いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

いろいろあるし、みんなそれぞれだから(完結編)

2020年12月16日 | 日記



いかがお過ごしですか。昨日と今日は北九州でも雪が降るくらいの寒さです。



さっそくですが、前回の続きを書かせていただきますね。



これは統合失調症や、またいわゆる「ひきこもり」の場合でも、そういう家族なり親子間で、よく見聞きする出来事ですが。



それは親の立場から、わが子に対して何らかの働きかけをする場合、知らずしらずに起きているような事柄でもありまして。



そうしたとき、子供へ声掛けをする言葉の使い方にも、それはあったりするし。また親子が接している場面で、親の行おうとした働きかけにも、これが入り込んで来たりするし。そういう期せずして忍び潜んでいる、そんな現象なのですが。



それは親が目の前にいる子供の様子を見ているようなときに、目に留まった子供の行動で、何か気付いたり感じたりすることがあるのは、親の眼差しで見ればこそ湧いてくる気持ちでもあるし。もしそういう何かに自分たちが出くわしたら、これはどこの親でも、自ずと思うことがありますからね。それを感じること自体は、非常に当然なことであって。また子供を大切に思う親の立場だから、これはそうした大事な関心を寄せている、そういう姿勢の現れなのだ、そんな意味もありますよね。だから、必要があれば、その状況毎でただ声を掛けてただけなんだけどね、と言えなくもないです。



またそれは目前の行動だけに限りませんから。例えば先々に予想されるような今後の計画や方針だとか、それらに関しても、お互いに親子であればこそで。子供に対して、これだけは伝えておこうという思いであっても、是非これは知っておいて欲しいものだと感じる願いでも、これらを親であれば持っているのも当然だから。そこで何らかの考えを述べてみたり、また伝えていたりする、その行為にしても、これは至極当たり前といえば、紛れもなく、確かにその通りでありましょう。
 と、まあ一見そういっておくべき事柄かのようではありますが・・・



まさに、それは親だからこそ、これは一つ声を掛けようと気持ちが働らいて、ごく自然に湧いてくるかのように、言いたい感情が浮かんでくる。これは人間としては間違いなく親子だから感じる情には違いないですよ。私もそう思う。



でもだからといって、その気持ちを、ただ直接言葉にしてみて、それを述べていたら、これはそれで済ませていてもよい話なのかと言えば。そんなことでは、不味い声掛けを繰り返してばかりいるだけなんで。そこに、ある種短絡の兆しがありますから。もしかして、それは単に反射的な心に浮かんできた気持ちを、傍らにいる人間の口から、何の考えもなく機械的に反応したみたいに自動的な行為をやり続けていただけではないか、そんなキライがありますよね。だからここは少しばかり、いや、本当のところ、これは深く深く振り返って熟考を要す問題なのかも知れない訳ですよね。



だって、親というものは、少なくとも子供よりも、一層の賢い使い方で頭を働らかせてこそ、その振る舞いを手本とする子供にも、見習うべき行いを示せるはずだからです。その方が、より親としても相応しいから、そうするべきなのですが。



もし何か自分のしたくないことを、やらせるように強いられたら、これは子供だって反射的に「嫌だ」と拒否するのは同じ。「バカ」と言われて「バカ」と言い返すのは子供同士のやり取りでしょう。



もし親の目で見て、それはするのが大事だからと思っても、嫌だという子に、単純な駄目だの応酬で押し出しに持ち込み捻じ伏せてるのでは、子供と同じレベルの力比べです。そりゃ、それでも勝つは勝つか知れないが。だってね。どう考えたって力のレベルで大人が勝るんで。でも別の意味で、これは力で鎮圧すれば圧政を押し付けるのは構わない、それも手段の一つだ、というのを教えてる側面もある。



ガキ大将の振舞い方についてなら、これでも教えられているつもりかも知れないけど、子供相手にフェアな態度じゃない。もっと大人らしい接し方をしようとするなら、そういう力技だけで応じていれば、やがてこちらが気付かない内に、子供の心を傷付ける対応の繰り返しをしていく。これは後々になって酷く不味いことを引き起こしてしまいます。だから、私は、こうしてこの文章をシタタメて、そこをお伝えしようとしていますからね。



そういうオウム返しみたいな声掛けという手段でも、それで言うことを聞くような子供に仕立てるのは可能ではあります。ただ。それは誰の意思で、そういう行動を子供本人がしているかと問えばです。それは、単に命令が下りてきました、それに従います。そんな構図が子供の中へ形作られていくだけなのです。わかります?



最初のうちは、一見これが非常に機能性を発揮するものだから、表面上は上策のように映るし、こちらが言えば物聞いている子供は、何でもちゃんと出来る賢い子供のように見えてしまって、だがだが、これは潜伏をして残り続けていきますから。それで一層これがヤバいんで、そういう爆弾を孕みながら継続して時間もいつしか経過をしていきますが。



さあ、この爆弾というのがですね。実は何とトンデモない時限爆弾なのでありまして、その内にだんだん中身が見え隠れし出す様になります。どうなっていくかといえば、その初期にはですね。例えば子供は、こんなことを言い出したりします。実際には学校へ登校しなくなるんだけど、本人は「自分で動こうと思っても動けない」とか「お腹が痛くて動けない」「頭が痛くて起きられない」。



ただし、これ何も単なる仮病なんかじゃないのですよ。痛みのレベルでいえば、本当の病気の痛みの強度と全く何ら劣らない苦しさです。しかも、身体の病気の痛みとは違って、鎮痛剤では効くようなものでもないから、身体の病気として治療をしても、それで治せる話とは違います。



さらに、長じていくと、「自分が何をしたいか、よくわからない」だとか、更には自分の気持ちとは裏腹な自分にとって自分とは違った「声」や「言葉」に振り回されたり、突き動かされたりも始まる場合がある。



これは何かわかりますか。本来ならですね。その人にも自分の意思なり気持ちなりが、自然に育ってくるという過程が、ちゃんと芽が出せていたはずなんです。この芽が伸びて、それから枝葉を茂らせるのは。これ自体が命を宿していて、まさに生きた生命だから、やがて時間が経つにつれ進行していく話です。出てきた芽を誰かが引っ張るから、それで成長が早まるのでもないし。水が多過ぎても、日当たりが強すぎても、余分な肥料を加えすぎても、生育は阻害されてしまうし。その相手は、それが備えた状態に応じて、伸びていく力を発揮させていくのですから。ある部分で周りは時間が経つことに付き合いながら、見守りつつ待ってやる配慮が欠かせません。



そうすると、心の中に「自分」というものの芽が出だして、それがやがて育まれると、その人の心には、その人らしさと釣り合うだけの「自分」という感覚となって、確固とした姿に形成させていきますから。その人らしさは徐々に顕わになり、時間とともに如実な発揮をさせていく力は備わっています。けして諦めたりせず、周囲は静かに待ち焦がれ待ちわびる思いで、心密かに離れて見ているぐらいに距離を保ち、任せるつもりで大切にしていけば。その内、大人としての人間らしさを身に纏う、その人らしい心も兼ね備えた営みは遂げられていくのですから。そういう健やかさを併せ持った成長の筋道が、過去において多少は不確かな迎え方だったのを無念さと覚えるだろうけど、時計のネジというのは巻き戻らないし。こうして今ここに生きているのなら、いまだ前途有望も間違いなしと信じてこそ、親であり家族の為せる愛情でしょう。何事も命ある限り、なるものはなるのが生命です。こんなことくらいで諦めていたら、まったく勿体ないからね。



あれはだから、周囲にいた親や家族たちが、あたかもハイジャックではないけれど、操縦桿を本人に任せようとせずに、一生懸命に子供を外から操縦するように関わり続けてきたせいで、いつしか子供は心が育つのが止まってしまい、「自分」というものの代わりに立てる代理みたいにですね。この人のなかでは、自分でも見たり気付いたりすることの出来ないような部分で、即ち無意識的な部分ですけど。この人は知らないうちに、「命令が下りてきました、これに従います」という世界を、それが自分なんだよという受け取り方に丸飲み込みをしてきたものですから、自分というのを、結局そういう形でしか取り入れていかれなかった。そうした事情に見舞われるという状況があったことでした。



そうした過去の時点では、いつしか、自分と自分の気持ちというのを、自分のものとして持つことなく、大きくなってきたこれまでで、そういう成長をしたのだということで。これには何か悪意があって、そうしたとかでないのは必要な理解で、わかってください。そこには卑劣な意図なんて微塵もないし。確率的な確からしさでも優に100%は超えていると、世間の人々からでも了解をされる話です。まさか、こういう結果を招くとは知らないから、そうなってしまったまでですよ。ただ、一言添えさせてもらえれば、こういう部分にも理解が必要だったと、今からでも遅くないから、気が付いて頂きたい。そんなことを知らないから、こうしてきたんだけど、実際はここにはそういう背景があった訳なんだという、こういう分かり合いを親子の間では、互いに共有をし合えたら本当に素敵だなと願っていますし。ひとは故意でも悪意でもなく、知らない物事では、しばしば間違う結果になるのもよく起きる。そして認めるからこそ、何かを変えようが可能なんです。ただ誰にも、これを教えてもらえなかっただけですよ。その知らない点を落ち度であるとは誰からも責を問われるいわれはないです。



知った人は、そこで改めるまで。でも何だか自分の目の中には、こんなところまで見えてしまった、という私としては、同じ困りごとを抱えた周りには、そこは伝える責務が回ってきます。見付けてしまった人、知ってしまった場合、それはもう見て見ない振りなんて行為をしてたら、それは今度からは罪を犯したのと同じになる。相手に手を貸すはずの場面で見捨てたりして打ち捨てるのは、悪意を向けて攻撃したのと等しい意味です。鬼がする所業になるのです。そう、あなたとしては知らなかったのでしょ。あなたは、まだ知らなかったから許されるのです。でも、もう今なら既に知ってしまったことです。既知の事実は、もう知った時点で知らない素振りを許してもらえなくなるので。そこに、あなたのすることがあれば、それはするまでなんだ。これは人の習いです。



さてさて、つまりはこれが世間でよく言うところの、曰く物分かりがよく言うことを聞く「いい子」だったのに、どうしてこんな風になってしまったのでしょうね、ということの正体であった訳でした。これには、そういう中身があったことでして、これがその真相ということです。



そういうお話ですからね。単純に薬を用いれば、それで解決をするのだとは言い難い。だって、脳を、つまり、その人を生み出すプロセスを薬剤が肩代わりできるはずないですよね。こういう自分にも見えないし掴み切れない相手に、自分の状態が振り回されてしまうのを避けるには、場合によって多少の薬は利用するとしても、それだけで出口が見付かったり、突破口を拵えたりは作り切れない相談なのです。



もしかしたら往々にして相当な時間と手間を掛けるのは覚悟をして、自分として自分の人生を生きていくということとは果たして一体どういう何なのだろうかしら。そこを、これからどう生きていけるかが自分の人生ですから。これを探し求めて、生きるという営みのうちへと反映をしていく、それがこれからの道程なのですよ。そこは今これからで探すのをはじめるほかないですからね。愚痴を言っても、最早はじまらない。この現状に取り組むには無駄な時間を割いてホザイテルような暇はしてる猶予はないと考えなきゃ。あとは、自分で自分を引き受けて、己の生き方を自らで探すのみです。



幸いにして、人間の脳が持っている能力として、生涯に渡って作り替えていく潜在力が備わっていますから、これを頼りと思って、将来を信じて、遅まきでもこれから如何に生きようかという、これを目指す取り組みが、私たちのしていくところの養生であり、私たちの自分らしい生き方だ、ということです。



以上



では、また今度ね。





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