「群衆が神の言を聞こうとして、押し寄せて
きた。…ガリラヤ湖畔に二そうの小舟が
あり、その一そうはシモン(ペテロ)の舟で
あった。イエスはそれに乗り込み、シモン
に頼んで、岸辺から群衆に教えになった。
話が終わると、シモンに
「沖へ、こぎ出し、網をおろして漁をして
みなさい。」と言われた。
「先生、私達は、夜通し働きましたが、何も
取れませんでした。しかし、お言葉ですから
網をおろしてみましょう。」
そして、その通りにした所、おびただしい
魚の群れは入って、網が破れそうになった。
そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢
に来るように合図をしたので、彼らが来て、
魚を両方の舟いっぱいに入れた。その為、
舟が沈みそうになった。
これを見て、シモン・ペテロは、イエスの
膝元にひれ伏して言った。
「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者
です。」 (ルカ5章6節)
ここから「新約聖書1日1章」(榎本保郎著)か
らです。
群衆は、みなイエスから神の言葉を聞こう
と思い押し寄せているのに、ペテロは、
一生懸命、網を洗っていた。そこにペテロと
いう人は、神の言葉とか、信仰に対して、
敬虔な生活をしていた、というよりも俗物的
というか、魚一匹を取る方を大事とする態度
が伺える。
神の言葉に背を向けていたペテロが、どうし
て信仰に入り、イエスの弟子になったか、
それは彼が、一つの事実に出会ったからである。
イエスの言葉通りにしたら、魚が沢山取れた
事は、彼には考えられない、人智を、はるか
に超えたものであった。その時、彼は今まで
の意地を張っていた生活、むやみに反発して
いた生活が、いかに愚かなものである事が
分かったのである。
生まれつきの性格、性質などは、信仰したか
らと言って、そう変わるものでは無い。
そういったものが、ひっくり返される様な、
世界が、信仰の原点である。
ペテロが経験した様に、魚が取れたという
神の言葉の威力、生きた神の現臨に触れる
事である。
そういう原体験というものを持たず、ただ
本を読んだり、人の話を聴いたり、あるいは
自分で考えたりして、キリスト教は、こんな
ものかと、自分の側から信仰しているのは
本物ではない。
では一体、どうすれば、その変革に、又、
神に出会う事ができるか。それは
「そして、その言葉の通りにした。」という
言葉にカギがある。
キリスト教は、どこまでも、約束の宗教であ
り、その約束を履行する事が、一番大事であ
る。
その通りにしてみた時に、初めて聖書の言葉
が、本当か、ウソかが分かる。