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田舎ぐらし(156)

 ― ツ ケ 払 い ー

 
  「江藤 新平」
        毛利敏彦 中公新書

 師走。
師走と聞けばすぐに忠臣蔵を思いい浮かべるのは年のせいか。
 紅白歌合戦などはとっくの昔に興味がなくなったのに忠臣蔵だけは脳裡に居ついて離れない。討ち入りから300年以上経った今も東京高輪・泉岳寺にある義士の墓には線香の煙が絶えないという。

 ふと思いが巡った。江藤新平の仇はだれが打ったのか。
知られているように、江藤は日本の近代国家建設に力を尽くしたが明治7年、佐賀の乱の首領として、鹿児島の大久保利通および大久保の意のままに判決を言い渡した高知の河野敏鎌(こうのとがま)により斬首、さらし首の刑に処せられている。したがって江藤を讃え、敬愛する人にとってこのふたりは憎き仇となる。

 倒幕直後、未だ明治政府の頭も座らない時期に新生日本のために江藤が果たした功績ははかりしれない。

 明治維新の核心は個々人をががんじがらめに縛っていた士農工商の封建的身分規制を撤廃し、人間としての権利において対等な個人からなる四民平等の近代的社会関係を基本的に創出したことであり、これを強力に牽引した中心人物が政府中枢にあった江藤である(「江藤新平」 毛利敏彦 中公新書」まえがきより)

 その江藤の命運は明治6年12月、気勢を上げる不平士族を鎮撫するため生まれ故郷の佐賀に帰省した時に暗転した。征韓党の首領となった江藤は政敵大久保の率いる政府軍と一戦を交えるが敗北し、佐賀を脱出して東京に向かう途中、捕らえられる(同)

 明治7年4月7日、佐賀に護送された江藤は4月5日に設置されたばかりの佐賀裁判所で8日、9日の2日間河野の審理を受ける。しかし、刑は決まっていた。「梟首」、つまり斬首の上、首をさらすという判決だった。刑は即日実行された(同)

 大久保は東京で裁判することは江藤に有利、自分らには不利。遠隔地の佐賀で判決を言い渡し、即執行してしまえばこちらのもの、と考えたのであろう。
佐賀裁判所は下級裁判所であるから単独で死刑を言い渡すことはできない。しかし、そんなことは大久保らの眼中になかった。

 福沢諭吉はこれについて「公然裁判もなく、其の場所に於いて、刑に処したるは、これを刑と云うべからず」と痛烈に批判している(同)

 ところが、石川県と島根県の5人の士族は批判するだけではおさまらなかった。武士の食い扶持を奪われて政府に対する不満がうっ積しているところへ持ってきて、遠く離れた佐賀の地とはいえ、志を同じくする士族の首領が殺されたのである。

 5人は明治11年5月4日、東京・紀尾井町付近において馬車で赤坂仮皇居に向かう途中の大久保を襲い殺害した。斬奸状に認められた5つの理由の筆頭に “ 国会も開かず、憲法も制定せず、民権を抑圧した ” とあり(ウィキペディア 紀尾井坂の変)、それはまさに江藤が明治元年以来強く主張していたことだった。江藤の恨みは石川と島根の士族によって晴らされた。

 敵討(かたきうち)は明治6年に禁止されている。しかし積もり積もった恨み、遺恨は一片の御触れ書きで朝日に当たった霜のように簡単に消える去るものではない。ツケを払わずに逃げ切ることはできなかった。河野は殺されこそしなかったが、事件以降夜も寝られぬ日々を送ったのではなかろうか。
 

 


 
 

 
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