聖書と共に

聖霊によらなければ

今日は、Ⅰコリント12章です。
「静まりと黙想の朝に」(松木祐三著)からです。

「聖霊によらなければ、だれも
『イエスは主である』と言う事は出来ない。」

これは、聖霊の働きによってのみ、信仰は告白
できると教えるもの。
私達は、自分の考えで、信仰をもつ様になった
と思いがちである。しかし、その背後に聖霊の
お働きがある事に、パウロは気付かせようと、
している。

 牧師として私は、人がキリスト者になるのは、
人柄の良し悪しや、頭の良し悪し、等ではないと
思わされている。
聖書の知識の有無にかかわらず、まず、聖霊の
きがあり、人が内心で神の語りかけに応答し
、救われるのである。

かつて、主イエスはニコデモに、風のように働く
聖霊について教えられた。風が吹いている様に、
今も、聖霊は絶えず働いておられる。

次に、聖霊の賜物について述べている。
人には、各自、生まれながらの特性が与えられて
いる様に、聖霊によって生まれた者にも各自の
特性として、神は聖霊の賜物を与えておられる。

いくつかの賜物のリストが書かれているが、
これを現代的に説明すると、

・人との会話が好きな人
・子供の好きな人
・料理の得意な人
・音楽で優れた人
・陰の奉仕が好きな人   などである。

しかし、好きだから、上手だからする、という
のではなく、神に捧げたものとして用いる時、
神の賜物になる。
パウロは、賜物をキリストの体である教会の為に
用いる時、祝福が来ると教える。

体には手、耳、足など、様々な器官がある。
同じく教会にも多様な人がおり、皆、大切な
キリストの体の部分である。
コリント教会には、問題がたくさんあったが、
互いに支え合う様に教えられている。

その問題の一部は、
コリント教会では、夜に礼拝をしていた。
信徒たちは一日の仕事を済ませて教会に来るので
食事の後、礼拝を守った。

ところが、仕事の具合で、みんなが同じ時間に
集まる事が出来ず、遅れる人もあった。
先に食事したした人が、後から来る人の事を
考えず食べてしまい、遅れて来た人は、食事が
出来ないまま、礼拝に出ていた。

又、愛餐会で礼拝に用いる聖餐式用の、ぶどう酒
をたくさん飲み、酔って礼拝に出るような者も
いた。

   **************

5000人の給食の時に、少年がイエス様に、自分
の弁当を捧げたので、これが主によって大きく
用いられた。








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