聖書と共に

信仰と常識

今日は「限りなき主の栄光を求めて(チェンバ-ス)
から抜粋しご紹介します。

常識を受け入れない信仰は狂信的であり、信仰
を一切受け入れない常識は合理主義である。

およそ、イエス・キリストが語られた事の中で
常識的なものは一つもなく、啓示でなければ
意味をなす事のない、常識の範囲外の事である

常識に沿った生活の、あらゆる具体的な事に対
して、神の啓示による、常識とは、別の対処法
がある。神とはどの様な御方かを、私達の実際
の生活の経験から分かるようになる為である。

信仰とは、常にイエス・キリストを最上位に置
く、きわめて積極的な行動原則である。
「主よ、あなたがそう言われるので、理にかな
っていない様に思えますが、あなたのみことば
に信頼し、行動に移します」(マタイ6-33)

頭だけの信仰を自分の信仰に変える事は、時々
ではなく、常に戦いである。神は、そんな私達
を特定の環境の中に導き入れて、わたたちの
信仰を育てて下さる。
信仰は、その性質上、信じる対象が現実に思え
なければ働かないものである。

イエスを知るまでは、神は私達にとって、一つ
の概念に過ぎない。しかし、ひとたび
「私を見た人は、父を見たのです」(ヨハネ14-9)
とイエスが言われるのを耳にすると、本物の
実在を知る。

  ***********

「信じてバプテスマ(洗礼)を受ける者は救われる。しかし信じない者は罪に定められる」
              (マルコ16ー16)

以前、学生時代に原理にいた人と話しました。
その人がグループの先輩に
「先輩!、先輩の目が血走っていますよ」と言
ったとの事。自分の目も血走っていたかも。

このような信仰は、カルト、狂信的です。

その他、土地、屋敷を献金し、後は生活保護で
暮らす。これも、カルト的で、狂信的です。

愛に基ずく
「常識と信仰のバランス」を欠いた結果です。

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