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旧約聖書のヨブ記と色川武大

2010-07-19 15:51:36 | 世界に意味は無いのか!
こんにちは、テツせんです。

- 梅雨明けを 待ち焦がれたのに 秋を恋う! -

と言いたくなるほど、夏の日差しがたまりまへんなあ。
みなさんは、いかがお過ごしでしょうか?

さて、今回は色川武大氏の『私の旧約聖書』のつづきをごいっしょに読み解いていきましょう。

-- 「ウヅの地にヨブという人あり。
その人となりは申し分なく正しく、まことに神を畏れ、悪に遠い。・・」-- と、
はじまる 『 ヨブ記 』を、
色川武大氏も旧約聖書の「白眉の一つ」であると書いています。

すこし説明しますと、・・・
・・・七人の息子と三人の娘とともに、羊七千頭、駱駝三千頭などを飼っていて、
信仰心厚く、幸福に暮らしていた、ヨブが、
あるとき、サタンのお節介によって、
天なる神イェホバから 『いわれなきテスト』 をうけることになるという設定のお話です。

色川氏の読み取り方はこうです。・・・
“ 「誰も理由なしに神を畏れたりするものですか。
豊かに暮らしているから貴方を大事にするんです。無一物になったら貴方を呪うでしょうよ」
というサタンの言葉に、
イェホバさんはそうかな、と思って、試しに、ヨブの子女や財産をすべて奪ってしまいます。

突然、災いに遭ったヨブは、それでも地に平伏し、
「我裸にて母の胎内を出たり、また裸にて彼処に帰らん、イェホバの御名は讃うべきかな」
という按配です。

イェホバ氏はサタンに向かって、「どうだ、ヨブの心は変わらんだろう。」
「なあに、人間はエゴイストだから、自分の命さえあれば、持ち物を失ったって平気ですよ。
彼自身をいためつけてごらんなさい。きっと貴方を呪います」

それでは、というので、ヨブの足の裏から頭のてっぺんまで、悪い腫物だらけにします。
ヨブは陶器のかけらで身体をかきむしり、悶え苦しみます。
彼の妻などは、「正直に神さまを呪って死になさい」などといいますが、

「我々は神から幸いをも受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」
とヨブはいって、唇で罪を犯しません。・・・

異邦人の私(色川氏)がかりに行司を努めるなら、そりゃァ、イェホバさん、お前さんが悪いよ。
つれづれに人を試しちゃいけない。
第一神さまのくせに人の内心が見通せないなんて、セコいね、
もう一度修行していらっしゃい、などといいたいところですが、
それをいっては話になりません。
昔、アブラハムを試したことがありましたが、イェホバさん、わるい癖があるんですね。」 ”--
とまあ、色川氏らしく、おとなの読み取り方(ですが、一歩も退かない態度)をされています。

おもうに、ここのくだりでは、ヨブ記の作者は、
まずヨブの信仰の深さの度合いを、読むもの、聞くものにしらしめておこうとしているようです。
仏教にもあるような“絶対者への自己投棄 ” が徹底されているかどうかを、
戯画的に描かれているわけですね。

ここでのサタンの発言は、世俗的な御利益信仰の実態を暴露しなければならないところに、
ヨブ記の作者の苦悩と作為が見え隠れしていて、切なくなる。

色川氏に付いてもうすこし先を行けば、・・・
・・・“苦しんでいるヨブのところに三人の友が見舞いにくる。
ヨブはさすがに苦痛が応えたとみえて、
自分はもう早く死にたい、それだけが望みだ、といいます。

三人の友は、災いに遭ったのはそれだけの罪業があるからだという因果応報を説くわけですが、
ヨブは、自分は潔白なのだ、義(ただ)しい者がどうしてこんな目に遭わなければならないのか、と訴える。
しかし、友たちは、自分を潔白と決めこむなんて思いあがりだ、
そんなことだから神さまが災いをくださるのだ、といいます。

何度言われても、ヨブは自分が義(ただ)しいという自信が揺らぎません。
つまり、ヨブが言っているのは、
大昔に決められた例の律法にきちんと則って、自分は生きてきたということなのでしょう。”

このくだりでは、色川氏も、日本人のような、
つまりお賽銭をあげて神さんに何かを頼む関係とはまた違って、しかし、
神と人間の対等の相互契約という思考だけではなく、
神の超越性がどうしてもヨブ記に盛られなくてはならなかったと推察します。

そしてさらに色川氏の読みにしたがえば、
ヨブは、この世の現実を指摘し、この世で神の正義はおこなわれていない、といい、
悪人がなぜ栄えるのかという疑問を神に直接ぶつける場面となる。

そこでついに、イェホバが暴風の中にあらわれ、
創世記のような神の威力を誇示してのたまうと、
ヨブはただ呆然として恐れ入ってしまいます。

色川氏はここで、
「ヨブはもともと心から神を愛しているのですから、
イェホバさんの姿や声を知っただけで、エクスタシイを感じてしまうのでしょう。
もうこれだけでヨブの不満や悩みは消えたも同然」といっています。

うーん、たしかにここのくだりこそが
ヨブ記、いや旧約聖書つまりヘブライ聖書がもっとも作為をそそいだところにちがいない。

色川氏が「神を求めつつ、自分を無にすることができず、
そのため自分中心にしかものを考えられずに袋小路におちこんでいたヨブ」というとき、

それはヨブには、《律法 》というユダヤの規範に忠実であったゆえの、袋小路であって、
ユダヤ教が律法の倫理により人々の生活を規定していったことで、
じつは神の超越性をおとしめて俗化するという矛盾を避けられなかったことに危機を持った、
ヨブの作者は、そのほころびをあらためて縫い合わそうとしたといえよう。

ヨブ記がそのような意図に基づいて、
現代風にいえば見え見えの『やらせ 』にみえる大仰な芝居を打ってまで、
混迷する現実社会の実相に対して神の超越性を永遠にするために、
荘厳きわまる韻文をつらねて、楔をうちこもうとしたのであろう。

しかし、歴史は現実社会の人間を反映して、倫理の後退をまぬがれず、
よって、辺境の荒地にさまようユダヤ教(ヘブライ聖書)は、
あらたな敵(原始キリスト教)と死闘をくりひろげることとなる。

- 「言うまでもないことだが、原始キリスト教(メシア・イエスを掲げた)は、
人間と神とを結びつけたユダヤ教の律法が形式的慣習におちこもうとする空隙に乗じて発生した。」-
(吉本隆明著=「マチウ書試論」より)

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