「新約聖書1日1章」(榎本保郎著)から抜粋し、
ご紹介します。
「キリストも私達を受け入れて下さった様に」
教会では自分を喜ばせる事に終始しないで、
むしろ弱い人の弱さを担っていく面がある
わけである。
教会生活は、わずらわしい、と言う人がいるが、
それは、弱い人の弱さを担う事によって、
キリストの十字架にあずかる生活をしていく訳で
ある。
教会員だから、救われるというものではない。
教会が目的になっては意味がない。
救いは、イエス・キリストのいさおしによるので
ある。私達にとって、大切なものはキリストなの
である。
キリストに連なるために教会に属しているので
あって、キリストの十字架にあずかる所に、
教会の良さがある。
教会の一致、交わりは、心を一つにし、声を合わ
せて、神の恵みの素晴らしさを知る所にある。
キリストにある恵みを中心とした交わり、そして
皆が霊的な状態に置かれるのが大切である。
受け入れやすいものを、受け入れる事は誰でも
出来る。受け入れがたい人、自分が潰されてし
まう様な人を、受け入れる事は難しい。
夫婦、あるいは、結婚する事によって、新しい
家族を受け入れていくのも、そういう面があると
思う。最も親しくあるべき者の間に、どうしても
受け入れる事が出来ない問題が出てくる。
それは自分という者がめった切りされるから、
自分の心を閉ざしてしまう。
しかし、イエスが十字架の死をもってめった切り
にされ、私達を受け入れたのであるから、私達も
他の人たちを、その様に受け入れていかねばなら
ない。
そのためには、キリストによって私が受け入れ
られている事が、どんなに大きく、深いのもで
あるか、又、厳しいものであるかを現実によく
知っていなければならない。
キリストの十字架が2000年昔の物語として、
どんなに詳細に知らされても、私達の霊的事実
として強く迫って来なければ、私達の力と、
なり得ないのである。
真珠貝が自分の中に異物を入れられる。
その痛さ、苦しさから出てくる涙が、異物を丸く
し、やがて、あのような光を放つ真珠になって
くる。
私達が、人を受け入れるという事は、真珠貝に
異物を入れる事と同じである。なにかしら痛みを
感じる。そこから産み出されていくのもが信仰の
実である。
相手を受け入れる事が、自分にとって、死を意味
する様な時には、自分が受け入れられる為に、
キリストが死んで下さった事を思う必要がある。
パウロは、その伝道生活において、自分を徹底的
に僕とし、単なる器であるとして、従った。
器であるので、自分の生死、利害得失をも顧みな
いで、神の御旨に従っていったのである。
自分にとって、不都合な事、いやな事があれば
しようとしない。それでは神の御旨に従った事
にはならない。
あらゆる面において、どこまでも、キリストに
従って行ったパウロの信仰は、本当に素晴らしい。