どうも!ご無沙汰しておりました。60日超の復帰です。
今日の外出で、夜宮公園に行って参りました。
この状況です。明日予定の市のイベントも中止、当然ですけど。
今日の目的は、二人の間で最近恒例にしている夫婦で行く休日散歩。
広い夜宮公園を歩いて来ようかとドライブがてらで出て来ました。
私は園内は初めてで、旧・安川邸も来てみて、知りましたが。
それにしても何とも広大な敷地ですよね。
北九州市の工業都市を生んだ財閥系の強大さを示す象徴ですもの。
公園内の慰霊塔がある広場では、持参のオニギリを頂きました。
子供連れのグループや、犬を散歩させているカップルも、
運動をする年配者も、皆さんご一緒しましたよ。
街路樹の「なんじゃもんじゃ」の木も初めてでした。
天然記念物の大珪化木というものが、何であるかも見て知りました。
自宅からは午前中に出発しましたので、だんだん人手が増えだし、
少し気温も蒸し暑くなりだす前に、引き上げてこられました。
梅雨時ではあるけど、帰りは青空も見えたりして、
まだ6月並みの身体には背中で汗を感じるような気候でした。
自家焙煎の珈琲を淹れてる喫茶店にも寄りました。
かき氷については、季節がまだでした。
あとコーヒーゼリーも某都合でしていません。
だけどアイスのダッチコーヒーは、口当たりに美味でした。
この頃、二人で外出しているときに思うんです。
私個人は、ずうっと長い間、さまざまな厄介事に見舞われてきて、
これまでの半生は、その真っ只中で暮らす身にいましたけどね。
まず世の中というものが、標準で。ズレてたり、間違ってるのは、
常に私の側でした。「お前オカシイだろ、普通じゃないんだよ」
そういう御叱りを受けるのは、いつも自分の方でしたが。
でもね。皆さん御案内のように、今は世の中の側が、
どう考えても「ふつー」じゃあなくなっていますでしょ。
もはや、何が当たり前か、これを誰にも言えなくなってる。
「ふつー」の人が、「ふつー」の世界に暮らしちゃいませんもの。
そうなんですよ。基準というのは自分で持っているもんだ。
とは錯覚なんです。周りから宛がわれるのが実は「基準の正体」、
たまたま、それを共有しあう側で、自分を基準と見做していただけ。
一種、相対的「値」に過ぎない、そうした「基準」ですからね。
そこに絶対的な妥当値というのが、端から存在をしていない。
尤もらしく、コレコレだからシカジカなんだよ。
その「コレコレ」も「シカジカ」も融通無下にネジ変え可能。
ある時代は、「ナニナニ」だったり、
別の地域では、「アレコレ」だったり。
そういう中身を、たまたま当てはまらない相手に対して、
押し付け式が罷り通る、そういう内容で、中身なんですね。
変な話だけど。世の中、訳分らんし、意味不明な様相ではあるけど。
こと自分個人に関し、私たち夫婦としての今現在の暮らし向きに、
これまでなかった穏やかさや安らぎを味わえてることが、
どうも近頃とても極まってきた感すら覚えるぐらいなんです。
確かに、いま世間は世間だけど、
つくづく自分は今の時代で助かったと、そう思わずにいられない
そんな境地なのですよ。
つまり、世の中が、どうだから、自分がこうなんだとか、
自分が、こんな風にしているから、世の中は、こうなるのだとか。
これ、案外そこに連携や関連があるようでいて、
本当は並行に、そこにあったから、同一平面に見てた気もする。
そのことを、今まで多くの人が思い違いしたんじゃなかったのか。
そんな気持ちもしてくるんです。
ある意味、これはこれ、それはそれ、というもので。
そうした別個の要素を、勘違いにも因果関係だと思っていないか。
そうでなければ、今なぜ社会現象として、この出来事の展開があるか、
これを見誤るような、そんな危惧も。。。
ある時代の何かは、別の時代の何かに代わっていく。
あの40メートルを超える巨木だって、時代を経ると今では、
セルロースが珪化物に置き換わり、植物から岩石に入れ替わるのです。
それでは永遠に植物が植物であり続ける場合とは、
それが命として代替わりして、引き継がれる場合だけです。
姿を変じて次代に生まれ代わり得るから、植物は植物であり続ける。
これが命の真正であり、これが花が咲くという真意です。