こないだの選挙で、亡くなった長崎市長の娘さんが、弔い選挙と銘打った旦那さんの落選がよほどショックだったのか、「父が愛した長崎市民の人に、このような仕打ちを受けるとは、これでは父は浮かばれません・・」と、あたかも夫の候補者は長崎市民に冷たくあしらわれたという印象で会見してました。
政治の話は論争になりがちなので、深くするつもりも毛頭ありませんが、でも長崎市民が亡くなった市長の働きを忘れた、というわけじゃないと思うんですけどね。投票用紙に亡くなった市長さんの名前書いた人も多かったみたいですし。
娘さんはフラフラだったし、意識も朦朧としてたんで、普通のときだったらそんなことは言わないんでしょうけど。 体力も気力も弱ってたから、被害妄想になったのかなー?
さてさて自分を振り返って考えると、精神力や霊性が弱ってる(おー、懐かしい言葉だ)ときって、被害妄想チックな考え方が強くなってたような気がするんですよ。今から思えば、「なーんだ、あんな小さなことで文句言ってたのか。お前も器が小せえな・・・」みたいな。
ある意味、つまらんことにイチャモンつける人は、抵抗力とか弱っている証拠かも?元気なときは多少きついこと言われたって「なにくそ!」って踏ん張れますもん。
よく「JWの組織を離れて、もう一度戻っていく人の気が知れない・・・」という意見を聞くことがありますが、多分しばらく離れている間に精神的な元気を取り戻し、自分がつまづいていた理由が実はしょーもないことだったんだな、と気づいたときに戻っていくんじゃないでしょうか。そういう意味では、戻る人の気持ちはよくわかる。
もちろん、限界を超えるくらい痛めつけられて、「二度と戻っていくものか」と決意して離れる人もいるので、それも人それぞれですが。
目にするよくない状況に、過剰反応せずにおおらかに受け入れることができるのも、今の時代に必要な強さなのかな、と思ったりもします。
市職員だった今の市長さんは「辞表」を出して選挙に出たとか。
決意の程からして違うようですね。
「市職員」ゆえに。長崎市に住んでいる市民としては
部外者よりも、同じ土地に住んでいるヒトに対して自然と愛着が湧くものでしょうね。遠くの親戚よりも近くの他人ってところでしょうね。
娘さんがたったらよかったような気がします。
小渕さんがそうですよね。まあ、お嬢さんが(小渕さん)独身だったからそうしたんでしょうけど。結果論に過ぎませんね、今となっては
ほんとは名誉市民しか対象ではないところを、
あえて挙行するくらいですから、前市長に対する愛着あるんでしょうね。
とりあえずの義理と礼儀は果たしてるんじゃないでしょうか<現市長
そいえば小渕さんはオメデタですよね?