goo blog サービス終了のお知らせ 

いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

東京から帰りました。

2020年10月05日 | 日記




10月から東京もGoToキャンペーンの対象になったので、

都内に住む母のところまで行って来ました。

久し振りの上京で様変わりをした東京の街も観て来ました。

前回が去年5月の訪問でしたから、約1年半ぶりの再会です。

妻と一緒に泊り掛けの旅行が出来たのも今年初の出来事でしたし、

今回「コロナ」の影響という今までとは違う状況下の旅でしたが、

それ以上に、これまでは自分で気が付けなかったような部分を、

一緒に行った妻の視点からの指摘により、一つ発見があったので、

今回はそれについて書いてみようかなと思います。




私の母は、母の娘の家に住みながら、東京で暮らしています。

え。それは、あんたの妹?の意味じゃないのかですって。

ええ。そうですよ。でも母自身、私の妹のことを話すときに、

私を前にしながら「うちの娘が」という言い方です。

ほお、これはまた何かご事情がおありですな?ですって。

それはですね。私の来歴から申せば実の兄妹であっても、

この場合、私という人間が、半ば他所者の扱いだからで、

この私は、その家族の一員でない。そんな位置づけのせいです。

こうした病気の場合、それは案外よくあることで、

真面目な話、親戚の間で、そういう障碍者の身内については、

最初から、そういう人間は存在をしない取り交わしにしているとか。

驚きますか?嘘みたいに思う人がいるかも知れないが、よくあるんですよ。




例の関東地方で某事件があったときにも、ご存じのように被害者本人も、

また被害者家族についても、それらの氏名を秘したではないですか。

本人は自分の名前を隠して欲しいと思ったかどうかは存じません。

ただ身内というのは、自分の家族に障碍を抱えた人間がいる事実を、

社会の中で知られでもすれば困る情報だという判断をするのです。




(家族会に参加をする人でも、別の市区町村まで出向いて、違う土地の

家族会に行って、近隣には知られない「工夫」を考える人があります。

可哀想なのは病気の本人です。自分は世間から隠れていないといけない、

そういう立場なんだぞと念を押されているようなものですから)




もしかしたら、施設に居続けて欲しいという、そこの理由にしても、

また、病院からの退院をさせたくない、そこの気持ちにしても、

それは本人の希望より、家族サイドの都合が動機で起きた現象です。

引き籠りという件だって、もし一旦そうなって、出ないままで居るなら、

そのままずっと出ないで居てくれた方が知られずに済む話だったり。




確かに、変だけど、それが実際に起きるものなんですよ、それは。

自分の家族に障碍者がいるという現実は、隠し続けて、目を背けていたら、

そうした自分の認めたくない部分、他人に知られたくない事実について、

アタカも対世間的に、なかったつもりが装える、とでもいった、

家族が身内に対して働く見勝手な「卑怯・卑劣」が、そこにあったりします。




いつまでも現実逃避をし続けて、命が尽きれば、逃げ切りだという、

責任放棄した生き方だし。これは少し角度を変えて見詰めるなら、

自ら率先して障碍者の人権を踏みにじることによって、自分達の都合を

ゴリ押しするのを平気でやるのが血縁者達。身内はそれをします。

ちょうどそれは、過去に間引きと称して新生児を殺してみたり、

姥捨てという行為で労働できない人間に死んでもらうも、

そういう食い扶持に追われていた頃の考え方が、

連綿として、今でも同じように引き継がれたままなのです。

その暗黒史が、まだ残り続けているんだよ。という現代ですからね。




先ず、そのことに気付くことで。自覚をする決意を持つということ。

順番としては、そこを経ずして、そこから来るている問題というのは、

その反省でも、起きている現象の対策であっても、

そのことに着手をするところまで、凡そいくはずがないことですし。

その取り組みを始められる日に達することも、到底迎えられないですよ。

これは、自殺者の問題にしても、適正性の欠けた雇用関係にしても、

子供同士の虐待行為は管理強化によって回避しようという発想でも、

実らないのは、それが理由なのだろうなと思います。




それらすべては、先ず何がオカシイから、それが起きていて、

これは、どこに間違いがあるから生じてきている話なのか。

どこに先ず問題があるかという、そちらの原因を踏まえずに、

すっ飛ばすようにして、そこを認めないから、答えが出せなくなる。




別の言い方をすれば、自分自身にも反省点をあるんだと受け止めていない。

何事があっても「周りのせい」「誰それの責任」を繰り返えしてる。

こんなことでは、取り組みの鳥羽口すら掴むところまで行かない。

それは、そうですよ。

これは、他人のせいなんかじゃないし、誰か別の人の責任でもない。

自分も一枚噛んでるのに目を瞑っていれば、結局全部が自分に返って来ます。

たった、それだけの話です。

そういう落とし穴を掘り続ける式な墓穴掘りをし続けてみても、

これじゃ、仕方ないことオビタダシ過ぎではありませんか。




自分は関係ないから ← 先ずとにかく一番最初にコイツを止めることです。

でないと、何も始まらないまんま、自分から自滅をしていきます。

私だって、他人事で言っている訳じゃないんですから。

「でも、他の人だって、みんなやってるじゃあないか」

これをね。言っている限り、総員崩れで地獄行きが待ってるだけなんです。

いい加減に、卒業しないとヤバすぎますよ、ご同輩。

今から私もやめます。だから、ご一緒にいかがでしょ。




生きてるうちだけです。やり直せるのは。

やり直せば、まだ花は咲きます。




以上、もう一丁咲かせてみたい花咲か爺さん、でした。




追記 ある意味、自分のこととして引き受けたくないのが身内です。

家族が看るべきだ、考えるべきだ、家庭内で取り組むような問題だ、

この位置づけが、物事の解決しない背景にあったりします。

もし家族の問題だとするなら、その家族に対して自分たちは何ができるか、

どういう支援や理解が、それらの人たちを支えていけるだろうか。

そこまで汲めてないと、只の他人事扱いの突き放しにしかなりません。

社会を営む人間が持っている社会性とは、まさにそれを発揮してこそ。

家族の側もそこへ訴えられなければ、自分たちの社会性が問われると思う。




そして、本気で考えるのは気が重いし、取り組まなくて済むならそうしたい。

と、もし少しでも、家族の気持ちに、そんな思いが過るのであればですよ。

本人だって、それに倣って、無茶を言ったり、出鱈目をすることでしょう。

その人たちが訳の分からない事を言うのは、病気でしょうか、それとも、

家族や世の中の受け止め方が映り込んだ鏡だからではなかったでしょうか。

ひとは鏡に映った自分の姿を見えたら、それを用いて自分を整えるものです。

それは鏡の使い方を知っている人間の持つ智慧だったはずでは・・・





「私の場合だと・・」これ理解できていますか?

2020年09月25日 | 日記




たとえば、周りの人が美味しそうに食べているものでも、

それを自分が食べてみて、果たして本当に美味しく味わえるか、

つまり好みというのは、ひとによって違いますから。

あるいは、目の前で人が平気で口に入れていても、

猫舌で熱くて食べられなかった。そんな経験はありませんか。

またときには、それを食べて自分の体質に大丈夫な食材だろうか、

これを忘れる訳にいかないような場合もある。

そういう具合で、実際にすること、してみることというのは、

何であれ、個々で、それぞれに違う話だったりもします。

これは食べるものに限らないのは、言うまでもありません。

誰かが何かをそういう風にしている、とは。

単純に、真似や模倣をすればいいとか、できるという話でもない。

何事につけ「自分の場合だと・・」のカスタマイズと切り離せません。

見回すと、周りの同世代のひとたちが、これこれ云々に暮らしている。

実は、これ何らかの暗黙裡の背景や条件をコミにした事柄で、

そこを無視して行おうとすれば、困難だったり、無理だったりします。

ちょっと考えれば、当たり前の話ではあるのだけど。

でも、自分の中で、その自分の条件を、キチンと呑み込めていないと。

つい忘れたり、考えていなかったりで。それでも、実行へ移そうとする。

これは自覚の問題といえば、その一言に尽きる訳なんだけど。

周りを見習うのを入口みたいに考えていると、自然そうなります。

だって、病気や障害を持っていない人であれば、

それを前提に、自分の行動を選ぶとか、決めるとかは、必要ないです。

でも、われわれが、それをワキマエナイで行動したりすれば、

別に遭遇しなくていいような困難に、わざわざ自分から突進するひと。

こういう方、多いですよね。自分もおなじことしてましたから。

それでも、やってみて出来るときは、まだいい。

だけど、そうした無茶のせいで、後々祟るような痛い経験もしました。

あんな無理をしなければ、あそこまで調子を崩さなかった。

こういうのは、よくあることです。

経験をしてみて、それが分かるようになれば、その道順もありです。

でも、中には同じことを繰り返すのが終わらないひともある。

それで老婆心的に書いてみたりしているんです。

いいですか。言わば、われわれは、

ある面で、スペシャリストになる必要が求められている。

そういう心得が持てていないと、生活自体が成立しない場合がある。

この部分を、認めているか、認めていないかで、

自分の生きやすさと、生き難さの、分かれ道を、

ほかでもない、その自分自身が作り出してしまうことなんです。

よく障害があるというのは、生き難さが付いて回る、みたいな、

そういう人生観を表明するひとも見掛けますが。

でも、それでは酷く言葉足らずな言い回しだなと私は思います。

障害があっても、そのことについて自分でちゃんと承知している人なら、

その条件を元に、自在な生き方を駆使し得る。実際はこっちなんです。

それに障害がない人の場合、何か無条件だというのは嘘ですから。

障害はあっても、なくても、また取り組む内容がどういうものでも。

そこには取り組むそれぞれに、各々で条件や要件はあることです。

それを障害がないのを仮想してみて、それと頭の中で比較をしたりするから、

実際とは違った答えと結びつけてしまう。そうした誤解をしている。

いいですか。もし障害がなかったら、というのを想定するなら。

ほかの全ての条件に対しても、同様の検証をすべきです。

どんな取り組みでも、プロジェクトでも、

何か一定の条件があって、その中でクリアするか、しないか。

たった、それだけです。

そこに障害を考慮しなくていいなんて但し書きは、どこにもない。

障害がある人だけ、障害のない場合も想定してみなさいというのは、

根本からして妙な発想なんです。むしろ逆だと思わなきゃ。

障害がある人は、それを踏まえた工夫を一にも二にも重視しなさい。

同じ付記するなら、そう書いておくのが正解だと思います。

その意味でも、やっぱりスペシャリストになる必要があることで、

われわれが目指すコースは、そういうルートだということです。

「障害」という条件について、思い違いをしてちゃいけません。

丸で、それを何か損をした意味だとか、ケチがつけられたんだとか。

誰でも人によって、選ぶのに相応しいコースがあることです。

それを入り口で文句にしていちゃ、成るはずのものも成りませんから。

周りの人も間違った声掛けはしがちなことです。

よく聞きませんか。障害さえなかったら、というセリフ。

そこに含まれている勘違いが、これは実に恐るべき内容なのです。

本来の人間は障害を持たないのが素の状態である、という考え方で。

これはトンデモナク歪められた人間観なのです。これを優生思想と呼びます。

これは、障害も障害者も世の中にいなくていい、抹殺してもかまわない。

そういう悪魔の言説なんです。

われわれ障碍者自身が、そこに加担している場合じゃないから、

ほかでもない我ら障碍者は率先して、この課題を自分から引き受けないと。

そうした厳しい結論が、ここにあるんだぞという自覚と覚悟を持ちましょう。




さてと。自転車で、ちょっと買い物に行ってきます。

スーパーマーケットで食料品の仕入れをしてきます。

今夜は何にしますかねえ。すっかり涼しくなって出やすくなりました。

じゃあ、また。





仕方がないでは、済まなくなりますから。

2020年09月21日 | 日記




家内と私が所属をしている家族会でも、

会員を構成する年齢層は、相当に高齢化をきたしています。

それこそ現実に8050問題の80代が何組も通って来るのです。

親御さんは一見、若そうに見えるけど、子供が40代50代はざらです。

逆に、子供がまだ30代だと、あなたのところは、まだ若いから、

そう言われたりするくらいなんですよね。

新たに参加してくる場合もありますが、定着する人は限られる。

特に子供が若かったり、ときに発達障害の学童だったり、

それは共有のできる話題が、長年月の人たちとは隔たりがあります。

正直な話、これから自分の家も、そうなるんだというのは、

誰だって、認めたり、考えたり、したくない気持ちが湧きます。

これは何か違う方法が絶対にあるはずで、

こんな集まりに来ていると、同じ目にあうだろう、

そう受け止めて、もっと別の場所を探すことにしようと考える。




でもね、言わせてもらうと、今の80代の親たちでも、

何十年も同じように続くだなんて、夢にも予想しなかったし、

自分がそんな年齢まで、こういう抱え方をする人生を送るのだとは、

まさか、有り得ないよな、と高を括っていた人たちばかりです、ホント。

だけど、これは解決して終わるような終焉はやって来ないですから。

確かに、40代や50代のまだ働き盛りの頃には、困ったぞとは思っても、

でも、今は取り敢えず仕方ないもんな、みたいに構えていたりするものです。

ところがね、それは入り口であって、何年たっても、

「病気」として、「治る」日が来ないのが、この問題の恐ろしさです。

今日明日で解決しなければ、日々の暮らし向きに追われますから、

そんなことで生活をしている間に、ひと月、ふた月、一年が経って、

毎年、今年も終わりました、新年が明けましたって、時間は経つけど、

時間が経過して、少しずつ解けていくなら嬉しいけど、

そんな風には、進んで行かないんですよ。だって、「障害」ですよ。

「治療」して「治り」切ることがおきない、後々まで「治らない」、

そういう残るものが続くのを、この場合は「障害」が、そこにあると。

そういう内容が、そこにある実際の中身なのですよねえ。

「病気」だなんて方便だし、正確に言っちゃえば嘘八百です。

それをどうやって治したら良いんだろうなんてと考えてるのは、

経験をしてきた人間から見れば、おやおや何を言ってるんだろう、

まだまだ知らないんだなあ、このひとは。そう思っちゃいます。




だからこそなのですが、今更これを「治る・治そう」で、

実らない努力を続けているより、これは頭を切り替えて、

「治らない」で残り続ける部分はたくさんあるんだ。だからこそ、

そういう場合、こうした障害を抱えている人間であれば、

どういう対策で、生活面の対処を工夫していかないと立ち行かないか。

そちらから攻め入っていかないと、攻略はできませんからね。

残された時間も、これから出来ることも、極めて限られている。

迂闊に費やしていれば、すぐ直に頑張れる力も枯渇をしてしまう。

そういうことをしている間に、気が付いたら、何十年も経って、

これが今の8050なんですから。

そう、「治す・治さない」じゃあないんだよね、これは。

じゃあ、何かって?決まっているでしょ、障碍者には障碍者の自立がある。

いかにして障碍者なりの生活を成立させ得るだろうか←これですよ。

それが出来てないと、家族側の老後は大きく崩されていきます。

この舵切りを行わないと、自分の老後が苦労の荒波で遭難するのです。

今の毎日を「治療」の対策で東奔西走していると、80歳が来るのです。

この国に医療や福祉が皆無であるとは思いませんが、

自助努力の点で、愚かしいことをするような人の面倒を看てくれるほど、

ここには手厚い充実なんぞ、まだまだ到底及ぶところじゃあないし、

一にも二にも賢く立ち回れないと、ボロボロに取り溢されます。

子供の自立は、自分の老後の、言い換え語なのだと考えなさい。

「いや、<病気>の子供に自分の老後は看てもらうつもりは・・」ですと?

違うんですよ、あなたの子供の生活面が成立しないことには、

あなたが70でも80歳でも、ずうっと子供の守をして、

しかも、その本人は、ただの子供以上に手の焼ける大の大人の話なんです。

だから、いまから、取り組みなさい、本気を出して自立の支援を組み立てる。

これしておかないと、あなたは閻魔様の前で減点されます。

閻魔様が、あなたに「その怠りによって、お前は地獄へ行くように」

そう命ぜられるのは、間違いなし。嫌でしょ、だったら、

子供と同じようなことホザイテないで、大人らしく、することしなさい。

それは、まさに子供の目には手本となることですから。

そういう現実認めて行動をするという、あなたの行いが。

いいですね。わかりましたね。これは約束ですよ。








「いわゆる統合失調症は、病気というより、障害です」

2020年09月06日 | 日記



これは、いつもの私の持論ですが、

大事なことは、繰り返しお伝えしておくべきだと思って、

こうして再度、また書き述べさせて頂くことに致しました。




これを「病気」と扱い、対応を図って来たことが、

現在、厄介な問題にしてしまっている、そもそもの始まりだと思う。

それに関して責任のある向きから反省の弁を聞いた覚えがないのは、

極めて残念であるし、そこの間違いの根本を問いたい気持ちもあります。




例えばですよ。様々な疾患が原因で、身体にも障害がおきますが。

それらは病気として、然るべく治療をした後も、まだそこには

何らかの後遺症等、治療によって解決できない問題が残るので、

これに応じるための手段として「障害」という認め方が用いられます。

こうすることで、現在の治療で治らない場合にも救済の道が開けるからです。

同時に、その原因が、事故であっても、また生来の状態からだとしても、

同様の「困難・不便」が生じる場合毎で、一定の配慮も成し得る訳ですね。

つまり、「治せない・治らない」ときでも、別の形で補填がある意味だと、

そう言い換えた方が、むしろ内容としては、汲み取りやすいのかなと思います。




さてさて、頭の良い人は、もう気付かれたと思うのですが。

例えば私たちが、家族会にでも行ったりすると、いつも耳にするのは、

「どうやったら治るだろうか」、あるいは「また、再発をして」だとか、

早い話が、完全には治せない、治りきらないのが大勢ではあるのに、

延々「どうやったら、良くなるか」、「どの薬なら効くだろうか」、

そういう話題に終始します。要は、解決しようと藻掻いても、

ひたすら堂々巡りで、千日手状態を続けるばかりなのです。

別に何も、改善や工夫ができない問題だとは、申しておりません。

ただ病気という内容で考える限り、これを治すという取り組み方、

つまり病気でない状態に戻すみたいな、完全な解決は極めて稀有です。

それが現実であるのに「とにかく治せ、治さないと始まらないから」

そうした無理な頭ごなしを、本人も家族にも死ぬまで押し付けです。

一生を費やして、そこへ到達する日が来ないのに、やらされる。

どう考えても、理不尽だし。これは、不合理コノウエナイ。

病気相手にしているようでは、人生を賭しても埒があかんのです。

だから、現状これは「治らない・治せない」が実際でして、

その場合に適う賢いやり方が、「障害」で応じるという方法です。

ありのまま今の状態を認めた上で、それを基礎に据えて元にするのです。

そこから、今後の生活再建という工夫を凝らすなら、答えは出せます。

今まさに、やるべきことは、これのみですから。

つまり、ゼロから始める起点なら、それは実行するのも可能です。

だがしかし「治ったら、こうしよう」であるとか、

「まず良くして、それからどうするんだ」というのは、

それは仮想のスタート地点で、バーチャルもバーチャルであって、

その出発点に立つ人は、誰もいないのが現実だといっても差し支えない。

これで病人は狂っているだなんて、凡そ誰も言っていられません。




つまり「病気」だと、そういう話になるので、兎に角これは「障害」です。

それが、この問題の正しい順序になります。

以上、そういうお話でした。




閑話休題 想定より衰えたといえ、今回の台風ヤバいですね。





一人ひとりを大事にできないというのは

2020年08月30日 | 日記




いつもの話題ではありますが。

これを書けば、嫌がる人がいるのも事実なんだけど。

病気とは、治せるもの、治せないもの、ありますよね。

当然すぎる事実です、これについては。

そうすると、次の事実も、やはり考えない訳にはいかなくなります。

もし治らない病気なら「治したくても、治らない」はずですよね?

だったら、治る日を夢見て、治癒する日を目指して取り組むというのは、

それは結局、実現する日が来ないし、達成感を味わう経験にならない。

そういう落胆をし続けていると、さらに自信を失っていきかねない。

だけども、ここで頭を切り替えてですよ。いっそのこと腹を括って、

「治れば終わるから」みたいな現実無視のゴリ押しは保留にする。

その上で、現在の生活上の不便・不自由の補いについて考えてみる。

取り組むターゲットの修正です。つまり目標の据え直しです。

治ることを信じて、生きてきた人にすれば、失望する話かもしれないが。

同じ落胆をするのなら、無理を重ねて頑張って、挫ける結果を迎えるよりは、

最初に残念な現実を、まず飲んで、そこから立て直す。

この方が、結局は後で助かるはずですよ。私も経験上、そう思うし。

「苦しかったけれど、助かった」と、「夢見たけど、落ちぶれた」とは、

これではイソップの蟻とキリギリスだ。冬を越したのはアリンコなのです。

報われる努力と、結局は救われない取り組みなら、前者に分がある。

不可能だと薄々は感じながら、特攻隊で戦争に勝つ方に賭けるか、

負けを認め、白旗を振って投降してこそ、潔さと知るべきか。

この比較では、どちらが本当の知恵なのか分かりますか。

戦争に負けられないのは、そこにあるのが、生きるか死ぬかだからで、

やるか、やられるかだから、ならばやり返そうで選んだ論法ですから。

負けるの嫌だから、自分から死ぬの選んだでは、それ度外視してる。

これだと、そのあとで、被害をどこまで広げてしまうか、何も考えてない。

そういう独りよがりな痩せ我慢で未練に流されているような事態じゃない。

何と言ったって、あなたも私も、今こうして活きてる人生はですね。

時間的にも、空間的にも、極めて有限な世界に属した事象で、

無駄に費やすような馬鹿ができる程ウッカリとはしてられません。

あまりに残された部分が、貴重すぎて勿体ないんだと早く気が付かないと。

そこ考えなくて構わないとは、自らの人権を自分で放棄するような話で、

ひょっとしたら何でもかんでも、平気で他人事みたいに考える世の中です。

その無知さ加減に、少しでも変わって欲しい気持ちを持つのなら、

手始めに、これから行うべきは、自分の人生を捨てるような態度は、

今すぐに目を覚まし、そこから即刻に卒業をするのです。

一人ひとりの人間、その人そのものを、何より大事にしてこそです。

それは、何かある条件に適うから、その内容について大切なんだとか、

これこれに満たないような人は、その存在の価値が劣とるとか、

これは能力や条件であって、人間全体から言えば、1要素の側面に過ぎん。

そういう人間の世界と違う、まるでマシンの性能を見比べるみたいな、

これは家畜かなんかの値踏みで、ひとを眺めているのと同じですから。

その人が、大切だというのは、どういう人でも、優劣の意味じゃないんです。

その人ひとりが、その人自身で、代わりのない存在として重要なのです。

もしかして、あなた自身が顧みられずに無視をされるとしたら、

それを打ち消す働きかけをしていこうじゃないですか。それにはまず、

自分で自分のことを大事にするという意志をしっかりと持つことです。

そこから始まらなければ、何をしようとしても、それは嘘になる。

病気だから寸足らず、障害だから厄介者、そんな見做し方というのは、

これは人間が自分で、そうする必要など一切まったくないですからね。

だからこそ、事実として、どういう状態かという、それだけの意味で、

その内容を別の色付けにして、勝手に決め付けたりしているから、

それは認めたくないと思い、抗おうと感じる気持ちも抱いてしまう。

でも不要なことですから。そこを正しい順番として踏まえていないから、

受け入れがたい物事だという拘りに堕してしまう結果を生むんだ。

そいつのせいで、現実を無視しようとすれば、これで何かを始めようという

そんな企てを構えているのじゃ、事実上、成果となる積み重ねが始まらない。

そんな不要な意味づけを、取り入れたんじゃ、まず自分が立ち行かないよ。

これは、いわば、潰れた鏡に映り込んだ歪められた虚像みたいなものさ。

これは鏡のほうが曲がっているから歪むんだと、私ならよくよく知っている。

歪んで見られているのは私の実像じゃない。鏡に映り込む鏡像の歪みだよ。

あるいは、私たちを眺めている眼鏡の度数が合ってないからオカシイんだと、

自分たちは、声を大にして、そういう主張をしていく立場にあります。

ネジ曲がった世界は、これは曲がっていると、そう言わないとね。

知らない連中の多くは、そう曲がっているんだと本気で勘違いをするから。