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また、あの日が来るわけです

2005年05月25日 | ゆざわネタ
 ミーハーなもので、ゴールデンウイークには、GAOで込み合う男鹿半島に行ってきたですよ。なんか10数年ぶりって感じで。それで、新しい水族館GAOの前にあるマリア像も拝んできました。あの日もきっとこんな静かな波のままだったのでしょう。そしてきっと10年か20年か生まれ年と日付があっていれば、きっと私もこの波に飲まれてむなしく消えていたのかもしれません。

 5月26日、日本海中部地震では、津波で、遠足の児童および観光客を訪れていたスイス人観光客1名を含む104名が亡くなりました。

●地震情報の伝達手段の欠如 ・・・ サイレンや、ラジオ等情報機器による情報伝達の必要性
 合川南小学校地震津波遭難記録編纂委員会(1984)によれば,同小一行は49名で,地震発生時はバスの中にいたため,大きな揺れを知覚せず,ラジオ等で地震や津波に関する情報を得る機会もなかったそうです。
 青砂海岸の岩場に腰を下ろし,ワーイと昼食を食べようとしたとき,津波が襲いかかってきて,ほとんどの児童が波にのまれ,36名は救助されたが,13名が亡くなられました。
 もしも、到着が30分前だったら・バスでラジオを流していたら(でも遠足バスでAMラジオは流さないよね・地元の人が非難を呼びかけたら(でも実際、多くの男鹿の地元民でさえ津波が来るとは想像しなかった)・・・よってサイレンがあっても「当時は」鳴らさなかった可能性は高いわけですが、今であれば絶対にサイレンは流したでしょうし、サイレンがなくても呼びかけは行われる「ハズ」です。(強く期待しましょう)


●外国人の犠牲者 ・・・ 日本語が通じない人への対策)
 男鹿水族館では,職員の誘導により,当時100名ほどいた観光客のほとんどが,高所にある有料道路へ避難したが,十数人が低所にある駐車場にとどまっていたという。その後水族館員が,海水が急速に引いていくのに気づき,「津波だから引き返せ」と呼びかけ,駐車場にいた十数人は戻ったが,一番海寄りにいたスイス人夫妻は流され,うち一人が死亡した。外国人であったたため,日本語が通じなかったと考えられる。
 ここのあたりのくだりはフィクションとはいえ、ツリキチ三平の矢口高雄先生の「ゲキトウ(だっけ)」という作品で詳細に書かれています。現場のマリア像もきっとこのスイス人の奥さんを追悼したものだったと思います。


●(言い伝えの誤伝播 ・・・ 言い伝えにも、検証と正しい伝承が必要)
 男鹿半島では,地震が来た後,浜に逃げた人がおり,このうち2名が津波によって死亡している。この地域には「地震が来たら浜に出ろ」との言い伝えがあり,これに従って行動し,遭難した可能性がある。この言い伝えは1939年の男鹿地震による山崩れの経験を基に生まれたもので,本来は「浜に出たら山を見ろ,動かなかったら山へ登れ」とその後に続いていたようだが,いつの間にか前半部分だけ覚えられていたらしいとの説もある(秋田魁新報1983年5月29日朝刊)。
 村の古老がいうことが正しいかどうかは、再来周期が80年以内の災害に限られる。宮城県沖地震や東南海地震のように前回の地震が「平均値で見て小さめの回」だった場合、前回の経験は危険情報になる可能性が高い。(ここまで逃げれば大丈夫、など)

 合川南小学校のグループのグループの場合,バスでの移動中もしくは海岸付近で下車した際に,防災無線等の放送で地震の発生と津波発生の可能性が伝えられ,①それを聞き取り,かつ②危険性を理解していれば,時間的には津波に遭遇することを回避できた可能性がある。と東北大学の研究論文では指摘しており、今、秋田県庁がそれを実行しているかを6月26日の各新聞は検証すべきと考えます。

 googleで、当時の話をサーチしたところ、同じ合川町内の合同修学旅行の話題に触れた方がいました。要約すると、
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 町内4つの小学校合同で、4、5年生が「社会見学」ということで秋田市、男鹿方面に遠足に。
6年生が津軽海峡のちょうど真ん中へんまで来たときに日本海中部地震発生。でNHKは被害状況なんかの放送はじめて、連絡船のロビーで見てたら、「北秋田郡の小学生、津波にのまれて行方不明」のテロップが。「おぉ、どこだろう?」と思ってみていると、しばらくして「合川南小学校」らしいこと判明。南小学校の6年生は修学旅行の同じバス。
 連絡船内は、東西南北に分かれてたんだけど、南小学校のところ、ものすごく暗い雰囲気に。で、津波の警戒ということで函館港のちょっと沖で3時間ほど待機。当然予定はキャンセルで、行ったのは「タイヤ公園」と「函館山」の夜景だけ。
 たしかにきれいだったんだけど、南小学校の6年生はどんな思いでみてたんだろうか。
 次の日は修道院とか五稜郭とか行ったけど、移動のバスの中ではなんか重苦しいまんまで...
  中学校は1つにまとまってるので、3年生のときは、「ほんとはもう13人多いはずなんだなあ」となんか複雑な思い。
 そのときの引率の先生は2人とも無事だったんだけど、一人の先生は、実家の向かいの隣の隣に住んでて、それからしばらく重苦しい関係に。
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のごとくでした。

 たしか、去年かおととしのどっかの新聞で、同級生の方のコメントを乗せていたとこがあったんだけど、googleでHitしませんでした。

 インターネットの無い時代なので、なかなか文字でサーチすることは難しいけど、忘備録として当時の記事をpasteしておきたいと思います。
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漁船くり出し、必死の救出
 男鹿市の加茂海岸を大津波が襲った時、浜辺では、遠足に来た北秋田郡合川町の合川南小の四、五年生四十五人が、引率教諭二人とともに水遊びを楽しんでいた。悲劇は、付近の人たちの目の前で起った。 海岸を見おろず高台で旅館を営む@さん(42)によると、地震に驚いた大友さんらが外に飛び出したところへ、子供たちがマイクロバス二台で到着した。 教師らは車中にいたせいか、地震の大きさがあまりわかっていなかったらしく、岩場に子供を連れて行き遊ばせ姶めた。約十分後、突然水が引き、海が盛り上がったと思うとまるで壁のような波がグングン追ってきた。「津波だ、逃げて」と大友さんらが叫んだ時には全員が、一瞬のうちに波にのまれた。 子供たちはもがき、頭を浮き沈みさせ「助けて」と泣き叫ぶ。百mも沖に流される子も出た。「子供を見捨てるな」漁民たちは何度も引いては押し寄せる津波の中を、防波提の内側から持ち出した漁船四隻をくり出して次々に助け上げた。婦人たちも、泣き声を上げながら防波堤からロープを投げたり、サオを差しのべた。 が、波の力の方が強い。間もなく五年生の@信子ちゃん(10)が遺体で見つかった。やっと救出した四年生の@ちゃんも病院で死亡。十一人も波間に消えた。 かろうじて助けられた児童は手やヒザから血を流し、全員ずぶぬれで、うち十人が病院に運ばれた。
 「口と目を閉じ、息をしないようにして、そばの長いクイにじっとしがみついでいた。隣で綱につかまっていた友達は、綱が切れて流されてしまった」と、唇を震わせる女の子。 信子ちゃんらの死を知らされると、同級生たちは「何も悪いことをしていないのに、どうしてこんなことになるの」と大声で泣きじゃくっていた。 引率の@(47)「最初はただの波だと思ってもいたらだんだん子供たちが流されていってしまった。投網や岩にしがみついている子供に波がおさまるまでがんばれツと声をかけだのだが・・・・」と言ったきり、あとは声にならない。 地元の人でさえ「あんな津波はみたことがない。防波提の内側がブクブクと温泉ように吹き出したかと思うと、アッと言う間に海が盛り上って押し寄せてきた」と驚く津波の急襲。 海岸で一部始終を見ていた大友さんは、「私らや地元の古老でさえも津波の経験がなく、まさか津波が来るとは思わなかった。防波提の上に船が打ち上げられる津波の中を「船が動いていれば大丈夫」夢中で助けに行った漁民がいなかったらもっと恐ろしい事故になった」と青ざめた顔で話していた。


打ちち寄せられるリュック
立ちすくむ父母
 夕方には、現場に予供たちの父母も続々駆けつけ、肩を寄せ合って沖を見つめる目は真っ赤。子供たちが遊んでいた場所から五百㍍ほど離れた海岸には、赤や青のリュックや帽子、上着などが波に打ち寄せられていた。 現地対策本部の置かれ加茂海岸の旅館「金竜」には、父母約三十人が詰めかけた。やり場のない怒りをおさえ込むように、押し黙って二階の控え室に向かった。 そのうちの一人、行方不明になっている@君の父親@さんは、「思いがけない災難に、ただぼう撚としている。早く見つかって欲しい」と祈るような口ぶり。 @教諭は、ショックのため本部に寝込み「無我夢中で子供を助けようとしたが、このような結果になって申し訳ない。行方不明になっている子供たちが一刻も早く見つかればいいのだが」と話していた。 捜索は日没と同時に打ち切られ、きょう27日も、日の出を待って開始される。

海の遺体、懸命の捜索
学童7人(男鹿)を収容
余震、きょうも365回

 大津波を伴った「日本海中部地震」から一夜明けた二十七日、秋田、青森などの被災地では、行方不明者の捜索活動や復旧作業が早朝から再開された。現地では依然余震が続いており、午前零時から正午までに、秋田県を中心に三百六十五回の余震を記録した。また、行方不明者は、秋田・男鹿半島で学童七人と、同県内での釣り人など四人が遺体で見っかっただけで、捜索活動は難航している。一方、国土庁長官を団長とする政府調査団も同日朝、秋田入りし、被害状況などの本格的な調査を開始した。

 津波のために、遠足の児童らが行方不明になっている男鹿半島では、二十七日、四か所で船二十隻、警察、消防団など約百七十人と多数の地元漁民が加わって、夜明けとともに捜索が再開された。この結果、合川町立合川南小学校の子供たち十一人が波にのまれて行方不明になっていた男鹿市加茂青砂海岸では、ダイバーが海に入り、午前六時半、四年生の@ちゃんら児童七人を遺体で収容した。うち四遺体は、沖合三百mの岩礁の北百m付近の、水深十八mの海底にひと塊になって横たわっていた。加茂青砂海岸では、この後、沖に設置した定置網を引き揚げることになっており、行方不明者がさらに見つかる可能性が高い。また、男鹿半島の戸賀の男鹿水族館、入道崎、五里合でも、沖合までの広範囲で捜索を続けている。「男鹿半島に釣りに行ったまま帰らない」という情報がいくつかあるため、男鹿署では、釣り場に漁船を出して海中を調べている。


 男鹿半島、またスマトラ島でもそうですが、海辺で遊ぶ機会はどんどん増えています。津波の知識が山の子供たちにも欧米の内陸の住民にも浸透するような試みが必要なことを、5月26日やスマトラ津波は教えてくれているのだと思いました。
 子供たちをはじめとした、各地の地震・津波・噴火災害の被災死された皆様のご冥福を。合掌。
 残されたものは、残された者しかできないことを誠実に遂行しましょう。まずは「忘れないこと」と、家具の固定ですね。(湯沢旧市内の真下には南北に東鳥海山断層が走っています。動けば震度7は覚悟しましょう)

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