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日本書紀に卑弥呼や金印や倭の五王の記述がないのが疑問だった

2018-08-19 05:08:38 | 極東古史考

卑弥呼に関連しては 日本書紀の神功皇后66年の条 魏志からの引用で 小文字で書いてある

「是年晋武帝泰初二年(漢籍では泰始 AD265年)晋起居注云武帝泰初二年十月倭女王遣重譯貢献」
是年、晋の武帝の泰初二年なり。晋の起居の注に云わく、武帝の泰初二年十月に倭の女王、譯(おさ)を重ねて貢献せしむという。

これは卑弥呼の宗女(多分シャーマン的能力のある親戚の娘だろう)臺與の朝貢記事だ

卑弥呼の朝貢は 魏の明帝 景初三年(AD239年)で「親魏倭王」の印と銅鏡100枚を拝領している

つまり 敢えて卑弥呼の事を述べていないのだ

倭の女王としか書いていない これだけである
漢委奴国王印の事も 倭の五王の上表文も無い

ずっと疑問だった

天皇家の本記である

何故こんな書き方をするのだろう?

聖徳太子の時代から わずか300年位前の出来事
倭の五王に至っては たかだか120年前の出来事

現代の我々が江戸時代や明治時代の事を覚えていない?
そんな事ありうるのだろうか?


また日本書紀を編纂した人達には漢字漢籍に精通した帰化漢人もいる

遣唐使は長安の都で持参した東北の砂金でありとあらゆる書籍を買い占め中国人を驚かせたと言う記録もある
また遣唐使達は 今までの倭人と違って態度が尊大で 本当に彼等は倭国の使いなのか?と訝ったとも記録されている
どうも あまりへりくだらず どうどうと振る舞ったらしい 
ようするに 態度がデカかった と言うことらしい

それはともかく
当時の最高の知識人であった彼等が知らないわけはない

ひょっとしたら
倭国と日本国の成り立ちが違うのではないか?

倭国と日本国は別々の国で 
飛鳥奈良時代に纏まり始め
天武天皇の時代になってようやく東西日本が合わさって 
真の意味での領域国家になったのではないか?

弥生末期から古墳期 飛鳥期まで続いた長い戦国時代を終わらせ
いろいろな法律を整備し 列島内の全住民の戸籍簿が作られ 官僚制度を整え 
個人の能力による国家経営から 政治システムとしての中央集権国家が日本に始めて生まれた

天武天皇は 外国に対しての日本国と言う近代的国家概念を持った初めての天皇ではないだろうか

二つの系統のつじつま合わせが日本書紀ではないのか と

天武天皇は東日本の軍事力を背景に壬申の乱に勝ち 天皇に即位した
大王(おおきみ)を改め 天皇を号したのは天武治世以降の事である

また気になるのは 継体天皇である 
北陸出身 北陸は当時東日本に属する
鈴鹿山系 琵琶湖以北は東日本だった

さらに疑問がある

神武天皇の出身地である九州に景行天皇は軍事行動を起こしている?
「日向」の語源説話 景行天皇が「是の国は直く日の出づる方に向けり」と言ったので「日向国」と名づけた?
皇統の最も大事な宮崎県・鹿児島県の地を成敗し 日向と名付けた?

おかしい?

仲哀天皇や神功皇后も九州征伐を行っている?
新羅を陥落すれば九州は自ずから静まるとさえ言っている?
何度も何度も九州征討を行っている

なんか 変なのだ?

後漢書には狗邪韓国(金官伽羅 今の慶尚南道金海市)は倭の西北岸との記述がある
この地域は BC300年頃から土器の様式が変わり弥生式土器に変化している

辰韓の南に弁辰国があり 弁辰国の南が倭 弁辰国の南は海ではない
やはり倭の領域は南韓地域まで及んでいたのだ

BC108年以降 卑弥呼のAD239年まで 
倭の三十あまりの国が漢に朝貢している

「弁辰在辰韓之南,亦十有二國,其南亦與倭接。」
「倭在韓東南大海中,依山島為居,凡百餘國。
 自武帝滅朝鮮,使驛通於漢者三十許國,國皆稱王,世世傳統。
 其大倭王居邪馬台國。
 樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。」

倭国は北九州と任那・伽羅・新羅の勢力で 卑弥呼はこの倭国の女王であった

この当時 新羅地域はまだ倭国であったが次第に衰弱し 
北にあった辰韓の斯蘆国が南下し占領して新羅国になる

伝説の神功皇后が制圧した新羅は まだ倭国の時代の新羅地域だ
この辺りの時代と地域はとても錯綜しているので 注意深く観察が必要

後に任那は百済に割譲され 伽羅は新興の新羅国に併合されてしまう
この時点で 倭国は南韓の地を全て失ってしまう

現在の韓国は この新羅の末裔で その先は濊貊人と辰韓の亡命漢人が主流になっている

韓国の金とか朴とか昔とか 何時頃からだろう?

日本書紀の新羅の記事

垂仁天皇(AD???)
三年春三月。新羅王子天日槍來歸焉。將來物。羽太玉一箇。足高玉一箇。鵜鹿鹿赤石玉一箇。出石小刀一口。出石桙一枝。日鏡一面。熊神籬一具。并七物。則藏于但馬國。常爲神物也。〈一云。初天日槍。乘艇泊于播磨國。在於完粟邑。時天皇遣三輪君祖大友主與倭直祖長尾市於播磨。而問天日槍曰。汝也誰人。且何國人也。天日槍對曰。僕新羅國主之子也。然聞日本國有聖皇。則以己國授弟知古而化歸之。仍貢献物葉細珠。足高珠。鵜鹿鹿赤石珠。出石刀子。出石槍。日鏡。熊神籬。膽狹淺大刀。并八物。仍詔天日槍曰。播磨國完粟邑。淡路島出淺邑。是二邑。汝任意居之。時天日槍啓之曰。臣將住處。若垂天恩。聽臣情願地者。臣親歴視諸國。則合于臣心欲被給。乃聽之。於是。天日槍自菟道河泝之。北入近江國吾名邑而暫住。復更自近江。經若狹國西到但馬國則定住處也。是以近江國鏡谷陶人。則天日槍之從人也。故天日槍娶但馬出嶋人。太耳女。麻多烏。生但馬諸助也。諸助生但馬日楢杵。日楢杵生清彦。清彦生田道間守也。〉

新羅王子の天日槍(あめのひぼこ)ってまるっきり日本語だ
本当の名は なんだろう? 逆に本当にそう呼ばれていたのだろうか?

推古天皇
八年(AD600)春二月。新羅與任那相攻。天皇欲救任那。
是歳。命境部臣爲大將軍。以穗積臣爲副將軍。則將萬餘衆。爲任那撃新羅。於是。直指新羅。於是直指新羅以泛海往之。乃到于新羅攻五城而拔。於是。新羅王惶之。擧白旗到于將軍之麾下。而立割多多羅。素奈羅。弗知鬼。委陀。南加羅。阿羅々六城以請服。時將軍共議曰。新羅知罪服之。強撃不可。則奏上。爰天皇更遣難波吉師神於新羅。復遣難波吉士木蓮子於任那。並検校事状。爰新羅任那王二國遣使貢調。仍奏表之曰。天上有神。地有天皇。除是二神。何亦有畏乎。自今以後。不有相攻。且不乾般柁。毎歳必朝。則遣使以召還將軍。將軍等至自新羅。弭新羅亦侵任那。

とりあえず新羅に圧勝しているようだ

九年(AD601)春二月。皇太子初興宮室于斑鳩。
これは聖徳太子の事だ

三月甲申朔戊子。遣大伴連囓于高麗。遺坂本臣糠手于百濟。以詔之曰。急救任那。
夏五月。天皇居于耳梨行宮。是時大雨。河水漂蕩。滿于宮庭。
秋九月辛巳朔戊子。新羅之間諜者迦摩多到對馬。則捕以貢之。流于上野。

新羅のスパイ迦摩多を対馬で捕まえて 上野(かみつけの国)に流罪した とある
名前が迦摩多か まだ 金とか朴とかの名字が無かったんだな

是歳(AD621)。新羅遣奈末伊彌買朝貢。仍以表書奏使旨。凡新羅上表。蓋始起于此時歟。

ない

卅一年(AD623)秋七月。新羅遣大使奈末智洗爾。任那遣達率奈末智。並來朝。仍貢佛像一具。及金塔并舍利。且大潅頂幡一具。小幡十二條。即佛像居於葛野秦寺。以餘舍利。金塔。潅頂幡等皆納于四天王寺。是時。大唐學問者僧惠齊。惠光。及醫惠日。福因等並從智洗爾等來之。於是。惠日等共奏聞曰。留于唐國學者。皆學以成業。應喚。且其大唐國者法式備定之珍國也。常須達。

まだ 無い

あった

孝徳天皇
大化三年(AD647)
新羅遣上臣大阿飡金春秋等。送博士小徳高向黒麻呂。小山中中臣連押熊。來獻孔雀一隻。鸚鵡一隻。仍以春秋爲質。春秋美姿顏善談咲。

この頃かぁ 新羅で金氏が始まったのは 
日本へ人質として来たらしい なかなかいい男だったようだ
この後 新羅へ戻って第29代武烈王になった金春秋
若き日々は日本で過ごしたのか



ヤマトとは 畿内周辺を含む東日本の勢力ではないだろうか?

AD200年の人口分布をグラフにしてみよう
総人口は60万人弱



任那・伽羅・新羅に関しては 残念ながら韓国の資料がない

南九州が狗奴国 こちらのほうが人口が多い

北九州を倭国と見做して 南韓部を含めれば 多分人口は軽く10万を超えるだろう

魏志の三韓伝では 万余戸 つまり約5万人で大国と見做しているから
ま 大国と言えば 大国だが?

いずれにせよ 二朝対立は 九州年号が時折各種文献に現れるように続いたのだろう
でも 最終的には 倭種は縄文種と同化し日本人となった

倭種は3000年前に来た新しいご先祖様

38、000年前に来たご先祖様がいて 8、000年前のご先祖様がいて 3、000年前に来たご先祖様がいて
喧嘩したり仲良くなったりを繰り返して なんとなく血がごちゃまぜになり 結局今の我々日本人が出来上がった


結果論だが





じっくり考えてみよう

これからも分子生物学や考古学や文献学から新しい発見があるだろう

歴史は科学であるべきで 今までの優生学や民俗学に基づくノンフィクション小説であってはならない
仮説を仮説でいじくり回しても真実は出てこない 
データと仮説 実験と検証 その繰り返しの中に新しい発見がある

自分も 何時も白紙で歴史を考えて行きたい

今朝も涼しい朝だ
湿度38%



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