いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

いろいろあるし、みんなそれぞれなんだから

2020年12月14日 | 日記


 私の中で、ある一つながりになった考えが浮かんできましたので、それを書いてみることにしました。



 多くの人が経験をすることだと思うのですが。自分を養い育ててくれた相手、つまり親のことを指す場合がたいていですが。それらの人に対する一種の強い反発感だったり、また不信感であるとか不満感、また広く大人全般について嫌悪する気持ちとして意識に上る場合も多いようですが。これら特有の感覚というのは人生のある時期、例えば若者達だったら、恐らくその大半に経験がある気分や感情だろうと考えますが。これから書こうとする事柄は、こうした部分から始まり、さらに展開して述べられる話だと、そう前置きをさせて戴きますが。



 まず、ひとが幼い時には、自分のまだ知らない分からないことが非常に多くて、自分にできることも限られている訳で。その時に知識でも経験の上でも勝り、力のまだ及ばない自分を守り育ててくれる親を得て、それを頼りにしたからこそ、この自分に、わが身わが心の成長も起きていたんだということです。それこそ文字通りに自分を食べさせて、その面倒を看ている相手には、従ったり励まされたり、また時に叱られたりして、様々なことを身に着けてきたという過程が、そこにはありました。これは、その親たちにしても、そのまた親からで、ほぼおなじように、そうされてきていました。



 これが順繰りに人類の歴史の長さだけ、正確には、さらにその前にも遡って連綿と続くのだし、信じられないぐらい長きに渡る世代数を延々と繰り返してきた結果として、この自分も、もちろん自分たちの親世代も、さらに世界中どこの地域の、どの時代の家族であっても、それら一人ひとりというのは、すべてこの流れのなかに、まさにあったからこそ、その人として、そこに生まれ、生きた。ということですよね。



 さて、徐々に成長が進み出してくると、やがて幼いころとは違い、そういつでも全面的に親が頼りといった構えは、だんだんと退潮していくようになります。この時に、前とは違い、自分たちの眼に、その親たちの様子は、過去とまた違った姿となって目に映って見え出してくるようになりますが。これが最初にあげた思春期や青年期に感じたであろう、あの特有な感覚の正体であったのです。



 つまり、自分から見て、そんな風に感じ出して来たというのは、以前とは違う成長の段階に自分がいるんだということでもあるし。親の側から見て、生意気なことを言い出したり、言うことを聞かなくなってくるというのは、子供が親離れに差し掛かるところまで精神的な成長をしてきた証拠でもあるわけです。



 それを親子双方で、どういう意味がそこに含まれているのかで、勘違いをした考えのまま受け止め続けていたりすると、これは取り分け何か困難を抱えている家族の場合に特にそうなりがちですが。そこから次の段階へスムーズに進んでいく妨げになるような行動を、その双方で掛け合いをしてしまうような。そういう難渋を繰り返し、事態が悪化することも往々にして起きていたりします。



 人間に限りませんが。ほかの哺乳類の動物の親離れ子離れの場合でも、そうとうに厳しそうなかたちで親子が別れていくものがよくあります。これは親の庇護を離れて生きていく独り立ちでもありますから、何かを乗り越えないといけない厳しさというのは、自立に関してなら、これは越えてしかるべき峠道でもある訳です。だから、ある部分で厳しさのある敷居が跨げるかどうか。これは、後々になってきっと役に立つであろう困難の一つとも言える側面もありますが。ただ一つ考えておかないといけない重要な点があるので。これから指摘をしておこうかなと思います。



 最近、私が耳にした某ひきこもりの本人のひとの言葉にもありましたし。同時に昔から統合失調症のひとたちの周囲に、しばしば見られる親子間の出来事として語られる内容でもあったりすることなのですが。といってもですよ。一人ひとりの人間というのは、それぞれが、それぞれで他に代わりがいない、それぞれで違う別個で独自な一人ひとりですからね。



 だから、誰かある人の何かが、別の誰か他の人にも、そのままに当てはまるのかどうかといえば、これは被さる場合と、被さらない場合があります。なぜかといえば、人間というものが、どうやって、その人ができているかといえば。某誰それさんというのは、生物的に持っている特性や背景の面も、文字通りその人が経験をするすべてのことでも、そしてその人を取り巻いているあらゆるすべての影響も入れて、これらすべて積算をするように掛け合わせて、しかも日々その人が行動でも経験でも、また健康状態でも、栄養状態でも、全てが反映をして、そこへさらに変化の要素が加わり続け、その人らしさを醸すところの脳の成り立ちに関わっていて、これが生涯に渡り重なり続けるなかで、その人という人間となる、これがその人だからです。



 つまりですよ。胃薬なら、同様の利き方で他の人の場合にも効く場合があったとしてもですね。誰かの人生の躓きに効果があった斯く斯く然々の方法というのは、これが別の人に同じ効果があるかどうかは、根本的に話が別だといえるのです。よく言うのは、精神的な病気の場合の対処や解決方法というのは、その人が自分独自に編み出す以外に上手くいく手段が見付けられないと言います。つまり自分を治す道具を自前で用意しないことには、誰にも作れないのですから。部品を組み立てて作られているような工業製品の対極ということです。



 だから、医者であっても、一人ひとりに合わせて誂えるなんて不可能なんです。ドクターからこうしてみたらと言われました。という内容はですね。これは言わば一般論の部分です。自分の場合にどうしたらいいかを探すというのは、自分がする仕事です。いいですか。医者が何もしてくれないんじゃないですよ。ドクターだって出来ることと出来ないことがあって、医療職の仕事とは、むしろ私たちが、それをやり遂げるのに付き合い立ち会ってくれるような立ち位置で見守りながら待ち続けてくれる援軍だと、そう考えていた方が、われわれは自分の仕事が捗りますから。だからこそ同病仲間とのセルフヘルプが有効なんですね。



 ちょっと話がズレてきました。長くなるので続きは次回にさせてください。





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