ということで予告通り京都市内をひたすら歩いて巡回してきました。
まずは事前に調べて閉館していることをわかっていながら京都国立博物館。

うん、閉まってた。
そのまま向かいにある三十三間堂へ。


目的は千体安置されている千手観音像を見ることと、耐震技術の研究。
日本一長い木造建築の三十三間堂ですが、どうして災害で壊れたことがないのか興味がありまして。
法隆寺の五重塔も地震などで壊れないのが不思議だったので現地へ行って調べましたが、今回も現地で調べてみました。
三十三間堂の場合、地震の際は地面も建物も一緒に揺れるみたいですね。
地盤を掘ってあえて柔らかい粘土質などを敷いて下から来る振動を吸収し、その上の建造物の骨組もがっちり組み合わせるのではなく、隙間をつくるなど余裕を持たせる構造でした。つまり地震が来たらガタガタと一緒に揺れるわけだ。この点は法隆寺五重塔と似たような耐震技術ですねぇ。
それからもう一つ、千体ある千手観音像の表情は微妙に表情が違うので必ず会いたい人に似た像があると言われていますが…
多すぎてふつうに前にある像の頭とかぶってるのため、後ろの方の顔、見えない。
…とこんなことをしてるうちに2時間以上経ってしまっていたので急いで京都駅へ…向かえばいいのにと豊国神社と方広寺へ。

なんかねぇ、結婚式してた。
そんなことは気にするはずもなく鐘を見にせっせと向かいます。

現物、はじめて見ました。

なに?この鐘の意味がわからんかぇ?
方広寺ですよ。豊臣家の寺ですよ。
んん~、仕方ないですねぇ。鐘の左上の方に白い四画で囲われた部分があるのがわかりました?
この文字を見るためにわざわざ来たわけです。
とここで標準レンズでは倍率が足りないので望遠レンズを装着して300mm砲で撮影。

この「国家安康」の文字。
もうお分かりですね。豊臣家を滅ぼしたかったけど理由がなくて困っていた徳川家康にこの文字を知られてしまって大坂の陣の口実とされてしまった文字です。
「ワシの名前を分断して…許さんぜよ」みたいな。
土佐弁は明らかに間違いですけど。
もちろん豊臣家にそんな意思はなかったわけですが…
それはさておき、隣の豊国神社の前の通りを西に向かうと耳塚があります。

秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に、戦利品として首を持って帰ってくるのは大変だからということで、敵の耳と鼻を削ぎ落して塩漬けにした上で大量に持って帰ってきた耳と鼻を埋めたという場所。
ちなみに文禄の役は1592年、慶長の役は1597年。石川日本史ではこの年号を「イゴクニはクナんの道へ(以後国は苦難の道へ)」と覚えます。
耳とか鼻は持って帰らなくていいからフンくらい持って帰りましょうね。

ちなみに耳塚の隣の公園にありました。
「そもそもおめぇ喋れねぇのに何で文章書いてんだ?」
と一人で看板に向かってしゃべっていた火星人は変人なんでしょうかねぇ。
そろそろ京都駅です。
駅前のヨドバシに侵入。

ここで17時まで価格調査したところで四条河原町まで歩いて移動。JR京都駅前から四条河原町まで地味に距離があるのは気にしない。
四条河原町にあるいつもの牛タン専門店でまた牛タンを食べずに豚肉のうま辛味噌炭焼き。
これがねぇ、結構うまいんですよね。
食べ終わったところでいよいよ京都東山花灯路です。今年も初日に訪問。祇園を抜けて知恩院前を通過し青蓮院門跡へ。

昨年の高台寺ライトアップは「ハズレ」でしたが青蓮院は「アタリ」。青色LED、なかなかきれいでした。
ただねぇ、ここを「あ、便所や」と言っているバカップルを見つけてしまった時はイラッとしましたが…

「小御所」を「小便所」と読み間違えたいたようです。
「おんめぇ、小御所を知らぬがかぇ?」
と心の中で。もちろん声には出しません。言っても知らないでしょうから。
「そういう失礼なやつはエサと一緒に吸い込んじまうぞ~」

この後、知恩院~円山公園~八坂神社~祇園~四条河原町~祇園四条とぐるぐる回り、最後に鴨川へ降りて終了。
昨日の撮影枚数は、最近にしてはちょっと多めの40枚くらい。また写真展やります。
火星府当局
まずは事前に調べて閉館していることをわかっていながら京都国立博物館。

うん、閉まってた。
そのまま向かいにある三十三間堂へ。


目的は千体安置されている千手観音像を見ることと、耐震技術の研究。
日本一長い木造建築の三十三間堂ですが、どうして災害で壊れたことがないのか興味がありまして。
法隆寺の五重塔も地震などで壊れないのが不思議だったので現地へ行って調べましたが、今回も現地で調べてみました。
三十三間堂の場合、地震の際は地面も建物も一緒に揺れるみたいですね。
地盤を掘ってあえて柔らかい粘土質などを敷いて下から来る振動を吸収し、その上の建造物の骨組もがっちり組み合わせるのではなく、隙間をつくるなど余裕を持たせる構造でした。つまり地震が来たらガタガタと一緒に揺れるわけだ。この点は法隆寺五重塔と似たような耐震技術ですねぇ。
それからもう一つ、千体ある千手観音像の表情は微妙に表情が違うので必ず会いたい人に似た像があると言われていますが…
多すぎてふつうに前にある像の頭とかぶってるのため、後ろの方の顔、見えない。
…とこんなことをしてるうちに2時間以上経ってしまっていたので急いで京都駅へ…向かえばいいのにと豊国神社と方広寺へ。

なんかねぇ、結婚式してた。
そんなことは気にするはずもなく鐘を見にせっせと向かいます。

現物、はじめて見ました。

なに?この鐘の意味がわからんかぇ?
方広寺ですよ。豊臣家の寺ですよ。
んん~、仕方ないですねぇ。鐘の左上の方に白い四画で囲われた部分があるのがわかりました?
この文字を見るためにわざわざ来たわけです。
とここで標準レンズでは倍率が足りないので望遠レンズを装着して300mm砲で撮影。

この「国家安康」の文字。
もうお分かりですね。豊臣家を滅ぼしたかったけど理由がなくて困っていた徳川家康にこの文字を知られてしまって大坂の陣の口実とされてしまった文字です。
「ワシの名前を分断して…許さんぜよ」みたいな。
土佐弁は明らかに間違いですけど。
もちろん豊臣家にそんな意思はなかったわけですが…
それはさておき、隣の豊国神社の前の通りを西に向かうと耳塚があります。

秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に、戦利品として首を持って帰ってくるのは大変だからということで、敵の耳と鼻を削ぎ落して塩漬けにした上で大量に持って帰ってきた耳と鼻を埋めたという場所。
ちなみに文禄の役は1592年、慶長の役は1597年。石川日本史ではこの年号を「イゴクニはクナんの道へ(以後国は苦難の道へ)」と覚えます。
耳とか鼻は持って帰らなくていいからフンくらい持って帰りましょうね。

ちなみに耳塚の隣の公園にありました。
「そもそもおめぇ喋れねぇのに何で文章書いてんだ?」
と一人で看板に向かってしゃべっていた火星人は変人なんでしょうかねぇ。
そろそろ京都駅です。
駅前のヨドバシに侵入。

ここで17時まで価格調査したところで四条河原町まで歩いて移動。JR京都駅前から四条河原町まで地味に距離があるのは気にしない。
四条河原町にあるいつもの牛タン専門店でまた牛タンを食べずに豚肉のうま辛味噌炭焼き。
これがねぇ、結構うまいんですよね。
食べ終わったところでいよいよ京都東山花灯路です。今年も初日に訪問。祇園を抜けて知恩院前を通過し青蓮院門跡へ。

昨年の高台寺ライトアップは「ハズレ」でしたが青蓮院は「アタリ」。青色LED、なかなかきれいでした。
ただねぇ、ここを「あ、便所や」と言っているバカップルを見つけてしまった時はイラッとしましたが…

「小御所」を「小便所」と読み間違えたいたようです。
「おんめぇ、小御所を知らぬがかぇ?」
と心の中で。もちろん声には出しません。言っても知らないでしょうから。
「そういう失礼なやつはエサと一緒に吸い込んじまうぞ~」

この後、知恩院~円山公園~八坂神社~祇園~四条河原町~祇園四条とぐるぐる回り、最後に鴨川へ降りて終了。
昨日の撮影枚数は、最近にしてはちょっと多めの40枚くらい。また写真展やります。
火星府当局