室町時代以降のご大層な、芝居がかった陰陽道や宿曜道(占星術)が、
いわば権力の側からのおこぼれだとすると、
日本国中の村落共同体ごとに語り継がれる
神隠しや予兆や憑依(狐つきなど)現象は
もっとつつましく、かつ狂気を包み込んでいる。
たとえば、吉本隆明の「共同幻想論」によれば、
「ひとりの村民がじぶんの妹が息子に殺されたと同じ時刻に山奥で女の叫びごえをきいたとか、
町からの帰り道にザシキワラシの娘に出遭って、
ザシキワラシの住みついていた孫左衛門の家の凶事を予知するとか、
・・というありふれた<予兆>譚の意味」するところは、
「村人がじっさいに体験した入眠幻覚と考えられる」 としている。
つまり、村落の内部で起こっている事情は、
嫁と姑のいさかいから、
他人の家のかまどの奥の問題まで
村人のみんなに自分のことのように知られている。
すると、
村落の共同幻想の体験や伝承が、
村のとりわけ異常な個人に<予兆>として体現されやすいというだけのこと。
またたとえば、
「遠野物語拾遺集」の中の巫女譚では、
『或る家で一時に三人も急病人が出た。すると何処からか一人の老婆がやってきて、
この家には病人があるが、それは二三日前に庭前で小蛇を殺したせいだと言った。
家人が思い当たるふしがあるのでわけをきくと、
その小蛇はこの家の三番目の娘を嫁にほしい淵の主のお使いでそれを殺したから三人が同時に病気になったのだとこたえた。
娘はそれをきいて驚いて病気になったが、家族三人の病気は癒った。
娘は医者の薬の効もなく、とうとう死んでしまった。』という話がのこされている。
吉本隆明はこの話を次のように解き明かしている。
“老婆は、もちろんこの家で三人一時に病人ができた噂を聞き知っていたろうし、
淵のそばの家から蛇がいつでも庭にぞろぞろでてきたりすることもわきまえていたはずだ。
老婆のお告げにはべつに不可思議なところはない。
ただ<蛇>がこの家の娘を嫁にほしい淵の主のお使いだというのは老婆の創作ではなく、
伝承された共同幻想である。
ここで大切なのは、
共同幻想の象徴である<蛇>が<娘>と<性>的にむすびつけられてかんがえられていることである。
<娘>に象徴される<女性>が共同幻想を<性>的対象とするという伝承が存在し、
老婆はそれをなんのうたがいもなく信じていた。” ということである。
そして、娘が病気になって死んだという結末のつけ方は、
この共同体での共同幻想の禁制(タブー)のつよさの表現にすぎない。
まちがっても、それを事実と受け取って霊だの前世だのと言って、騒がしくしないこと。
それでは共同幻想という学的な水準を、
まるで理解できないということを自ら露呈することになるだけですから。
そんなひとは古事記もSF漫画のようにしか読めないと思います。
なにせ、一見するとハチャメチャな神話ですので。
いわば権力の側からのおこぼれだとすると、
日本国中の村落共同体ごとに語り継がれる
神隠しや予兆や憑依(狐つきなど)現象は
もっとつつましく、かつ狂気を包み込んでいる。
たとえば、吉本隆明の「共同幻想論」によれば、
「ひとりの村民がじぶんの妹が息子に殺されたと同じ時刻に山奥で女の叫びごえをきいたとか、
町からの帰り道にザシキワラシの娘に出遭って、
ザシキワラシの住みついていた孫左衛門の家の凶事を予知するとか、
・・というありふれた<予兆>譚の意味」するところは、
「村人がじっさいに体験した入眠幻覚と考えられる」 としている。
つまり、村落の内部で起こっている事情は、
嫁と姑のいさかいから、
他人の家のかまどの奥の問題まで
村人のみんなに自分のことのように知られている。
すると、
村落の共同幻想の体験や伝承が、
村のとりわけ異常な個人に<予兆>として体現されやすいというだけのこと。
またたとえば、
「遠野物語拾遺集」の中の巫女譚では、
『或る家で一時に三人も急病人が出た。すると何処からか一人の老婆がやってきて、
この家には病人があるが、それは二三日前に庭前で小蛇を殺したせいだと言った。
家人が思い当たるふしがあるのでわけをきくと、
その小蛇はこの家の三番目の娘を嫁にほしい淵の主のお使いでそれを殺したから三人が同時に病気になったのだとこたえた。
娘はそれをきいて驚いて病気になったが、家族三人の病気は癒った。
娘は医者の薬の効もなく、とうとう死んでしまった。』という話がのこされている。
吉本隆明はこの話を次のように解き明かしている。
“老婆は、もちろんこの家で三人一時に病人ができた噂を聞き知っていたろうし、
淵のそばの家から蛇がいつでも庭にぞろぞろでてきたりすることもわきまえていたはずだ。
老婆のお告げにはべつに不可思議なところはない。
ただ<蛇>がこの家の娘を嫁にほしい淵の主のお使いだというのは老婆の創作ではなく、
伝承された共同幻想である。
ここで大切なのは、
共同幻想の象徴である<蛇>が<娘>と<性>的にむすびつけられてかんがえられていることである。
<娘>に象徴される<女性>が共同幻想を<性>的対象とするという伝承が存在し、
老婆はそれをなんのうたがいもなく信じていた。” ということである。
そして、娘が病気になって死んだという結末のつけ方は、
この共同体での共同幻想の禁制(タブー)のつよさの表現にすぎない。
まちがっても、それを事実と受け取って霊だの前世だのと言って、騒がしくしないこと。
それでは共同幻想という学的な水準を、
まるで理解できないということを自ら露呈することになるだけですから。
そんなひとは古事記もSF漫画のようにしか読めないと思います。
なにせ、一見するとハチャメチャな神話ですので。
美輪明宏の歌が泣かせる、という話をきかされてもねー。
フーン、そうなんだとしか言いようがないけど。
(あたしに言ってないって、あっそう。)
でもま、どうでもイイ日記ブログばっかしでさー、
テツ兄の種明かしってけっこう、ウンだなーって
読んじゃうけどなー。
作家さんにかぎらず、自分が非難されてるように思う人がいるのが
“変?”なとこよね。