10月から東京もGoToキャンペーンの対象になったので、
都内に住む母のところまで行って来ました。
久し振りの上京で様変わりをした東京の街も観て来ました。
前回が去年5月の訪問でしたから、約1年半ぶりの再会です。
妻と一緒に泊り掛けの旅行が出来たのも今年初の出来事でしたし、
今回「コロナ」の影響という今までとは違う状況下の旅でしたが、
それ以上に、これまでは自分で気が付けなかったような部分を、
一緒に行った妻の視点からの指摘により、一つ発見があったので、
今回はそれについて書いてみようかなと思います。
私の母は、母の娘の家に住みながら、東京で暮らしています。
え。それは、あんたの妹?の意味じゃないのかですって。
ええ。そうですよ。でも母自身、私の妹のことを話すときに、
私を前にしながら「うちの娘が」という言い方です。
ほお、これはまた何かご事情がおありですな?ですって。
それはですね。私の来歴から申せば実の兄妹であっても、
この場合、私という人間が、半ば他所者の扱いだからで、
この私は、その家族の一員でない。そんな位置づけのせいです。
こうした病気の場合、それは案外よくあることで、
真面目な話、親戚の間で、そういう障碍者の身内については、
最初から、そういう人間は存在をしない取り交わしにしているとか。
驚きますか?嘘みたいに思う人がいるかも知れないが、よくあるんですよ。
例の関東地方で某事件があったときにも、ご存じのように被害者本人も、
また被害者家族についても、それらの氏名を秘したではないですか。
本人は自分の名前を隠して欲しいと思ったかどうかは存じません。
ただ身内というのは、自分の家族に障碍を抱えた人間がいる事実を、
社会の中で知られでもすれば困る情報だという判断をするのです。
(家族会に参加をする人でも、別の市区町村まで出向いて、違う土地の
家族会に行って、近隣には知られない「工夫」を考える人があります。
可哀想なのは病気の本人です。自分は世間から隠れていないといけない、
そういう立場なんだぞと念を押されているようなものですから)
もしかしたら、施設に居続けて欲しいという、そこの理由にしても、
また、病院からの退院をさせたくない、そこの気持ちにしても、
それは本人の希望より、家族サイドの都合が動機で起きた現象です。
引き籠りという件だって、もし一旦そうなって、出ないままで居るなら、
そのままずっと出ないで居てくれた方が知られずに済む話だったり。
確かに、変だけど、それが実際に起きるものなんですよ、それは。
自分の家族に障碍者がいるという現実は、隠し続けて、目を背けていたら、
そうした自分の認めたくない部分、他人に知られたくない事実について、
アタカも対世間的に、なかったつもりが装える、とでもいった、
家族が身内に対して働く見勝手な「卑怯・卑劣」が、そこにあったりします。
いつまでも現実逃避をし続けて、命が尽きれば、逃げ切りだという、
責任放棄した生き方だし。これは少し角度を変えて見詰めるなら、
自ら率先して障碍者の人権を踏みにじることによって、自分達の都合を
ゴリ押しするのを平気でやるのが血縁者達。身内はそれをします。
ちょうどそれは、過去に間引きと称して新生児を殺してみたり、
姥捨てという行為で労働できない人間に死んでもらうも、
そういう食い扶持に追われていた頃の考え方が、
連綿として、今でも同じように引き継がれたままなのです。
その暗黒史が、まだ残り続けているんだよ。という現代ですからね。
先ず、そのことに気付くことで。自覚をする決意を持つということ。
順番としては、そこを経ずして、そこから来るている問題というのは、
その反省でも、起きている現象の対策であっても、
そのことに着手をするところまで、凡そいくはずがないことですし。
その取り組みを始められる日に達することも、到底迎えられないですよ。
これは、自殺者の問題にしても、適正性の欠けた雇用関係にしても、
子供同士の虐待行為は管理強化によって回避しようという発想でも、
実らないのは、それが理由なのだろうなと思います。
それらすべては、先ず何がオカシイから、それが起きていて、
これは、どこに間違いがあるから生じてきている話なのか。
どこに先ず問題があるかという、そちらの原因を踏まえずに、
すっ飛ばすようにして、そこを認めないから、答えが出せなくなる。
別の言い方をすれば、自分自身にも反省点をあるんだと受け止めていない。
何事があっても「周りのせい」「誰それの責任」を繰り返えしてる。
こんなことでは、取り組みの鳥羽口すら掴むところまで行かない。
それは、そうですよ。
これは、他人のせいなんかじゃないし、誰か別の人の責任でもない。
自分も一枚噛んでるのに目を瞑っていれば、結局全部が自分に返って来ます。
たった、それだけの話です。
そういう落とし穴を掘り続ける式な墓穴掘りをし続けてみても、
これじゃ、仕方ないことオビタダシ過ぎではありませんか。
自分は関係ないから ← 先ずとにかく一番最初にコイツを止めることです。
でないと、何も始まらないまんま、自分から自滅をしていきます。
私だって、他人事で言っている訳じゃないんですから。
「でも、他の人だって、みんなやってるじゃあないか」
これをね。言っている限り、総員崩れで地獄行きが待ってるだけなんです。
いい加減に、卒業しないとヤバすぎますよ、ご同輩。
今から私もやめます。だから、ご一緒にいかがでしょ。
生きてるうちだけです。やり直せるのは。
やり直せば、まだ花は咲きます。
以上、もう一丁咲かせてみたい花咲か爺さん、でした。
追記 ある意味、自分のこととして引き受けたくないのが身内です。
家族が看るべきだ、考えるべきだ、家庭内で取り組むような問題だ、
この位置づけが、物事の解決しない背景にあったりします。
もし家族の問題だとするなら、その家族に対して自分たちは何ができるか、
どういう支援や理解が、それらの人たちを支えていけるだろうか。
そこまで汲めてないと、只の他人事扱いの突き放しにしかなりません。
社会を営む人間が持っている社会性とは、まさにそれを発揮してこそ。
家族の側もそこへ訴えられなければ、自分たちの社会性が問われると思う。
そして、本気で考えるのは気が重いし、取り組まなくて済むならそうしたい。
と、もし少しでも、家族の気持ちに、そんな思いが過るのであればですよ。
本人だって、それに倣って、無茶を言ったり、出鱈目をすることでしょう。
その人たちが訳の分からない事を言うのは、病気でしょうか、それとも、
家族や世の中の受け止め方が映り込んだ鏡だからではなかったでしょうか。
ひとは鏡に映った自分の姿を見えたら、それを用いて自分を整えるものです。
それは鏡の使い方を知っている人間の持つ智慧だったはずでは・・・