聖書と共に

私は、そのみ言葉をほめたたえます

今日は、詩編56編「旧約聖書1日1章」からです

(これは、ダビデが、ペリシテ人に捕らえられた
時に詠んだもの)

ダビデはサウル王の手を逃れて、ガテの王アキシ
の元に逃れた。しかし、そこも安全ではなかった
。彼は狂人のふりをして、かろうじて、その危機
を脱した、とサムエル記上21章に記されている。

ダビデは3節に
「私が恐れる時は、あなたに寄り頼みます。」
とあるように、どんな恐れの時にも、神に寄り頼
む道を見失う事がなかった。そして、その大きな
確信に支えられていたところに、ダビデの偉大さ
があったのである。

4節には
「私は神によって、そのみ言葉をほめたたえます」
とあるが、これは信仰の確信に触れる大事な言葉
である。
 聖書に書かれているみ言葉を、私への語りかけ
として、聞いていこうとする時、私達は、自分の
心の中に、ふと走る不安を覚える者である。
聖書には、こう書いてあるけれども、そんな事を
していては生きて行けない。あるいは、とても
そんあ事は出来るものではない、と思ってしまう

それは、そのみ言葉に伴って、神が業を成して下
さるのだ、そういう生きた神が、いたもうのだ
という事を忘れているからである。

例えば主イエスは
「あなたの父、母、兄弟、姉妹、妻、子、自分
自身を捨てて、私に従って来る者でなければ、
私にふさわしい者ではない。」と語っておられる
が、私達は、このみ言葉の前に立たされる時、
もし本当に聴き従っていったならば、うちの妻は
うちの子供は、うちの年取った親は、一体、
どうなるのか、と思わずにはいられない。

しかし、そこにも神様がおられるのである。
神の愛の中に、その人たちも守られているのであ
る。だから、このイエスの言葉は、何も私達を
叱咤激励するだけのものではない。
むしろ神の約束の言葉なのである。
「心配する事はない。その様な事ばかり、気に
していたのでは、お前は神のみ言葉に従えない
お前の愛する妻も子も、父や母も、私が守って
やるから安心して、お前は私に従って来る様に」
という約束なのである。

そう信じた時に、捨ててというのは、神にゆだね
て、という事であると気が付くのである。

そして、どんな所にあっても、神の存在、神の愛
神の力を信じ、一切を委ねていく者に変えられる
のである。そして初めて、そこに働きたもう神の
み手の業にふれ、そこへ導きたもう神のみ言葉の
素晴らしさを味わい知るのである。
そこに、おのずと湧き上がってきたのが、この
詩人の
「私は神によって、そのみ言葉を、ほめたたえ
ます。」という讚美だったのである。


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