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Dead Beat Descendant ‐ THE FALL blog in Japan

上村彰子が書きたいザ・フォールの話

アンディとマイクのザ・スミスのドキュメンタリーになぜかマーク・E・スミスが出ている

2023-05-29 20:10:12 | Mark E Smith



2023年5月19日、アメリカの二ューヨーク メモリアル・スローン・ケッタリングがんセンターにて、ザ・スミスのベーシストアンディ・ルークが逝去しました。モリッシーも追悼文を出したので、こちらのブログにも書きました。

亡くなってから、アンディのベースプレイ映像を観たり、過去のインタビューなど見ていて、「そういえば15年くらい前に、アンディとマイクの出てるスミスのドキュメンタリーあったな」と急に思い出して、見直してみました。2007年に発表されたTVドキュメンタリーInside the Smithsです。

あれ、これフォールのブログじゃなかった?スミスの話なのに、書く場所間違えてない!?…と思われたでしょうか。実はこのスミスのドキュメンタリーにマーク・E・スミスが出ているのです。(そんなおもしろいこと)見直して、思い出しましたw なぜ忘れていたかというと、マークのカットは3度も出てくるのに、本論とあまり関係ない感じだった(当時はそう思った)のです。

このドキュメンタリーには、元ニュー・オーダーのピーター・フック、バズコックスのピート・シェリーなどなど豪華な面々が出てくるのに、はっきり言ってみんな言っていることが薄め…(フッキ―は、アンディのヘロイン中毒解雇の件にウケたり)…とは言え、本人たちがスミスのことを何かしら言っているのが映っているので貴重と言えば貴重なのですが。その他いろいろ残念なこともあり、すっかり記憶を封印していました。


それでも何と言っても見どころは、40代になったアンディやマイクが、メンバーとの出会い、スミスがレコード契約を獲得する過程やモリッシーとジョニー・マーの関係を自分の言葉で語り、またアンディにいたってはヘロイン中毒に陥っていきスミスをクビになった経緯を赤裸々に明かしているところです。マイクは1989年に印税をめぐってモリッシーとジョニー・マーに対するいわゆる「スミス裁判」訴訟を起こし、100万ポンド(訴訟を起こした1989年のレートで約2億2500万円)の賠償金を勝ち取っていますが、その話はなかったことかのように構成されているのは気になるけど、ふたりにとっていかに、ザ・スミスこそがすべてであったかが、よくわかる記録です。

ところどころにアンディがベースを弾いたり(なぜかCemetry Gatesのモデルとなったサザン墓地で…マイクはドラムを叩く…)、ギターもつまびく珍しいシーンもあり、元気にイキイキとニューヨークを歩いているところも見れます。今となってはとても悲しいけど、嬉しくもあります。


前に見た時は「なんだかなー、このドキュメンタリー」と思ったけど、まだまだ若いエネルギーに満ちたアンディとマイクのふたりで、なんかやっといても(イケイケDJじゃなくて)よかったんじゃないかな~とかいろいろ考えてしまいました。


で、前置き長すぎ。


マーク・E・スミスですけど、スミスがラフトレードに契約したところとか、モリッシーの話のところに急に差し込まれてきます。


ちょうど50歳くらいの映像で、まだまだ彼も元気…だけど、本当に何を言っているかわかりません。何度も何度も聞き直して、それでも何を言っているんだか?マンチェスターアクセント、というかマークアクセントがほんとにわからない。アンディもマイクもわかりやすいし、比較的癖のあるフッキ―の英語もわかりやすいので、マンチェスターのせいじゃないな、と思いました。

かろうじて聞き取ったマークの話によると、


「ザ・スミスはザ・フォールと同じレーベルのラフ・トレードからだったんだけど、1981年のうちらのすぐ後に契約したんだよな。ファーストシングルは良かった。リーバー=ストーラーみたいなアレンジで、センセーショナルだと思ったんだな。当時としては非常にユニークだった」

…と高評価。ファーストシングルと言えば1983年の「ハンド・イン・グローヴ」なので、これをマークは好きなのかとちょっと意外。そしてリーバー=ストーラー(ジェローム・リーバー と、マイク・ストーラー)とは、アメリカの50、60年代のソングライターで音楽プロデューサーのコンビ。ストーラーが作曲でリーバーが作詞を担当。彼らの生み出した有名曲は「スタンド・バイ・ミー」「ハウンド・ドッグ」「監獄ロック」…などで、マークはスミスからそのような古き良きロックのテイストを感じとったらしくて「けっこうちゃんと聴いているんだな」と思いました。

また、かろうじて聞き取ったマークはこんなことも。

「スティーブンからは、電話がかかってくることもあった。でも、ほとんどの場合、俺はその内容がなんだかわからなかったよ。彼はいつも親切で、コミニケーションをとってくれた」

と、「スティーブン」呼び!!マークはモリッシーが「モリッシー」という確固たる地位を確立しても、人前で「スティーブン」とあえて呼ぶのが好きなようで、この呼び方にこだわっています。電話と言えば、Simon Fordによる”Hip Priest: The Story of Mark E.Smith and the Fall”という本に載っていたマークのインタビューによると、「モリッシーは俺のパンツを見たいのかトイレについてきたこともあるし、エロ電話をしてきたこともある」そうです(あくまでもマーク談)。 マークはおもしろいことは真顔で大袈裟にも言うことも結構あるので必ずしも真実ではないことを祈りますw

マークはまた、「ザ・スミスの良いところは、ある種の人たちに注目されたこと」とし、またマイクのモリッシー評を裏付けるような編集がされているカットの中では、

「でも、モリッシーはいつも自分が何をしたいのかわかっていたんじゃないか?」

それは尊敬している、と言っています。ここではマークは「モリッシー」と呼んでいました。主語が「スティーブン」ではなくザ・スミスのフロントマンであった「モリッシー」であることが肝で、この一言はたった一言ですが、ザ・スミスの結成から崩壊までの核となる部分を言い当てていると思いました。

そしてアンディもマイクもいろいろあったけど、ザ・スミスに関してこんなにキラキラした目で、単なるノスタルジーではなく「いまだ誇り続ける宝」として語れるのは、ザ・スミスのメンバーひとりひとりの稀有な才能とバンドの宿命を、理解していたからだと思いました。ふたりのインタビューからは、ザ・スミスでの活動になんの悔恨も残していないように思いました(特に裁判で潤ったマイク…と思うのはうがった見方かなw)。

アンディの追悼の一環で観たドキュメンタリーで、マンチェスターご意見番マーク・E・スミスがこんないい働きしていたことに気づくとは思いもしませんでした。「マークのカットは3度も出てくるのに、本論とあまり関係ない感じだった」とか昔思ったまま葬り去らなくてよかった。

アンディのおかげ。ありがとう、アンディ・ルーク。


マーク・E・スミスのパンク観~ザ・フォール出自を「パンク」と認めない理由

2023-02-06 15:56:45 | Mark E Smith

前回のブログでは、1976年7月のピストルズの2回目のマンチェスター公演がザ・フォール結成のきっかけになり、1977年5月23日にバンドが初ライブを行ったことを書きました。

パンクのライブを観て「俺らもできる」って始めたわけなので、どんなにマークはパンクキッズかと思いますよね。でも、ピストルズが放つパンクのDIY精神を稲妻のように受けて始めたぞ!!というわけでもないようです。たまたまライブを観て、本当に物理的に「あれならできる」ということだった、自分たちザ・フォール出自を「パンク」と絶対認めない理由は何なのか…というのを書く前に、当時のマンチェスターのパンクシーンをのぞいてみます。

このフォールの1977年8月18日のマンチェスターでのライブ、初ライブから3ヶ月ですでに9回目ですが、

(Photo by Kevin Cummins)

The Ranchという、伝説の、マンチェスター初のパンクロッククラブでやってます。

このThe Ranchはマンチェスター・パンクの真の故郷としてよく言及されています。当時主流のボウイやロキシー・ミュージックをかけながらも、バズコックス、ザ・フォール、ザ・ディストラクションズといったバンドのライブをやっていました。

 

当時の様子を写真家のKevin Cumminsがたくさん撮っています。ライブ写真はよくあるけど、ステージ下のキッズの様子ってホント貴重ですよね。

  

(Photo by Kevin Cummins)

バズコックスのピート・シェリーがかっこよくThe Ranchから出てくるとこも。雑誌の表紙みたい。

(Photo by Kevin Cummins)

と、思ったらベロンベロンで抱えられて出てくるとこもw 馬場のさかえ通りの清龍ぽいですがマンチェスターのデイル・ストリートです。

(Photo by Kevin Cummins)

毎晩午前2時まで、耳をつんざくような音量で、最先端のパンクのレコードがノンストップで流れ、トイレは本当に汚くて、網タイツに盛り髪のスージー・スーみたいなパンクギャルや、ビリビリシャツを着たキッズがたくさんいたそうです。当時の雰囲気が味わえる動画がありました。ボウイのRebel Rebelにのせて、当時のマンチェスターのパンククラブの様子やキッズが映ってる貴重な映像。映画のワンシーンみたい。

Rebel Rebels - Manchester 1976 - 79

何十年も後から映像で観るこっちにしたら「うわーパンクっぽい、かっこいい」と思うんですけど、当事者マークの目は冷ややかです。マークの自伝によると、マークはたくさんの「いい場所に住んでる子」がパンクなかっこうしてエレクトリック・サーカスなどのライブハウスに通っているのを見たそうです。公営住宅暮らしの貧しいキッズたちはその子たちに向かってモノを投げていたそう。マークは「まるでニューヨークのCBGBに金持ちの子がゴミぶって来るのに地元の子がムカついてる」みたいな構造だと分析しています。自分たちの対バンやってる髪を立てたパンクキッズたちは、ライブが終わるとパパやママがお迎えに来た言っています。

あばれてないでみんな! パパとママが外で待ってるよ!

マークとその仲間は、ちょうど「金持ちと貧乏の中間」だったそう。で、失業保険を受けていて服を買うお金もないので、フツーの恰好しているのに、むしろ気取ってみられたよう。それでポール・モーリー(当時はマンチェスターで活動す音楽ジャーナリスト)みたいなやつが自分たちを嫌っていたんじゃないかとマークは言っています。↓写真を見てもらってもわかるように、まったく「パンク」な格好してないです。髪の毛切ったり、かっこつけるお金なんてなかったと振り返っています。

上の写真と同じく1977年、10月2日のライブ。マークのこの顔怖いです。

(Photo by Kevin Cummins)

またその2ヶ月後、1977年12月21日。この年にはライブデビュー初年にして23回もライブやってます。それにしても、パンクなというかいわゆるバンドのステレオタイプさえもぶっこわしてきてますよね。

(Photo by Kevin Cummins)

ただマークは自分たちの音楽にはまわりのエセパンクスにはない「強さがあった、自分たちが他に勝っていた、たったひとつの理由はそれだった」と言っています。

パンクシーンのど真ん中から生まれたのに、むしろ逆張りヲタク的!?だからぜってぇ、自分たちの出所が「パンク」とは言わないのではないでしょうか。

 

2010年3月、(モリッシーディスりでおなじみ)DJのデイヴ・ハスラムとのトークショーでマークは、

「パンクとかニューウェーブとかには全く興味がなかった。ただ、とてもベーシックでとても野蛮な音楽、そして知的な歌詞を作ろうとしていた。それは今も同じだ。パンクのような抽象的でスローガン的な歌詞と比べると、歌詞はとても具体的で、現実的なんだ」

と発言。自分の作る音楽はパンクの構造とあえて差別化していることを感じさせます。

 

マークは1994年、アメリカのカレッジラジオで学生にパンクは好きだったか、と聞かれた時も

NO

と答えています。「でも初期の作品はパンクのような音でしたね?」と聞かれると、

「パンクが始まった頃は良かったけど、1年後には急速に悪化した。ヘビーメタルみたいになってスピードアップして退屈になった」

と言っていました。

先ほどのハスラムはマークに

「1976年に行われたセックス・ピストルズのライブについてだけど、マンチェスターが文化的に荒廃してたとこにマルコム・マクラーレンが現れ、すべてを変えたという話をよく聞く。セックス・ピストルズがマンチェスターに来なかったとしても、バンドやあなたの音楽キャリアは実現したと思うか?」

とも聞いています。それに対してマークは

「正直なところ、しばらく前からすでにいろいろやっていた。1975年頃から始めてた」

…と答えているので、え!?フォールの前身バンドがあるのか?と思ったところ、

「本好きのクラブみたいなことをやっていた。当時はみんな仕事を持ってたから、週に3回、女も男も一緒に読書会」

と答えていました。ど、読書会って、、健全か!…と言っても、マークの屋根裏部屋に集まってキノコを食べたり薬をやりながら、詩を書いて、プロレタリアの存在の限界に挑戦していたのだから、ある意味「パンク」と言えます。いくらマークが「パンク音楽は退屈」と言っても、「パンク」は音楽とかファッションだけじゃないから、結局あんたパンクってことでいいじゃんとも思うんですが。

そしてハスラムに、「ではパンクは、あなたのやっていることにどんな違いをもたらした?」と聞かれてマークは

「正直に言うと、何もなかった。でもパンクは、俺たちにちょっとしたチャンスは与えてくれた」

と言っています。や、やっとパンクを認めましたねw

 

自伝では、パンクについて41ページが42ページにかけて、真面目に語っています。

マークいわく、パンクは多くの人にとって「セーフティ・ネット」だったと。70年代のイギリスの現実からの避難場所だった。

(余談ですが、同時代にパンクを体験したボビー・ギレスピーも自伝の中で「俺たちはアウトサイダーであり、パンクに夢中になることで、ストリートの暴力やスコットランドの抑圧的な労働者階級分化から逃避しようとしていた」と書いていますね)

そんなによりどころ、救いとしての価値を認めているのに、自分は「パンク」に自分を合わせたことは決してないと言い、なぜザ・フォールが決して「パンクバンド」でないかという説明を書いています。

「パンクの一番いいところは、完璧さを求めないことだ。パンクであるために、よく訓練されたミュージシャンである必要はない。しかし、多くのシーンと同じように、非常に保守的になり、誰もが同じ服を着て、そうでないものを避けるようになった。すぐに言うべきことが尽きてしまった」

「もっと長続きする音楽をやりたい」

だからパンクと自分の志向は相いれないと、クラッシュやピストルズを例にひいて(ここでは割愛します)、パンクのスタイルとしての形骸化、陳腐化、哲学というより表面的な定義のひとり歩きについて意義を申し立てています。

でもこれはパンクという音楽に限ったことではないマークの姿勢だと思います。パンクどころか、18歳の時に何の音楽にも満足できなかったから、他にはないものを作りたかったという彼の決意の一環であり、パンクだけをとりたててディスっているわけではないと感じますが。

具体的で現実的で「他にはないもの」を目指したザ・フォールの音楽がどんなかってことについては、また詳しく。

 

★イベントで使ったマークの音楽観引用スライド↓

 

【おまけ】

一方で…ジョン・ライドンがフォールのザ・ファンだと言い、「執拗で、途切れがなく、永続的」とほめてくれてるインタビュー音声があります。

あろうことかジョン・ライドンが、(マーク思うところの)パンクの逆張りを貫いた、マークの音楽哲学をすっごく理解してくれているとは!!すごいなと思って(笑)。のっけておきます。

John Lydon on Mark E Smith and The Fall