山伏の数は、鎌倉時代のはじまりとともに急増したという。
山間で修行した聖は、奈良時代以前からいるにはいたが、修験道に従事する者を指す”山伏”の語は、鎌倉時代から広く使用されたという。
そして、かれらの呪術は、火を用い人々を驚かせ、激しい呪文を唱えるという特徴をもっていた。
かれらは本山派と当山派にわかれ、密教勢力とつながりを強めた。
本山派は熊野三山を中心に活躍し、三井寺と提携した。
まもなく寺門派(三井寺系)の僧侶は顕教(仏典研究などをすること)、密教、修験の三者を身につけなければならないとされ、聖護院が京都における本山派修験の中心になっていったという。
聖護院は皇室から代々法親王を招いて、宮門跡として重きをなし、鎌倉時代末に覚如法親王(後醍醐天皇の皇子)が、自ら熊野から大峰山に入って修行した。
大峰山は修験者がもっとも神聖な地とする山であり、やがてこの宮門跡の峰入りが慣例化し、本山派の修験はますます重きを増していった。
もう一方では、真言系の密教が山伏と結びついて、当山派を生んだという。
京都の醍醐寺三宝院を本拠地とし、そしてそこの山伏は吉野を勢力圏としていて、そこから大峰山に入って修行した。
朝廷は当初、当山派を軽く扱ったが、その後室町幕府が当山派を後援するようになると、やがて朝廷もそれにならうようになったという。
本山派と当山派が確立したことによって、密教僧から修験者への転向がかんたんに行われるようになったそーだ。
大寺院で師匠について学んでいた僧侶が、自分が口伝をつげないとわかったときに、山伏としての道を選ぶようになったという。
ふ~ん。
