいんじゃない?」

と彼女の母親に言った。すると、彼女の母親は、

「きついけど、行かないわけにもいかない。」

と言って、座談会に向かった。彼女の父親が座談会に参加するように彼女の母親に促したからのようだ。

彼女の母親はどちらかというと彼女の父親を尻に引いている感じである。それでも、体が辛くても、彼女の母親は座談会へと向かったのである。

座談会に参加する事も重要なのかもしれない。しかし、体を大事にして下さい、と私は彼女の母親には言いたい。

何故、体に鞭を打ってまで、座談会に向かわないといけなかったのか。
創価学会独特の考え方によって、彼女の母親はそうせざるを得なかったのではないか。

このような悲しい事実が、私の中の創価学会のイメージを損ねるのである。

1周年記念

2005-12-10 02:55:23 | 日常
今月で、彼女との付き合いを始めてから、ちょうど1年が経つ。喧嘩しながらも、良く続いたものだと思う。創価学会云々を抜きにして、彼女と日々を過ごすのが楽しいからこそ、今まで続いたのだと私は思っている。

ところで、明日(既に今日であるが)に同時中継に行こうと彼女から誘われていたが、明日の夜に会合が入ったらしい。そこで、今日同時中継に行こうと彼女に誘われた。私は、断る事なく、一緒に彼女と同時中継に参加した。少し遅れて会場に行ったため、話の内容は、あまり良く理解できず、記憶もあまりない。が、最後に唱題をあげる事になったのは鮮明に憶えている。彼女は表彰を代理で受けるために、私が彼女と会場で一緒に居る事は出来なかったので、私は唱題しなかった。自分一人で題目をあげる気にはならないのである。

そして、同時中継が終わった後、彼女と一緒に夕御飯を取ることになった。クリスマスもあるからと、彼女は今日は軽く済まそうと言った。しかし、付き合って1年が経つ記念にと、私はちょっと贅沢をしようと彼女に言った。彼女は贅沢しすぎじゃないかと言ったが、結局、ちょっと高めのワインを一緒に飲むことになった。注文したワインは、それなりに高かったが、それだけにかなり美味しかった。彼女も喜んでくれていたようだ。彼女が喜んでくれている顔を見るのが私にとっては、至福の時である。

ワインを飲んだ後、カラオケに行った。彼女はカラオケに他の人とはあまり行かないと言う。しかし、私とカラオケに行く際には、私が引いてしまう程、彼女はノリノリで歌う。今日もかなり上機嫌で歌っていた。

そして、カラオケを1時間程度楽しんだ後、最後の締めとして、ラーメンを彼女と一緒に食べた。かなり美味しかった。久々に、遅くまで彼女と一緒に過ごして、私は非常に楽しかった。


色々と衝突したりすこともあるが、彼女と一緒に過ごしている時は、掛け値なしに楽しいと私は感じる。創価学会に対して私が疑念を持つ事はあるが、彼女と一緒に日々を過ごして行きたいと思う今日この頃である。

同時中継と友達との約束

2005-12-09 01:11:59 | 会合
彼女は、今度の土曜日は、彼女の友達と会う約束をしていた。久しく会っていない友達らしい。その彼女の友達が土曜日しか空いていなかったのだそうだ。そのため、土曜日に私と会う時間はないと彼女は言っていた。

しかし、土曜日に同時中継が入ったらしい。
彼女は、同時中継に来ない?と私を誘ってきた。

友達との約束は別の日に変更してもらったようだ。

ところで、同時中継というのは、毎月あるようだ。そして、月に3日程度、同時中継の日が設けてあり、同じ内容を放映するようだ。忙しい人でも参加できるようにとの配慮のようだ。

これまで、私は、同時中継を数回見てきた。しかし、言い回しの違いはあっても、あまり話の内容自体には変化がないように私には感じられる。彼女自身も同時中継中にメールをしていたり、いつも真面目に同時中継の話を聞いているようには見えない。同時中継での話よりも、同時中継に参加するという事自体が、彼女にとっては重要なのではないかと、私は思ってしまう。

さて、毎月ある同時中継に行く事と、めったに会えない人と会う事と、どちらが、彼女にとっては重要なのであろうか。同時中継とは、友達との約束を変更してまで参加する価値があるものなのだろうか。

私は、約束した日はなるべく、守りたいと努力しようと心掛けている。相手に迷惑をかけてまで自分の予定を優先する事は、なるべく、避けたいのである。相手が迷惑に思っていなかったとしても、心掛けの問題であると私は思うのである。

見返りというもの

2005-12-07 01:41:22 | 日常
自分が正しいと信じている事を実行すれば、何か見返りが自分に返ってくる事を人は望んでしまうのかもしれない。

しかし、私はできるだけ見返りを望まないように心掛けている。見返りを望んで行動するのは卑しい事だと、私には思えるからだ。また、自分が正しいと信じている事が他人にとっても正しいとは限らない、と私は思うからだ。

見返りを望めば、見返りがないと、何かに失望したり、何かを憎んでしまうだろう。

見返りを望まなければ、見返りがなくても、何も感じない。

そして、自分の自己満足のために私は行動しているのだと、私は考えるように心掛けている。自分の心が満たされる事だけを求めて、私は行動するのである。

自分の事しか考えない狭い人間だと感じる人もいるだろう。

私は、だた、私が人の心を満たせられるような高尚な人間であると、私が勘違いしないように心掛けているだけなのである。自分が行動する際に、「他の人にも良い事がありますように」と願う、その気持ちが既に自己満足であると私は考えるのである。このように考える事で見返りを望まないように私はなれるのである。


見返りを全く望まないようには、私は中々なれない。望んでしまう時もある。しかし、望まないようになる努力はして行こうと私は思うのである。

友人の言葉

2005-12-04 01:08:47 | 日常
私に彼女がいることを知っている友人から、

「いつ結婚するの?」

と冗談っぽく、からかわれる事がある。

今まで、いつも私は本当の事が言えず、嘘も言えず、笑ってごまかすしかなかった。また、彼女が創価学会の学会員であることを他人に言う事は、彼女のプライバシーを侵害することになるとも思い、私の考えを友人に伝える事ができずにいた。

しかし、昨日、信頼できる友人に、

「彼女が創価学会の人なんだよね。それで、彼女と彼女の家族が結婚相手には創価学会に入ることを望んでいるんだけど、俺は入る気になれないんだよね。」

と伝えた。すると、友人は、

「宗教をしている人って、特異な考えを持ってるんでしょ?ずっと一緒に居れば、絶対に衝突することがあると思う。○○(私)が苦労することになると思う。○○(私)にも将来があるんだし、別れた方が良いんじゃない?」

と言った。

厳しい言葉かもしれない。しかし、その友人は、宗教ではないが、ある理由によって私と同じような立場にあり、今まで付き合ってきた人とことごとく別れてきたのである。それ故に、私の悩みを分かった上での発言なのである。それだけにズッシリと重くのしかかる言葉であった。

私は、将来どうなるかは分からないが、一生懸命悩んでみようと思っている。

私が創価学会に入信する事しかあり得ないと、彼女がいつまでも言い張るのであれば、別れる事になるのであろう。しかし、彼女は私が非学会員でも関係を続けていけるのか悩んでくれてもいる。

悩む事は時間の無駄と考える事もできるだろう。しかし、私は、悩む事も重要だと思うから彼女との付き合いを続けている。

人手不足?

2005-12-01 02:06:54 | 日常
先日、記念座談会なるものに行った際に、私以外の参加者である創価学会の方の年齢層が高くて私は驚いた。壮年部と呼ばれる部に属している方が多かったようだ。なお、壮年部とはその名の通り、お爺さん、お婆さん(失礼)と呼ばれるようなご年齢の方が所属する部である。

そして、参加者の中でも最も若い方が、異なる地域の○○長(肩書きは失念してしまった)に任命されたと聞いて、私は以下のように思った。

「わざわざ他の地域の責任者にならなければならないのは、何故なのだろう。」

○○長といった地域の責任者は、通常はその地域の学会員の方の中から選ばれるようだ。

しかし、その最も若かった方は、異なる地域の責任者として、任命されたのである。

「人手不足なのだろうか?」

と、私は思った。座談会に参加されている学会員の方の人数や年齢層を見ても、新しく入会する方の数は非常に少なくなって来ているのではないかと、私は感じてしまった。少なくとも、学会活動をしている方の人数は、減少傾向にあるのではないかと思ってしまった。

それにしても、学会活動をしている方の数が減れば、学会活動をしている方への負担も増えるのではないか。そして、学会活動に忙しくなり、外部とのつながりが次第になくなっていくのではないか。そして、学会活動をされている方は、ますます創価学会の世界の中でしか生きていけなくなるのではないか。

活動をしている私の彼女や彼女の妹、そして、最も若かった学会員の方を見ていると、

「心身に気をつけて下さいね。自分を大事にして下さいね。」

と私は思ってしまう。