聖書と共に

主よ、正しい訴えを聞き

今日は、詩編17編、榎本保郎著「旧約聖書
1日1章」からです。

この詩人は、自分は偽りの無い、正しい者であ
と訴えている。

私たちも、ともすると自分の義を誇ろうとしや
すい。私は日曜日には、必ず教会に行っている。
聖書もよく読んでいる、人よりも、ずっと長い
信仰生活を続けている、など自分の正しさを肯定
し、それを頼みにしようとする。そして私達は
神から遠のいてしまうのである。

パウロはローマ人への手紙7章に、
「ああ、我、悩めるかな、この死の体(罪の体)よ
り、我を救わん者は誰ぞ」と述べている。

自分の弱さ、みにくさ、死すべき者である事を
認めてくると、神の愛とか、救いとかいうものが
はっきりしてくる。
その時、初めて、私のような者でも、神は、御子
イエス・キリストの贖(あがな)いによって、赦し
救って下さるのだという事、神が、どんなに近く
、どんなに私たちを愛して下さったのだという事
を知る事ができる。

パウロは「この死の体より(罪の体)より我を救わ
ん者は誰ぞ」という言葉に続いて、
「イエス・キリストによりて神に感謝する」と、
その大いなる喜びを告白している。

自分の義を立てれば立てる程、人間は神から遠ざ
かり不安になる。
何故ならば、自分の罪、弱さを忘れ、自分に頼ろ
うとするからで、それでは、神は分からなくなっ
てしまう。

自分の罪、弱さを素直に認められない時、それは
神が私たちを救って下さった十字架のキリストが
はっきりしていない時なのである。

     **********
「私は、あなた方の所に行った時、神の証を宣べ
伝えるのに、優れた言葉や、知恵を用いなかった
。なぜなら、私はイエス・キリスト、しかも
十字架に付けられたキリスト以外の事は、あなた
方の間では何も知るまいと、決心したからである」
             (1コリント2-1、2)
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