こんにちは、のほせんです。
季節がうつろい、すっかり秋の気配を肌で感じるこの頃ですが、
みなさんはいかがおすごしでしょうか?
秋祭りが終わった土地のひとは、ぬけがらにならないように自律神経をたてなおしましょう。
さて、前回の中世庶民にとっての最底辺のヒーロー「をぐり」の説経節のつづきをみていきましょう。
-- 幸いにも、 「をぐり」は時宗僧に餓鬼阿弥陀仏と名づけられ、
さらに綱を引くものには尊きご利益があるとの添え書を戴いた。
それこそが、「この者を一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」の効用書であり、
これのおかげで道連れに「センゾウクヨウ! マンゾウクヨウ!」を唱える引き手が絶えることなく
「えいさらえい、えいさらえい!」と箱根を越え、大井川を渡り、ついには
禁忌の恋の相手の照手姫が名を変えし常陸小萩のいる青墓の宿にいたり着く。・・
青墓の遊女は傀儡女として評判高く、都の貴人に囲われたりしたという。
なかでも「よろづ屋」は百人の遊女をかかえた繁盛ぶり。
そこに操を守り、一人水しごとをする常陸小萩がいることをを知るよしもない餓鬼阿弥「をぐり」がとどまる。
かたや、まさかをぐりとも知らずに、感応して「物に狂うて見せようぞ」と舞いながら
宿主との約束の五日間、狂い笹を手にした小萩が土車を先導してゆく。・・
再会にして再会にならず。・・ ここは説経節「をぐり」の最高潮にいたった感動的な場面。
この別れのあとはまた知らぬ人らに引かれるままに、とうとう熊野湯の峰に至り、本復をとげるのだが・・。
むろん道中、垢で黒光りし、腹は妊婦のようで、四肢はゴボウのような、あすの命もわからない厄介物、
ここで死なれては面倒だ。 いそいで次へ引いてゆく。
目の届かない場所へ移したいという忌み嫌うひとたちの思惑もあったであろうし。・・・
-- ここでぜひ、常陸小萩こと、照手姫が六浦の浜に漂着してからの難渋をたどってみましょう。
牢輿(こし)から美しい姫があらわれ、漁師たちはびっくり仰天。
漁夫の太夫がなだめて家に連れ帰ったものの、
妻は、役立たずの姫など(人)商人に売ってしまえと、留守の間に二貫文で売り飛ばす始末。
六浦の人商人(ひとあきびと=人買い=奴隷商人)から、釣竿の島の人商人に売られ、
「価が増さば売れやとて、鬼が塩谷に買うて行く。鬼が塩谷の商人が、価が増さば売れやとて、
岩瀬・水橋・六渡寺・氷見の町屋へ買うて行く・・」 --
なぜか三浦半島から日本海の新潟、富山、石川、福井、滋賀、岐阜へと転売されてゆく。
そしてようやく、美濃の青墓宿の万屋(遊女屋)の主に十三貫で買い取られることになる。・・
-- 湊々の人商人の暗躍は教科書にものっている「山椒(さんせう)太夫」にもあって、
直江津の山岡太夫が「厨子王」らだましてを船に乗せて沖にくると、二艘の舟があらわれる。
一艘は佐渡の二郎、一艘は(越中)宮崎の三郎の船であった。
人買いどもは海上を行き来して、「商い物はあるか」などと声をかけ合うのだという。
母御前・うわたき・厨子王・安寿の四人を五貫文でどうか、いや六貫文でどうかと取引し、
結果、二組に分けて売られることになる。 それが悲劇の始まりとなった。
母と乳母の舟は蝦夷へむかい、乳母は悲嘆のあまり海に身を投げている。
宮崎の三郎は二貫五百文で買った姉弟を同業の人商人に売ったのをはじめに、
転売されること七十五回、由良の山椒太夫が買ったときには十三貫文になっていた。
逃げようとした姉弟を太夫の息子の三郎は焼きごてを額に当てて十文字の印をつけた。
それでも姉の安寿は苦心して弟・厨子王を逃がすことに成功したものの、
怒った三郎はまだ十六歳の安寿を湯責め水責め、錐で膝をえぐったりして死なせてしまう。・・
この姉弟が死を賭してまで逃げたいとおもったわけとは、なんと信じがたいことのようだが
毎日の日課の柴刈りと潮汲みが死にたいとおもうほどの苦役であったからだという。
説経節の聴衆ならば朝飯前のしごとが、上流社会の軟弱な厨子王、安寿には
「明日もあさってもつづくのなら、もう死にたい」とおもわせたのだった。
-- このとき聴衆は、貴種と貧民の立場が逆転する感覚をあじわったのではないか。
家に帰って、厨子王がなんにもできないことを家族に話したにちがいない。-- と、著者は記している。
というよりも、このような公家貴族を、ある種の「神」のごとく戴く庶民貧民たちの目の前に
引っ張りだした説教師たちの「おいたわしや」の言葉の裏側に、
言い知れぬ憤怒の情と、したり顔が見え隠れしている。
それは蝦夷につれていかれた母御前も同様で、
何をさせるにも役立たずの母御前に腹を立てた蝦夷の人商人は、
「足手の筋を断ち切って」逃げられないようにしたうえで、「粟の鳥を追う」仕事につかせる。
日中、田の粟にあつまってくる鳥を追い払うために、鳴子をむすんだ縄を引っぱるしごとだが、
栄養失調から失明した母御前が
「厨子王恋しや、ほうやれ。 安寿の姫恋しやな。 うわたき恋しや、ほうやれ 」 と、歌い泣く。・・・
-- このように、中世では人商人(人買い)が横行していたのだが、
貴人や貧民にかぎらず、買い取られた人たちはもはや「ひと」ではなく「代物」であって、
「労働力」そのものでなければならなかったから、 報酬などなく、
毎日海水を汲んでくるか、
鉱山で鑿を打ちつづけて、一生をおわる。
まさしく「奴隷」なのである。
物語ではなぜか貴人が悲劇のヒーローに設定されているのは
そのほうがより 「おいたわしや!」という言葉がお似合いだからだ。
じぶんとおなじような生い立ちのものには、ヒロイズムを感じづらいというだけのことである。
いずれにしても、「畜生以下の扱い」は個人の人格を破壊してあまりあるが、
とはいっても、庶民のおおくが食うや食わずのくらしをしいられていたために、
暮らすうえでは、それほどの差異はなかったが、それゆえ差別意識はかえってつよいものがあった。
近代には、ついに「賃金奴隷」ということばも生まれ、
いまではもっとスマートに分別管理されて「ハケン」「正規」「キセツ工」とかよばれて社会システムに組み込まれている。・・・
大量の「消耗品(すべての部署だ)」でしかない個人は、その存在の意味を喪失させられ、
取り替え自由の「代替物」としてあつかわれて心が崩壊寸前の無呼吸症にあえいでいる。・・・・・
(次回へつづく)
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