聖書と共に

愚か者は「神はいない」と言う

今日は、詩編14編1節からです。
「愚か者は、心のうちに、「神はいない」
言う」

まず、「静まりと黙想の朝に」からです。
「愚か者」というのは、無知な人という意味
ではなく、不敬虔な人という意味である。
それは、内側の罪深さを示すものである。

全ての人には、この肉的な腐敗性があるが、
ダビデやパウロは、それを知った。
愚か者は、それを知りつつ、その肉性を現す
。内側に腐敗性を持つ者は、それを行為に
現す。すべての人が、この様な行為をするの
ではないにしても、心は安らかではない。

しかし、救い主が来られ、救いの道が開かれ
真の喜びが回復される。

次に、「旧約聖書1日1章」(榎本保郎)から
です。
私達は、言葉では「神はいない」と言わない
もしれない。しかし、本当に神があるとい
事を、自分の存在を賭けて言っているだろ
か。
 信仰者として、あれこれしなければなら
と言いながら、神が赦してくださった、
う立場に立たない者。
 神のみ言葉を聴くが、本当に神は無から
を生ぜしめたもう、お方と信じない者。

 神が共におられる時に、人には出来な
事でも、神には出来るという立場に立たな
者。
これらの人は心の中で「神はいない」として
、いるのだと思う。

 ぶどう酒が無くなった時、主イエスは、
かめに水をくむ事を命じられた。それは常識
では、ムダな事、愚かな事である。しかし
それを、ぶどう酒に変えて下さる方が、おら
れるから、私達は水をくめば良いのである。

又、主イエスはラザロの墓の石を取り除ける
様に言われた。その時、マルタは、もう臭く
なっています。4日も経っていますから。と
言わずにはおられなかった。
しかし石をのけると、主イエスはラザロを
生き返えされたのである。

 私達は、ともすると、自分の思いや、判断
から、そんな事は出来るものではない。
それは無理だ、と言いやすい。
それは心のうちに、「神はいない」と言う事
あり、それでは、神の栄光を見る事は出来
い。

「善を行う人はいない。一人もいない」
これをパウロが引用している。
「義人はいない、一人もいない」
本当に自分も、そうだと、自分の中には神に
対して一つの善もない事を知った時、その
罪人のために来てくださった、キリスト・
イエスを、本当に知る事が出来るのである。

そして、初めて私達は、真に、神に寄り頼む
者に変えられて行くのである。

  **************
「寄るべ無き者は、あなたに身をゆだねます」
            (詩編10-14)


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