
国道407号東松山バイパスと市野川の交わる天神橋の北東に鎮座する元宿の天神さま「菅原神社」に参拝。

道路から低い位置に鳥居があり、社殿は小高い丘の上に建てられています。

以前はもっと樹木に囲まれていた記憶がありますが、だいぶすっきりしています。社殿前には狛犬ならぬ「狛牛」。
菅 原 神 社
創建は、社伝によると応永年中(1394-1428)で、別当観音寺を開山した「忠良」なる者により行われたという。
以来、観音寺は松山城下の元宿にあって、氏子たちや近在の村々の者に諸祈祷を修したといわれる。『風土記稿』によると、観音寺は京都聖護院末の本山派修験で、東照山竹林坊と号していた。慶長十四年(1609)には、横見・比企両郡のうち一派の年行事職を許され、横見郡大串村毘沙門堂や比企郡長谷村不動堂をも兼帯する有力修験であった。また、万治三年(1660)の失火までは、東照大権現改葬の祭、観音寺に御霊棺を安置した縁をもって建立した東照宮の御宮があったと伝えている。(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)

御祭神 菅原道真
御由緒 当社の創立年暦は未詳なれども、別当観音寺の開山忠良が応永年中鎮祭せるものと伝えられる。(忠良は永享三年正月二十六日寂)観音寺は万治三年失火、惜しくも所蔵の古文書悉く鳥有に帰した。
当社の鎮座地は、亀井庄に属し、松山領の本郷で、字を元宿分と言い、松山城下に宿並みをなし、小田原北条家「市の掟」を出した事からも、市の栄えた事がうかがわれる。
松山城は、応永の頃扇ケ谷上杉家の家老上田左衛門の築城になるもので、別当観音寺も亦、其頃創建されたものと思われる。天正十八年落城後、町並は現松山市街地に移ってしまった。
(Resource:「比企郡字神社誌(昭和35年3月30日刊)」神社庁比企郡支部事務所)

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