goo blog サービス終了のお知らせ 

いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

週末いかがお過ごしでしょうか。

2021年07月24日 | 日記



みなさん、どうもごきげんよう、こんにちわです。




私の母は、今80代半ばです。
最近、とみに物を覚えるとか、何かを実行する能力において、
その自由が利かないような状態が、目立つようになりました。
去年できたことでも、今年はできないのが、見て取れます。
まあ、子供が自然に成長するのと同じで、
時間を追っていくごとに変化というのは起きますから、
それがつまりは、どちらも生きているからこそ、
そういう風な移り変わりも生じてくることなんですね。


子供が育つのは歓迎するのに、
衰えていくのを認めない・受け入れない、
というのは、事実の受け止め方で片手落ちかも知れません。


それが喜ぶべきことか、それとも自分に嬉しくないことか、
これは何事にもあるものです。
でも、それはそれとして、認めて・受け入れた上で、
要は、その現状を踏まえて、何をしよう、
これから、どういう構えで生きていこうか。
それが誰もが行うところの営みなのだ、ということですが。


そこが得てして、頭先行で人生を処してきた、
建て前ありきな生き方から降りるのを、
やめたがらない人達が、抱えることになる困難なんですね。


そういう価値観に染められていると、
これが出来ないし、しちゃいけないことだみたいな、
自分のゴリ押しで、自分自身が潰れていく選択を続けてしまう。


そういう世代が、日本の高度経済成長の波を乗ってきたんでしょう。
また、もっと過去に、それらの父兄らのブーツが足音を響かせたし。


でも、どっちも旧いです。
もう終わりにするべきでしょう。
ひたすら、周りも見渡さないで邁進するのは。








すいません、ちょっと、用事があって、
書きかけですが、場を離れます。
また、のちほど、この続きを。
ではでは、良い休日を~~~~~~~~!!!





夜宮公園(北九州市)の花菖蒲(ハナショウブ)

2021年06月05日 | 日記
どうも!ご無沙汰しておりました。60日超の復帰です。

今日の外出で、夜宮公園に行って参りました。

この状況です。明日予定の市のイベントも中止、当然ですけど。







今日の目的は、二人の間で最近恒例にしている夫婦で行く休日散歩。

広い夜宮公園を歩いて来ようかとドライブがてらで出て来ました。








私は園内は初めてで、旧・安川邸も来てみて、知りましたが。

それにしても何とも広大な敷地ですよね。

北九州市の工業都市を生んだ財閥系の強大さを示す象徴ですもの。








公園内の慰霊塔がある広場では、持参のオニギリを頂きました。

子供連れのグループや、犬を散歩させているカップルも、

運動をする年配者も、皆さんご一緒しましたよ。








街路樹の「なんじゃもんじゃ」の木も初めてでした。

天然記念物の大珪化木というものが、何であるかも見て知りました。








自宅からは午前中に出発しましたので、だんだん人手が増えだし、

少し気温も蒸し暑くなりだす前に、引き上げてこられました。








梅雨時ではあるけど、帰りは青空も見えたりして、

まだ6月並みの身体には背中で汗を感じるような気候でした。








自家焙煎の珈琲を淹れてる喫茶店にも寄りました。

かき氷については、季節がまだでした。

あとコーヒーゼリーも某都合でしていません。

だけどアイスのダッチコーヒーは、口当たりに美味でした。








この頃、二人で外出しているときに思うんです。

私個人は、ずうっと長い間、さまざまな厄介事に見舞われてきて、

これまでの半生は、その真っ只中で暮らす身にいましたけどね。








まず世の中というものが、標準で。ズレてたり、間違ってるのは、

常に私の側でした。「お前オカシイだろ、普通じゃないんだよ」

そういう御叱りを受けるのは、いつも自分の方でしたが。








でもね。皆さん御案内のように、今は世の中の側が、

どう考えても「ふつー」じゃあなくなっていますでしょ。

もはや、何が当たり前か、これを誰にも言えなくなってる。

「ふつー」の人が、「ふつー」の世界に暮らしちゃいませんもの。








そうなんですよ。基準というのは自分で持っているもんだ。

とは錯覚なんです。周りから宛がわれるのが実は「基準の正体」、

たまたま、それを共有しあう側で、自分を基準と見做していただけ。

一種、相対的「値」に過ぎない、そうした「基準」ですからね。

そこに絶対的な妥当値というのが、端から存在をしていない。








尤もらしく、コレコレだからシカジカなんだよ。

その「コレコレ」も「シカジカ」も融通無下にネジ変え可能。

ある時代は、「ナニナニ」だったり、

別の地域では、「アレコレ」だったり。

そういう中身を、たまたま当てはまらない相手に対して、

押し付け式が罷り通る、そういう内容で、中身なんですね。








変な話だけど。世の中、訳分らんし、意味不明な様相ではあるけど。

こと自分個人に関し、私たち夫婦としての今現在の暮らし向きに、

これまでなかった穏やかさや安らぎを味わえてることが、

どうも近頃とても極まってきた感すら覚えるぐらいなんです。

確かに、いま世間は世間だけど、

つくづく自分は今の時代で助かったと、そう思わずにいられない

そんな境地なのですよ。








つまり、世の中が、どうだから、自分がこうなんだとか、

自分が、こんな風にしているから、世の中は、こうなるのだとか。

これ、案外そこに連携や関連があるようでいて、

本当は並行に、そこにあったから、同一平面に見てた気もする。

そのことを、今まで多くの人が思い違いしたんじゃなかったのか。







そんな気持ちもしてくるんです。








ある意味、これはこれ、それはそれ、というもので。

そうした別個の要素を、勘違いにも因果関係だと思っていないか。

そうでなければ、今なぜ社会現象として、この出来事の展開があるか、

これを見誤るような、そんな危惧も。。。








ある時代の何かは、別の時代の何かに代わっていく。

あの40メートルを超える巨木だって、時代を経ると今では、

セルロースが珪化物に置き換わり、植物から岩石に入れ替わるのです。

それでは永遠に植物が植物であり続ける場合とは、

それが命として代替わりして、引き継がれる場合だけです。

姿を変じて次代に生まれ代わり得るから、植物は植物であり続ける。

これが命の真正であり、これが花が咲くという真意です。










いろいろあるし、みんなそれぞれだから(完結編)

2020年12月16日 | 日記



いかがお過ごしですか。昨日と今日は北九州でも雪が降るくらいの寒さです。



さっそくですが、前回の続きを書かせていただきますね。



これは統合失調症や、またいわゆる「ひきこもり」の場合でも、そういう家族なり親子間で、よく見聞きする出来事ですが。



それは親の立場から、わが子に対して何らかの働きかけをする場合、知らずしらずに起きているような事柄でもありまして。



そうしたとき、子供へ声掛けをする言葉の使い方にも、それはあったりするし。また親子が接している場面で、親の行おうとした働きかけにも、これが入り込んで来たりするし。そういう期せずして忍び潜んでいる、そんな現象なのですが。



それは親が目の前にいる子供の様子を見ているようなときに、目に留まった子供の行動で、何か気付いたり感じたりすることがあるのは、親の眼差しで見ればこそ湧いてくる気持ちでもあるし。もしそういう何かに自分たちが出くわしたら、これはどこの親でも、自ずと思うことがありますからね。それを感じること自体は、非常に当然なことであって。また子供を大切に思う親の立場だから、これはそうした大事な関心を寄せている、そういう姿勢の現れなのだ、そんな意味もありますよね。だから、必要があれば、その状況毎でただ声を掛けてただけなんだけどね、と言えなくもないです。



またそれは目前の行動だけに限りませんから。例えば先々に予想されるような今後の計画や方針だとか、それらに関しても、お互いに親子であればこそで。子供に対して、これだけは伝えておこうという思いであっても、是非これは知っておいて欲しいものだと感じる願いでも、これらを親であれば持っているのも当然だから。そこで何らかの考えを述べてみたり、また伝えていたりする、その行為にしても、これは至極当たり前といえば、紛れもなく、確かにその通りでありましょう。
 と、まあ一見そういっておくべき事柄かのようではありますが・・・



まさに、それは親だからこそ、これは一つ声を掛けようと気持ちが働らいて、ごく自然に湧いてくるかのように、言いたい感情が浮かんでくる。これは人間としては間違いなく親子だから感じる情には違いないですよ。私もそう思う。



でもだからといって、その気持ちを、ただ直接言葉にしてみて、それを述べていたら、これはそれで済ませていてもよい話なのかと言えば。そんなことでは、不味い声掛けを繰り返してばかりいるだけなんで。そこに、ある種短絡の兆しがありますから。もしかして、それは単に反射的な心に浮かんできた気持ちを、傍らにいる人間の口から、何の考えもなく機械的に反応したみたいに自動的な行為をやり続けていただけではないか、そんなキライがありますよね。だからここは少しばかり、いや、本当のところ、これは深く深く振り返って熟考を要す問題なのかも知れない訳ですよね。



だって、親というものは、少なくとも子供よりも、一層の賢い使い方で頭を働らかせてこそ、その振る舞いを手本とする子供にも、見習うべき行いを示せるはずだからです。その方が、より親としても相応しいから、そうするべきなのですが。



もし何か自分のしたくないことを、やらせるように強いられたら、これは子供だって反射的に「嫌だ」と拒否するのは同じ。「バカ」と言われて「バカ」と言い返すのは子供同士のやり取りでしょう。



もし親の目で見て、それはするのが大事だからと思っても、嫌だという子に、単純な駄目だの応酬で押し出しに持ち込み捻じ伏せてるのでは、子供と同じレベルの力比べです。そりゃ、それでも勝つは勝つか知れないが。だってね。どう考えたって力のレベルで大人が勝るんで。でも別の意味で、これは力で鎮圧すれば圧政を押し付けるのは構わない、それも手段の一つだ、というのを教えてる側面もある。



ガキ大将の振舞い方についてなら、これでも教えられているつもりかも知れないけど、子供相手にフェアな態度じゃない。もっと大人らしい接し方をしようとするなら、そういう力技だけで応じていれば、やがてこちらが気付かない内に、子供の心を傷付ける対応の繰り返しをしていく。これは後々になって酷く不味いことを引き起こしてしまいます。だから、私は、こうしてこの文章をシタタメて、そこをお伝えしようとしていますからね。



そういうオウム返しみたいな声掛けという手段でも、それで言うことを聞くような子供に仕立てるのは可能ではあります。ただ。それは誰の意思で、そういう行動を子供本人がしているかと問えばです。それは、単に命令が下りてきました、それに従います。そんな構図が子供の中へ形作られていくだけなのです。わかります?



最初のうちは、一見これが非常に機能性を発揮するものだから、表面上は上策のように映るし、こちらが言えば物聞いている子供は、何でもちゃんと出来る賢い子供のように見えてしまって、だがだが、これは潜伏をして残り続けていきますから。それで一層これがヤバいんで、そういう爆弾を孕みながら継続して時間もいつしか経過をしていきますが。



さあ、この爆弾というのがですね。実は何とトンデモない時限爆弾なのでありまして、その内にだんだん中身が見え隠れし出す様になります。どうなっていくかといえば、その初期にはですね。例えば子供は、こんなことを言い出したりします。実際には学校へ登校しなくなるんだけど、本人は「自分で動こうと思っても動けない」とか「お腹が痛くて動けない」「頭が痛くて起きられない」。



ただし、これ何も単なる仮病なんかじゃないのですよ。痛みのレベルでいえば、本当の病気の痛みの強度と全く何ら劣らない苦しさです。しかも、身体の病気の痛みとは違って、鎮痛剤では効くようなものでもないから、身体の病気として治療をしても、それで治せる話とは違います。



さらに、長じていくと、「自分が何をしたいか、よくわからない」だとか、更には自分の気持ちとは裏腹な自分にとって自分とは違った「声」や「言葉」に振り回されたり、突き動かされたりも始まる場合がある。



これは何かわかりますか。本来ならですね。その人にも自分の意思なり気持ちなりが、自然に育ってくるという過程が、ちゃんと芽が出せていたはずなんです。この芽が伸びて、それから枝葉を茂らせるのは。これ自体が命を宿していて、まさに生きた生命だから、やがて時間が経つにつれ進行していく話です。出てきた芽を誰かが引っ張るから、それで成長が早まるのでもないし。水が多過ぎても、日当たりが強すぎても、余分な肥料を加えすぎても、生育は阻害されてしまうし。その相手は、それが備えた状態に応じて、伸びていく力を発揮させていくのですから。ある部分で周りは時間が経つことに付き合いながら、見守りつつ待ってやる配慮が欠かせません。



そうすると、心の中に「自分」というものの芽が出だして、それがやがて育まれると、その人の心には、その人らしさと釣り合うだけの「自分」という感覚となって、確固とした姿に形成させていきますから。その人らしさは徐々に顕わになり、時間とともに如実な発揮をさせていく力は備わっています。けして諦めたりせず、周囲は静かに待ち焦がれ待ちわびる思いで、心密かに離れて見ているぐらいに距離を保ち、任せるつもりで大切にしていけば。その内、大人としての人間らしさを身に纏う、その人らしい心も兼ね備えた営みは遂げられていくのですから。そういう健やかさを併せ持った成長の筋道が、過去において多少は不確かな迎え方だったのを無念さと覚えるだろうけど、時計のネジというのは巻き戻らないし。こうして今ここに生きているのなら、いまだ前途有望も間違いなしと信じてこそ、親であり家族の為せる愛情でしょう。何事も命ある限り、なるものはなるのが生命です。こんなことくらいで諦めていたら、まったく勿体ないからね。



あれはだから、周囲にいた親や家族たちが、あたかもハイジャックではないけれど、操縦桿を本人に任せようとせずに、一生懸命に子供を外から操縦するように関わり続けてきたせいで、いつしか子供は心が育つのが止まってしまい、「自分」というものの代わりに立てる代理みたいにですね。この人のなかでは、自分でも見たり気付いたりすることの出来ないような部分で、即ち無意識的な部分ですけど。この人は知らないうちに、「命令が下りてきました、これに従います」という世界を、それが自分なんだよという受け取り方に丸飲み込みをしてきたものですから、自分というのを、結局そういう形でしか取り入れていかれなかった。そうした事情に見舞われるという状況があったことでした。



そうした過去の時点では、いつしか、自分と自分の気持ちというのを、自分のものとして持つことなく、大きくなってきたこれまでで、そういう成長をしたのだということで。これには何か悪意があって、そうしたとかでないのは必要な理解で、わかってください。そこには卑劣な意図なんて微塵もないし。確率的な確からしさでも優に100%は超えていると、世間の人々からでも了解をされる話です。まさか、こういう結果を招くとは知らないから、そうなってしまったまでですよ。ただ、一言添えさせてもらえれば、こういう部分にも理解が必要だったと、今からでも遅くないから、気が付いて頂きたい。そんなことを知らないから、こうしてきたんだけど、実際はここにはそういう背景があった訳なんだという、こういう分かり合いを親子の間では、互いに共有をし合えたら本当に素敵だなと願っていますし。ひとは故意でも悪意でもなく、知らない物事では、しばしば間違う結果になるのもよく起きる。そして認めるからこそ、何かを変えようが可能なんです。ただ誰にも、これを教えてもらえなかっただけですよ。その知らない点を落ち度であるとは誰からも責を問われるいわれはないです。



知った人は、そこで改めるまで。でも何だか自分の目の中には、こんなところまで見えてしまった、という私としては、同じ困りごとを抱えた周りには、そこは伝える責務が回ってきます。見付けてしまった人、知ってしまった場合、それはもう見て見ない振りなんて行為をしてたら、それは今度からは罪を犯したのと同じになる。相手に手を貸すはずの場面で見捨てたりして打ち捨てるのは、悪意を向けて攻撃したのと等しい意味です。鬼がする所業になるのです。そう、あなたとしては知らなかったのでしょ。あなたは、まだ知らなかったから許されるのです。でも、もう今なら既に知ってしまったことです。既知の事実は、もう知った時点で知らない素振りを許してもらえなくなるので。そこに、あなたのすることがあれば、それはするまでなんだ。これは人の習いです。



さてさて、つまりはこれが世間でよく言うところの、曰く物分かりがよく言うことを聞く「いい子」だったのに、どうしてこんな風になってしまったのでしょうね、ということの正体であった訳でした。これには、そういう中身があったことでして、これがその真相ということです。



そういうお話ですからね。単純に薬を用いれば、それで解決をするのだとは言い難い。だって、脳を、つまり、その人を生み出すプロセスを薬剤が肩代わりできるはずないですよね。こういう自分にも見えないし掴み切れない相手に、自分の状態が振り回されてしまうのを避けるには、場合によって多少の薬は利用するとしても、それだけで出口が見付かったり、突破口を拵えたりは作り切れない相談なのです。



もしかしたら往々にして相当な時間と手間を掛けるのは覚悟をして、自分として自分の人生を生きていくということとは果たして一体どういう何なのだろうかしら。そこを、これからどう生きていけるかが自分の人生ですから。これを探し求めて、生きるという営みのうちへと反映をしていく、それがこれからの道程なのですよ。そこは今これからで探すのをはじめるほかないですからね。愚痴を言っても、最早はじまらない。この現状に取り組むには無駄な時間を割いてホザイテルような暇はしてる猶予はないと考えなきゃ。あとは、自分で自分を引き受けて、己の生き方を自らで探すのみです。



幸いにして、人間の脳が持っている能力として、生涯に渡って作り替えていく潜在力が備わっていますから、これを頼りと思って、将来を信じて、遅まきでもこれから如何に生きようかという、これを目指す取り組みが、私たちのしていくところの養生であり、私たちの自分らしい生き方だ、ということです。



以上



では、また今度ね。




いろいろあるし、みんなそれぞれなんだから

2020年12月14日 | 日記


 私の中で、ある一つながりになった考えが浮かんできましたので、それを書いてみることにしました。



 多くの人が経験をすることだと思うのですが。自分を養い育ててくれた相手、つまり親のことを指す場合がたいていですが。それらの人に対する一種の強い反発感だったり、また不信感であるとか不満感、また広く大人全般について嫌悪する気持ちとして意識に上る場合も多いようですが。これら特有の感覚というのは人生のある時期、例えば若者達だったら、恐らくその大半に経験がある気分や感情だろうと考えますが。これから書こうとする事柄は、こうした部分から始まり、さらに展開して述べられる話だと、そう前置きをさせて戴きますが。



 まず、ひとが幼い時には、自分のまだ知らない分からないことが非常に多くて、自分にできることも限られている訳で。その時に知識でも経験の上でも勝り、力のまだ及ばない自分を守り育ててくれる親を得て、それを頼りにしたからこそ、この自分に、わが身わが心の成長も起きていたんだということです。それこそ文字通りに自分を食べさせて、その面倒を看ている相手には、従ったり励まされたり、また時に叱られたりして、様々なことを身に着けてきたという過程が、そこにはありました。これは、その親たちにしても、そのまた親からで、ほぼおなじように、そうされてきていました。



 これが順繰りに人類の歴史の長さだけ、正確には、さらにその前にも遡って連綿と続くのだし、信じられないぐらい長きに渡る世代数を延々と繰り返してきた結果として、この自分も、もちろん自分たちの親世代も、さらに世界中どこの地域の、どの時代の家族であっても、それら一人ひとりというのは、すべてこの流れのなかに、まさにあったからこそ、その人として、そこに生まれ、生きた。ということですよね。



 さて、徐々に成長が進み出してくると、やがて幼いころとは違い、そういつでも全面的に親が頼りといった構えは、だんだんと退潮していくようになります。この時に、前とは違い、自分たちの眼に、その親たちの様子は、過去とまた違った姿となって目に映って見え出してくるようになりますが。これが最初にあげた思春期や青年期に感じたであろう、あの特有な感覚の正体であったのです。



 つまり、自分から見て、そんな風に感じ出して来たというのは、以前とは違う成長の段階に自分がいるんだということでもあるし。親の側から見て、生意気なことを言い出したり、言うことを聞かなくなってくるというのは、子供が親離れに差し掛かるところまで精神的な成長をしてきた証拠でもあるわけです。



 それを親子双方で、どういう意味がそこに含まれているのかで、勘違いをした考えのまま受け止め続けていたりすると、これは取り分け何か困難を抱えている家族の場合に特にそうなりがちですが。そこから次の段階へスムーズに進んでいく妨げになるような行動を、その双方で掛け合いをしてしまうような。そういう難渋を繰り返し、事態が悪化することも往々にして起きていたりします。



 人間に限りませんが。ほかの哺乳類の動物の親離れ子離れの場合でも、そうとうに厳しそうなかたちで親子が別れていくものがよくあります。これは親の庇護を離れて生きていく独り立ちでもありますから、何かを乗り越えないといけない厳しさというのは、自立に関してなら、これは越えてしかるべき峠道でもある訳です。だから、ある部分で厳しさのある敷居が跨げるかどうか。これは、後々になってきっと役に立つであろう困難の一つとも言える側面もありますが。ただ一つ考えておかないといけない重要な点があるので。これから指摘をしておこうかなと思います。



 最近、私が耳にした某ひきこもりの本人のひとの言葉にもありましたし。同時に昔から統合失調症のひとたちの周囲に、しばしば見られる親子間の出来事として語られる内容でもあったりすることなのですが。といってもですよ。一人ひとりの人間というのは、それぞれが、それぞれで他に代わりがいない、それぞれで違う別個で独自な一人ひとりですからね。



 だから、誰かある人の何かが、別の誰か他の人にも、そのままに当てはまるのかどうかといえば、これは被さる場合と、被さらない場合があります。なぜかといえば、人間というものが、どうやって、その人ができているかといえば。某誰それさんというのは、生物的に持っている特性や背景の面も、文字通りその人が経験をするすべてのことでも、そしてその人を取り巻いているあらゆるすべての影響も入れて、これらすべて積算をするように掛け合わせて、しかも日々その人が行動でも経験でも、また健康状態でも、栄養状態でも、全てが反映をして、そこへさらに変化の要素が加わり続け、その人らしさを醸すところの脳の成り立ちに関わっていて、これが生涯に渡り重なり続けるなかで、その人という人間となる、これがその人だからです。



 つまりですよ。胃薬なら、同様の利き方で他の人の場合にも効く場合があったとしてもですね。誰かの人生の躓きに効果があった斯く斯く然々の方法というのは、これが別の人に同じ効果があるかどうかは、根本的に話が別だといえるのです。よく言うのは、精神的な病気の場合の対処や解決方法というのは、その人が自分独自に編み出す以外に上手くいく手段が見付けられないと言います。つまり自分を治す道具を自前で用意しないことには、誰にも作れないのですから。部品を組み立てて作られているような工業製品の対極ということです。



 だから、医者であっても、一人ひとりに合わせて誂えるなんて不可能なんです。ドクターからこうしてみたらと言われました。という内容はですね。これは言わば一般論の部分です。自分の場合にどうしたらいいかを探すというのは、自分がする仕事です。いいですか。医者が何もしてくれないんじゃないですよ。ドクターだって出来ることと出来ないことがあって、医療職の仕事とは、むしろ私たちが、それをやり遂げるのに付き合い立ち会ってくれるような立ち位置で見守りながら待ち続けてくれる援軍だと、そう考えていた方が、われわれは自分の仕事が捗りますから。だからこそ同病仲間とのセルフヘルプが有効なんですね。



 ちょっと話がズレてきました。長くなるので続きは次回にさせてください。




結局のところ、他人事なんて、ないんだからね。(中爺 談)

2020年10月19日 | 日記



この間、東京まで母を訪ねて泊まり掛けで旅行してきました。

それは、前回も記事にして投稿したのですが、

それと並んで、ふと考えたこと、思ったことがあるので、

今日は、それを記すことにします。




私は、もうじき誕生日が来ますが。今度で満61歳です。

私の母は、いま80代の半ばですが、去年と比べてみても、

ハッキリ「1年分の違い」は大きいものだなあと感じます。

  (おまけに「コ○○の時代」ですから、

  よけい来年がどうなっているか。

  そこに約束などあろうはずもないのは、

  承知しているつもりですよ)




母の様子に、私の目から変化として見て取れたのは、

一つには身体の衰えですが、だんだんにボケていく進み具合です。

端的には、これは老化という問題なのですけれど。

話をすれば、何度でも繰り返し出てくる話題があることは、

去年の時も傾向として同様であったのですが。

今年の場合、時として目の前にいる私を、誰だと思っているのか。

それを分かってるかどうか、何だか怪しげな口ぶりもする。




まあ、そういう状態の老人を聞いてますし、別に慌てたりしません。

また、この私にすれば、病気の仲間や知り合いが沢山ありましたから。

そうした人々が、現実でないことも真顔で話すのは見てきました。

だから、ありえないことも、妙なことも、

実際にあることも、ないと判断されるような事柄であっても、

それらを区別することなく、人間というのは平気で言葉にするものである。

というのが、基本中の基本とでもいうべきで。

そういうことは、体験の上でも、とても数多くを見聞きして来たので。

人は誰でも、そう感じたら、そう話すし、それ以上でも、以下でもなく。

ただただ、そういうものであるとしか、これは言いようがないので。

だから、そんなことで、相手の正気かどうかを値踏みしたりもしないし。

腑に落ちないことを言葉にする相手を、どうこう思ったりもしないのです。

つまり。私から、相手に対して、何も、そこで思う気は持っていない。




私に予断はないのですが。そうした場面で感じたりするのは。

そこで何かボケたことなど口にでもした人というのは、

多くの場合、それを口走った自分に、その人自身で気が付いたとき。

たいていバツ悪そうに、ボケているのを卑下したセリフも言う。

結構、ネガティブに否定的な評価をされているご様子なのです。

そのボケてるという側面というのをね。




少し皮肉っぽく言わせてもらえれば、そういうボケたことを言うのを、

何かの不注意であって、本来そういう風でないのが正しいという。

そんな素振りすらも漂わせている風情なのです。




でも、先程から何度もお断りをしてきたようにですね。

病気などを含め、人間というのは整合性のない話も平気でするし。

現実か、非現実か、その区別は案外あいまいで頼りないものだ。

それが人間だ。これが実際である。というのを、よくよく知っています。

だから、そんなに気にする事でもないのになと思うし。




第一、誰もが自分から見てどうか、これしか言葉にはできません。

だから、厳密な意味の上で、間違ったことも、勘違いなことも。

それらは自分たちの話す事柄であるし、また話して当然なのですから。

じゃ、オマエは、一体そこで何が引っ掛かるのかって?




つまりですね。さっきの失言をカッコに入れて、別記事項を付け加え。

それで、いまの自分は、そのカッコの外にいるか、まだ中にいるのか。

その定義のし直しみたいな、何重もカッコ付けを増やしたとて。

所詮、人間なんて、そのカッコの外から、何が正しいか、誤りか。

これに拘わり、気にしながら、それで正しい但し書きさえ書けたら、

どれが正解になるのだとか、まだ誤記が残されたままだとか。

そんなの気にして、足掻く気持ちを湧かせてみても仕方がないんだよと。




そんな進言を申し上げたい。そんな思いに駆られるのです、私としては。

別に意地悪なんかじゃないんですよ。

どんな人にも起きるんですから、こういう事柄は。

ですから、どこかの誰かの愚かしい部分で揶揄をしていたり、

馬鹿な人の馬鹿さ加減を笑いものにして嘲っていたり、

誰かのヘマを他人事みたいに吐き捨てるような扱いをしていたり、

そういうことを散々してきた人に限って、

まさか、そんなこと自分がする側になるとは予想もしなかった。

そういうサガは全部いつか自分に返る。ということなのでしょうね。




ですからね。自分の病気や障害でも、これも必要以上に卑下をしてれば。

それも、やはり別の形で、自分に返ってくると。そんな気がします。

等身大は、等身大でいいことなんだと思うのです。

誰だって人間に、そもそも完全・完璧はないことですから。

自分も不十分だし、同時に、どこか誰かの落ち度にしたって、

それを対岸の話だなんて思っていたら、わが身に返ってくるものです。

そういう意味で、いま困っている人のことを、知らんぷりは不味い。

困っている人でも、立つ瀬がないような人でも、それ他人事扱いにすると、

これは将来というものを考えられていない自分に、哀れな番が来ます。

誰かを馬鹿にしていたら、自分に立場が変われば、自分を傷付ける。




あなたが人に吐いた罵りは、いつか自分の嘲られる下地の用意です。

つまり、要らない邪な思いとは、いつか自分を痛めつける鞭になるから。




というのが、今日のお話のオチでした。




怖いですねえ。恐ろしいですねえ。気を付けましょうねえ。

それでは、また。お会いしましょうね。

サヨナラ~、サヨナラ~。