聖書と共に

朝の祈り ②みことば

今日は、「朝ごとに主を待ち望む」(蔦田二雄)
から、抜粋しご紹介します。

朝の祈り(密室祈祷)において、第二に考えねば
ならないのは、みことばです。みことば無しに
密室が守られるとは思えません。
時には、みことば無しに、神様と交わって、お
祈りして、お願いして出るという事はあります
しかし、一般的には、朝、魂を整える為に、密
室において、みことばが正しい位置を占めてい
ればなりません。
ここで聖書を読むとは、みことばを媒介として
神と交わる事です。みことばを伏せたまま神と
交わると、主観的で観念的な、不健全な、又、
非実際的な理解になってしまう危険性がありま
す。

みことばは、3重に理解されねばならないと思
います。
①みことばを読む。 (Read)
②みことばを読む事によって神に聞く。(Hear)
③これに対応する、返事をする。(Respond)

みことばを読むという事は、神に聞く事です。
別の表現では、魂が扱われる時、あるいは魂が
養われる時と理解したらよいと思います。

これは目で読むのですが、又、それは耳で聞く
ように、神様の声を、読みながら聞くという事
です。神様の真理は目で読みますが、それは
結果的には、スポンジが水を吸う様に、聖書に
神様が語っておられる事、示しておられる真理
を吸収している事になります。

ただ本を読んでいるとか、研究している事では
ないのです。研究している人は心の扉が閉まっ
ている為に、水門が閉じている様に、入って
かないのです。研究したものが、みな上昇し
て脳の中に入って行くだけです。聖書に関する
知識を脳に蓄積しますが、心の水門が閉まって
いる為に、魂に降りて来ないのです。

 私達は、心の扉を開いて、上から吸い上げら
れます。神様の真理を、いのちの水を吸い込んで、ズーと溜飲する様に魂の中に吸収します。
こうする事を聞くというのです。
耳で聞かないで、目で聞くのです。これが、
どういう事であるかは、理屈では分からない
かもしれません。

しかし、継続的に、あせらず日々、規則的に、
聖書を読む事を実行しておりますと、やがて
分かってくる事柄です。それを実行しない人に
は、いつまでも分からないのです。

聖書を通して神に聞く、神と交わるという所ま
で本当にうなずける事ができる程、聖書を忠実
に読み続ける人は、それほど多くありません。

神が語って下さるという捉え方が出来ると、
当然、応答が出てきます。たとえば悔い改める
。そこには「悪うございました」と改め様とす
る結論が来ます。つまり、私のある部分は、
そこまで至っていないから、その事をしなけれ
ばと思う、あるいは、くよくよしていたけれど
も心配する必要がないとの納得が与えられたら
「ありがとうございました」という確信に立つ
、など。

私は、みことばを頂戴した、あるいは、うなず
きを持っただけでなく、みことばの意味や内容
を幅広く味わって、更に、慰められ、十分に
確信を与えられる事があります。

みことばに仕えるという事は、ずいぶん時間の
かかる事です。他の事を忘れて、神に聞くので
す。

実際問題として、第一基本的な事は、定められ
た、聖書箇所を通読する事です。
ある人は聖書の通読表に従って読まれるでしょ
う。
第二には、通読以外に、その夜に大切なご用
(牧師としてのご用)がある時は、神様が語らね
ばならない聖書の箇所を指差しなさる事があり
その部分を読む。
第三は、ディボーショナルな書物、たとえば
デイリーライト(日々の光;伝動出版社)の様な
ものがあります。
それでも良いから習慣にしなさい。

**********
ちなみに私は、「静まりと黙想の朝に」そって
朝は新約聖書、夜は旧約聖書を通読しています
。日々の光(文語訳)も毎日、読んでいます。









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