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シロガネの草子

暴露本『大内山』 著作 草間笙子


作者不詳《題名不詳》

久しぶりの更新となります。近頃、体調の方が余り良くなく、イロイロと書きたいなと思ってもやる気が出なくって、4月の末となってしまいました。


島成園《湯の宿》


寒暖差のせいでしょうか?

一昨日初めて近くの美容院へ行きました。長年カットしてもらっている所は遠くて、行くのがめんどくさく、思いきって直ぐ近くにある美容院でボサボサに伸びた髪をカットしてもらいました。


山田秋坪《紅椿にオオルリ》

長年行っている所ですと、別に何をいうわけでもなく、『今日は短く』『後ろはバリカンで』等をいうだけで、何時もの通りしてくれるので、楽なのです。しかし初めての美容院だと、どうゆう風にすればから始まり、シロガネも普段の髪型が名前もないのも同然ですから、ここはこんな感じ、後ろは・・・・等と美容師さんと相談しまして決めました。


山田秋坪《藤の花にアカウソ》

久しぶりに髪をカットして貰いサッパリしました。ところがその後生まれて初めて、眉毛をカミソリで整えて貰いました。カミソリが直接肌に当たるのですから、少々怖かったです。


難波春秋《嫁ぐ日》


体調が悪くて仕方がない有り様でしたが何とかヤ○―で、前々から気になっていた、元女官 草間笙子氏(ペンネーム)が戦後間も無く書かれた『大内山』

・・・・昭和23年に出版されたのを購入しました。


上田耕甫《菊花群竹図》

昭和天皇が“暴露本”である、と仰っていたそうです。どんなドロドロとした人間関係が描かれているのかと思ってもおりましたが、別段そういったことはありませんでした。


《はしがき》

~私はずっと以前から、ほんの短い間ではありましたが風変わりな十数年間をいつかはまとめてみたいという大それた念願をもっておりました。いわゆる浮き世はなれた九重の雲の上なるものの生活、いろいろ見たり聞いたりしたことを思い出づるままに、とりとめもなくノートしておきたいと思ひました。


鰭崎英朋《婦人界表紙絵》

勿論その「御所」は私の見た狭い限られた視界のものでしかありませんし、どれも独善的な観察と解釈ばかりですから決して有職故実の文献ともなりません。ただどこにも○とか虚飾だけはないつもりです。元々私はこんな価値のないものはノートとして誰にも見せない私の『心の記憶』として残すつもりでしたが、ここに皆様のおすすめもを受けまして世の中に出すことになりました。そこにはただ拙い筆でどう現はすすべもない焦○があるばかりで日のたつにつれて、これは私にはかちすぎた荷であることをつくつく悟らざるを得ませんでした~

(一部ですが抜粋しながら書き写しました)

御所の女官が宮中内のことを書いたのが山川三千子氏の『女官』が有名ですが、そちらは明治の宮中です。


山田秋坪《牡丹にムラサキシジミ》

草間氏が書いたのは、昭和初期の宮中ですから、イロイロと違う所がありました。意外なことに御所の伝統を守ってこられた貞明皇后がご健在の時から、宮中内での正しい伝統等が段々と曖昧になってきている様子も書かれています。


山田秋坪《蓮に蝉》

興味深いといえば、明治の御代になんと七歳!?で“お茶汲み”としてお仕えした女嬬が昭和の時も現役で働いていた事実。この人が宮中の伝統的な習わし等を外の女官に教えていたとの事。明治、大正、昭和と三代の御奉公です。


写真は明治宮殿で「お茶汲み」と呼ばれた少女達。それとシロガネが興味深く思ったのは、“おすべらかし”・“ときさげ”です。

特に“おすべらかし”問題。『女官』では普通に出てきましたが、昭和の『大内山』の頃ではその“おすべらかし”を結える人が、もう東京には、たった二人しかおらず、宮中祭祀の時は皇后様・・・・香淳皇后の“お髪上げ”は手先の器用な女官がおすべらかしを結い上げるのですが、お付きの女官はその髪結いさんに結い上げて貰うのです。

他の女官はこの2名の『髪結い』に任せるしかなく、何かの時には引っ張りだこ状態になってしまうのです。

因みに御所では“おすべらかし”を《おちゅう》と呼んでおりました。


『大内山』より

~この「おちゅう」は、どうしても専門家の「髪結い」でないと手際よく結えないのであった。けれども現在、この広い東京で「おちゅう」に詳しい「髪結いさん」はたった二人しかいないという、つい最近高齢で亡くなったと云う人は、見惚れるほどの見事な腕前を持っていた。万事この様に年々正しい技術が失わるばかりなのは、御所にとっても古典趣味からしても惜しみて余りある。この髪結いたちも女官の髪を結うためで、元々皇后様の「お髪上げ」の御用は女官のつとめであるから、手先の器用な二、三人が選ばれてこの髪結いから習っている。そして事あるたびに、雑仕などを稽古台にして練習しているのである。照宮様御結婚の時など、本来ならこの女官たちが「御髪上げ」を奉仕すべきであったが、こうした御一生御一代の御晴れ姿であり、又、御写真として公に御記念とせられることを思っては、腕に覚えのある女官たちにも、どうしても自信がなく、お互い同士謙虚の美徳を発揮した揚げ句とうとう専門家が奉仕することになった。


照宮様の五衣姿
(時々見受けられますが、照宮様の五衣が香淳皇后がご入内の際の御五衣をお譲りになされたと書かれているのがあります。でもそれは大嘘です。香淳皇后は1月の冬の五衣。照宮様は夏の五衣を着用されましたからお譲りになられずはずはありません)

(それと平成の両陛下のご成婚記念の写真《三の丸の図録》で美智子様のご着用の五衣がお姉様の照宮様の五衣を譲られたと書かれてありましたが、勿論嘘です。検討されたのは事実ですが、夏物と分かり断念したというのが本当の所です)

~何しろ何かのおりには、この二人が引っ張りだこの有様なので事々に御不自由なことである。御祭日など、時には大宮様(貞明皇后)の御拝のあらせられることがあるが、そんな時は大抵宮城で御都合の悪い事が多いのから推察して、この髪結いさんの関係からではないかと思われるのだった。~


見事な「おちゅう」に結われた仙石温子姫。九条家の養女となり瑞龍寺の門跡の継嗣に内定し、時の皇后である貞明皇后に拝謁する為の記念写真。


「おちゅう」に結われた香淳皇后

宮中の正しい伝統も曖昧になっている様子が伺える事も書いてあります。

~御所では古い人々が減る一方なので御所本来の正しい故事というのが、失われつつある。そして遂に歪められたまま伝わってゆくわけである。何か特別の重大な事の時はまづ万事大宮様にお伺い立てるのだけど、普段のことはすべて古い女官や老年の女嬬たちの記憶にまつ外ないのである。この記憶というのもが又人によってマチマチだし、思い違いということもあるので、結局年々少しづつ本来の姿は失われるわけである。例えば皇后様の「お髪上げ」の時、女官は着物の裾を引いて御用を奉仕することになっていたかと思えば、翌年はそうではないことになったり、生じつかその「有職故実」のオーソリーチを以て自任している女官があるので、その人を差し置いて大宮御所に御伺いするのもはばかれて、本来の事は結局分からず仕舞いになっているのである。こうした間違いやら、どっちとも分からないことが多くて毎年の事ながら今更慌てるのである。「さようではない」「こうではない」と、とどつまりは水掛け論ということもになる~

『大内山』では「おすべらかし」そして「ときさげ」のことについても書いてあります。


~・・・・この時の頭髪の結び方は“ときさげ”という。「ときさげ」の結び方を簡単に云って見れば、まづ目尻から上に半円に前髪をとる、それに抵当にアンコを入れてふくらせる。丁度頭のてっぺんに持って来て黒の元結で固く結ぶ。次に残った髪は、後の生際から丁度指4本程上がった所までまづ白の元結で結ぶ、そしてそれを先程の前髪の束とを一緒にしてもう一度結ぶ。この時、地毛の長い人はそのままで良いが、ごく短い人は、まきみの、という“かもじ”を地毛に巻き付ける様にして元結でしばり、その上を白の丈長(奉書を細く長く切ったもの)をよくしごいて蝶々に結ぶのである。そしてそこから手のたけ一つ下がった所を黒の元結でむすび、また長い人はもう一つ手の丈一つ下がった所を結ぶ。油気のないサラリと、“ときさげ”たところがコツでそこに又良いところがあるわけである。「ときさげ」はこんな簡単な程の結び方なので、何年も御所に奉仕して一寸手先の器用な人だったら誰でも手際よく上げられるけど何しろあまり簡単すぎてかえって難しいと言われる。つまり格好なのであろう~


お髪を“ときさげ”になさり袿袴をお召しの香淳皇后。新嘗祭のお慎みの姿。


大正天皇御大礼に参列する大隈重信夫妻。綾子夫人は髪を“ときさげ”に結い、袿を着流した袿袴姿。

~このついでの事ながら俗に十二単に「おすべらかし」のことを、御所では「おちゅう」といっている。

「おちゅう」は練油をコテコテに塗って型紙を入れるのだが、これが又中々難しくてビンの張り方など、どうしても片ビッコになり勝ちである。昔の人だったら地毛が豊だったので、そんな苦心もいらなかったろうけど、それでもこの「おちゅう」にかもじが五つ入るのである。それというのは、前髪をとって、かもじを入れ少しふくらませる。両鬢はぐっと引き上げて油で型を作る。その両タボに○豆に尾のついた様なかもじがそれぞれ入るのである。後の髪にも、三日月型に尾のついた様な、かもじを入れて全部まとめて元結でしばる。このかもじは、両タボの○豆型のものに三日月の両端わ差し込む様にして入れるのである。更にそこへ長かもじを三つ編としたのを足して、垂れた部分を帯に差し込んでおくのである~

お祭日とパーマネント異変


島成園《トランプ・主婦の友表紙》

~パーマネントなるものがまだ世人の目あたらしくて、流行しはじめたばかりの頃のこと、一般でもまだまだ賛否ゴウゴウとして気後れしていた頃なのに、女官の中に珍しく進歩的でその美容の道にかけては殊に自信のある人があった。その人が口喧しい因習な固い殻を抜け出して、逸早くパーマネントなるものをかけたのである。野暮臭い程の長く艶々しいフサフサしたスナオな黒髪であったのに、充分にそいで惜しげもなくブッツリ短くし全体を細かに縮らせてカールなどを一寸付けた所は、元々飛び抜けて美しい女官であっただけに見とれるばかりの綺麗さであった。初めは何となく非難めいた目で見ていた外の女官も、見慣れれば如何にも羨ましい程軽快で、そのスッキリした美しさは我が身に思い合わせて心密かに「我が身も」と思い立っていた。

丁度その頃何かの御祭りがめぐって来た。そして思いがけなくそのパーマネント女官のが御代拝だったか供奉だったか、何れにせよ大役を仰せつけられてしまった。祭日用の用意はかねがね万事準備してあるので少しも慌てることはなかったが、さて髪を結ぶ役になって困ってしまった。元々「ときさげ」はスッキリと油気のなく、くしけずられた所に美しさが生きているのだから、かけたばかりの電髪、しかも思いっきり良くかかったと自慢のパーマネントでは如何にせん!!それにしてもまぁ髪の短いのは、かもじをつないだりしてどうにか誤魔化せるとしても、見事にちぢれた髪はどんなにセッセとくせ直しをしてものびなこそ!普通の○でかけたウエーヴだったら髪を洗うまでもなく、日毎にうすれて五日もたてば惜しくも消え失せるのだけど、お風呂に入って湯気をあびてもも髪を洗っても、消えないところが、又パーマネントの良いところでもあった。二度三度暑い湯で洗って見てもセットをしない髪はちぢれにちぢれるばかり!慌てれば慌てれるほど手も付けられなくなるのだ。

困り果てた女官は窮余の一策、何処からか紅茶の湯気が、くせ直しに良いと聞いて、早速シュンシュン湯気を浴びてみた。暑い湯に浸したりしてそれでどうやらあまり目立たぬほどにすることが出来たのだった。それは大騒ぎだったのでこれを見た外の女官たちは密かに胸をなでおろした。

「やっぱり流行にのるもんじゃない」

これは皇后様の深い思召しであったのか、それとも単なる偶然の巡り合わせであったのかとうとう分からなかった。こうした特殊の御用を奉仕する地位ある身ではあり、又戦時中でもあって華美なことがことさら避けられたときでもあったので、女官たるもの流行の波に乗ることが暗に固くいましめられたわけである。

これもごく初期のことで、最近は皆大つぴっらに内巻きにしたり、リングを付けたり中々華美になったのである~

~この日女嬬たちは、小豆色のおかいどりに紅の切袴をつける。髪はときさげである。又雑仕たちも、とび色の着物で海老茶の袴もいとおとなしげに、日頃の溌剌さもどこへやら・・・・履物は全て白い鼻緒のすがついた冷飯草履なのであった。そして御代拝や供奉のときには赤のラシャの鼻緒の冷飯草履なのであった。これは御料でも同様である~


冷飯草履・・・・緒も台もで作った藁(わら)で作った粗末な草履。

~最近まで御健在であった大正天皇御生母柳原二位の局や明治天皇の内親王様方の御生母たる園祥子の方が、時々御機嫌奉伺に御所にお上がりになるときやはり「ときさげ」に白羽二重のお召物緋の袴、白紋綸子の袿のはしょった優雅なお姿であった~


《参考写真》

~御大典とか宮様方の御結婚の御写真が「晴れの御衣装」と云うわけである。つまりは「十二単におすべらかし」と云うわけだけど、ごく最近三笠宮様の御写真は何故か御簡単で唐衣とか裳とか御髪にさい子等のお飾りもない様に拝した。これも時節柄のことであったかも知れない~


ご実家の高木子爵家を小袿姿でお出になる百合子姫


髪は『わらわ』という背に長かもじを付けない、ほぼ地毛のみを下げたものです。

~この女官候所までは、両陛下は何時でも御自由においでになられるのだった。ソファーに座って、女官達とおしゃべって居られる表の方の「見られない方だが?」と思えばそれが御上でいらっしゃたり、又いつかのこと、何かの用事で候所に行ったときだったが、丁度候所には誰もいなくてガランとしているのだった。ふと微かな物音にヅカヅカと次の部屋を除いて見るとたった一人、真っ白な割烹着をかけて、白手拭いを姉さんかぶりした女官が戸棚の大整理の最中で、セッセとハタキを動かしている所だった。それで何気なく声をかけると、振り向かれたのは皇后様でいらっしゃった。思いもかけなかったので思わず恐縮して逃げ腰になった私に、さも可笑しそうにコロコロとお笑いになるのだった~

~御上の御研究は又非常に良心的であった。大分前の事だったが・・・・。ある時何処からか、大変珍しい「蝙蝠(コウモリ)」が御手に入った。

それは御学問上からいっても珍しいものであったから、科学者としての御立場からも見逃すことの出来ない資料として御上の深い御研究心が動いたのだった。それで大事に飼養して出来るだけ長くその生態を研究なさろうという御考えから、御手元で御飼いなることにした。

ところがそれの餌としてトンボが一番好物なのだった。侍従たちは朝晩トンボをとるのに一生懸命なっていた。

御上はそれを御らんになって不機嫌に思召したが、そのが理由があの「蝙蝠(コウモリ)」にあることをおききになって、

「トンボは稲の害虫をとってくれる盆虫なのだから、万民の為に大切にしなければならない。それをむやみにとってしまっては、まづ迷惑をするのは百性である」と仰有った。そしてその「蝙蝠(コウモリ)」が御自分にとってかけがえのない貴重な資料であったのにも拘わらず、それあるためにひいては天下の為ではないと御考えになって、ふつとその飼養を断念なさったのである。私共としても一度思い立ったことを中途でよさなければならないことは相当心残りを感じるのだったが、御上はこうした○○にはっきりとしたお強さをお示しされたのである~。


(それから長い年月の後に・・・・)


トンボを観察をされる東宮家の若宮殿下


稲の飼育を確認される東宮家の若宮殿下

~又吹上御苑には水田があった。

毎年御上は熱心に田植えをなさるが、その時ゴム長靴に運動服の袖をたくし上げられて、泥田の中へお入りになられるのである。苗代から田植、施肥、○水、又時々の徐草も一通り御経験をなさって農家の辛苦は誰よりも御存じでいらっしゃるのだった。秋ともなって御収穫も御自分でなさる。この御水田からとれたお米や餅米は「御親裁」の御米とか「御田」のお餅などと申し上げ、東宮様御始め宮様方もお頂きななるのだった。そして無言の内に御小さい宮様方に、農に対する感謝の御気持を御教訓になさるのであった~


昭和天皇の大御心を受け継がれている日嗣の御子の若宮である悠仁親王殿下。

その一方・・・・

昭和天皇の農家に対する御教訓も曾孫の代となるとかなり薄れて仕舞うようです。

この頃の敬宮殿下が如何に農家の辛苦を知らずにお育ちになられたかが、良く分かります。


浅見松江《目黒雅叙園像》



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コメント一覧

abcdefghij
春日野さんいつも詳しいご説明ありがとうございます。確か豊臣完子と九条幸家夫妻の末娘が、ともの願いで、二代目の門主になったそうです。それからは九条家と縁のある女性がゆうしとなったと何処かの本で読みました。

後の日浄尼になられる温子姫の袿袴姿の美しい事・・・・。

ともは長命で90歳までいきましたが、豊臣秀頼からも大切にされ、又九条家にも度々出入りして、時には九条家の曾孫を連れて外出したりと、思ったよりも元気な晩年を過ごしたようです。
春日野
九条日浄尼の袿袴のお写真は、初めて拝見しました。村雲御所瑞龍寺門跡は、豊臣秀次の母とも(秀吉の姉)が非業の最期であった秀次と妻妾、子女らの供養に建立し、秀次の弟秀勝の娘完子(さだこ)が九条家に嫁いだ縁で、代々の門主は九条家の息女か猶子になりました。日浄尼の先代村雲日栄尼公も伏見宮家より九条尚忠の猶子として入室された方でした。
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