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葵祭ものがたり_王朝文化の殿堂の祭、町衆文化の祇園祭と双璧

2019年05月02日 | 美の殿堂ものがたり

京都三大祭りの一つ・葵祭(あおいまつり)は、平安装束を身にまとったとても優美な行列で、日本を代表する祭りの一つです。毎年5月15日に行われる行列は路頭の儀(ろとうのぎ)と呼ばれ、新緑が美しい京都の春を一層彩ります。路頭の儀の前にも流鏑馬など、前儀(ぜんぎ)と呼ばれる著名な神事が目白押しです。

  • 町衆のための祇園祭と共に、貴族のための祭りとして日本の歴史と文化を代表する祭
  • 平安時代始めから朝廷の公式行事として定着、王朝文化が色濃く伝わる行列は格別
  • 祭のヒロイン・斎王代(さいおうだい)は、伊勢神宮と賀茂社にだけ皇族から派遣された巫女
  • 公家装束で行われる流鏑馬(やぶさめ)と競馬(くらべうま)は、迫力と同時に雅さも楽しめる


京都三大祭りの中では、祇園祭と時代祭に比べ地味なイメージは否定できませんが、積み重ねた歴史と文化は最高峰です。祇園祭以上に著名な関連神事が多い祭でもあります。神事の意味や魅力を一つ一つ紐解いてみたいと思います。


斎王代

葵祭は、上賀茂神社と下鴨神社の両社で、最も大切な祭りである例祭(れいさい)です。石清水八幡宮・石清水祭と春日大社・春日祭と並んで三勅祭と呼ばれ、天皇が祭に使者を派遣する祭りの中でも最高格です。


朝廷による最高格の祭は、徳川家と不思議な縁もある

上賀茂神社と下鴨神社は京都最古級の神社であり、総称して賀茂社と呼ばれます。平安遷都以前から朝廷の崇拝を受けてきました。祭の起源は飛鳥時代までさかのぼると考えられています。京都の古い豪族・賀茂氏の氏神に五穀豊穣を祈った祭が、平安遷都後に国家行事となって「賀茂祭」と呼ばれます。賀茂祭は現在も葵祭の正式名称です。

平安時代には祭と言えば賀茂祭を指しました。祭の中の祭りであり、現在も行われているように朝廷の使者が両賀茂社にお供えを届ける形式をとっています。室町時代の応仁の乱の後、約200年間は祭りが行われていませんでしたが、元禄時代に5代将軍・綱吉の援助で復活します。復活の際に仕立てた衣装や用具をことごとく摘みたての新鮮な”葵の葉”で飾ったことから、葵祭という通称が使われるようになりました。

葵と言えば徳川家の紋として”三葉”葵が非常に有名です。賀茂社の神紋も同じ葵で、賀茂社は”二葉”です。葵は賀茂氏の紋であるため、徳川家は賀茂氏の流れを汲むという説が根強くあります。徳川家の発祥の地・松平郷が所在する地名も、三河国加茂郡です。綱吉が先祖に恩返しをしたと考えると歴史のロマンは面白いものです。

京都人にとっては、好きではない徳川の象徴を前面に押し出したような祭の名称になりますが、賀茂社の象徴でもあるため文句は言えません。徳川にとっては絶妙の京都での人気挽回策だったでしょう。

葵祭はその後、明治維新直後の混乱期と第二次大戦時にも中断されますが、1953(昭和28)年から復活し、現在に至ります。


下鴨神社の流鏑馬

葵祭は毎年4月末から約3週間の間にすべての神事が行われます。主な神事とその魅力をピックアップします。開催日は毎年日付で固定されています。


流鏑馬/斎王代の禊/競馬、勇壮で雅な前儀が目白押し

5月3日 流鏑馬(やぶさめ)神事 @下鴨神社 13:00~

  • 葵祭の道中を清める神事、飛鳥時代から行われていた
  • 明治維新の混乱期から100年以上行われていなかったが、1973(昭和48)年に復活
  • 会場を囲む浅葱色の幕と公家装束の射手がいかにも京都的で雅
  • 葵祭では行列と並んで最も人気の行事、400mの馬場は見物客で埋め尽くされる


5月4日 斎王代御禊(さいおうだいみそぎ)神事 10:00~

  • 斎王代以下、女人列に参加する47人の女性が身を清める神事
  • 祭のヒロイン斎王代がみそぎを行う様子は、まるで平安時代にタイムスリップしたよう
  • 会場は上賀茂/下鴨神社で毎年交代、2019年は下鴨神社


5月5日 歩射神事(ぶしゃしんじ) @下鴨神社 11:00~

  • 流鏑馬と同じく葵祭の道中を清める神事、地上に立って矢を射る
  • 射手の装束と矢が境内に飛び交う光景がとても優雅
  • 同日午後から行われる上賀茂神社の競馬とのはしご見物がおすすめ


5月5日 賀茂競馬(かもくらべうま) @上賀茂神社 14:00~

  • ”けいば”ではなく”くらべうま”、二頭で勝敗を競う日本で最も著名な競馬神事
  • 赤と黒の舞楽の衣装の騎手・乗尻(のりじり)が馬を操る光景は、王朝文化そのもの
  • 5/1には馬の状態を見て競馬出走の組み合わせを決める競馬足汰式(あしぞろえしき)が行われる


5月12日 御蔭祭(みかげまつり) @八瀬~下鴨神社 「東游」16:00~

  • 下鴨神社の祭神を毎年、八瀬の御蔭神社から下鴨神社に迎える神事
  • ご神体が神幸(街を練り歩く)する行事として、日本最古級の姿を今に伝える
  • ご神体の下鴨神社到着時に奉納される舞楽「東游(あずまあそび)」が見事



上賀茂神社の競馬

前儀が終わると、葵祭にとって最も大切な日・5月15日を迎えます、行列として著名な路頭の儀と、天皇の使者である勅使が両賀茂社にお供えをささげる社頭(しゃとう)の儀が行われます。江戸時代までは路頭の儀に先立って「宮中の儀」が行われていましたが、明治の東京遷都後は天皇が京都御所にいないこともあり、行われていません。

路頭の儀は沿道で自由に見物できますが、社頭の儀は見物できません。遠くから様子をわずかにうかがえる程度です。


行列は今に伝わる中世の王朝美を集約

路頭の儀は、勅使が天皇の使者として御所から両賀茂社にお供えを届ける行列を儀式としたものです。現在ではヒロインとして注目される「斎王代」が祭の主役と思われがちですが、主役はあくまで「勅使」です。明治の復活後2000年まで、路頭の儀は宮内庁により主導されていました。

行列は総勢約500人、長さ約700m~1km、全列の通過に約1時間かかります。京都御所西側の宜秋門を10:30に出発し、丸太町通~河原町通を通って下鴨神社に至り、社頭の儀を行います。行列は14:20に下鴨神社を再出発、北大路通~加茂街道を通って15:30に上賀茂神社に到着し、再び社頭の儀を行ってすべての葵祭の行程が終了します。

華やかな装束の行列を見ると、誰もが平安時代にタイムスリップしたようにワクワクしますが、この装束が平安時代のものに忠実かは、実は誰にもわかりません。元禄時代に200年ぶりに復活させた際に、把握できていた記録や絵巻を元に考証した姿が基本です。その後新たな情報が加わると少しずつ改良しています。

京都は応仁の乱など戦国時代の戦乱で、それ以前の記録や記憶が相当に失われてしまっています。そのため、時代祭の装束や京都御所紫宸殿の意匠にしろ、幕末に把握できていた情報を最大限集めて考証したものです。こうした考証は戦災や火災の多い日本では珍しくありません。

大きな戦災や火災を免れ、記録や記憶が連綿と継続できているのは日本の歴史都市では奈良くらいしかありません。サスティナブルという意味では、奈良は京都より”すごい”のです。

とは言え、葵祭や時代祭の時代装束に異論を唱える人は誰もいません。誰をも魅了していることは間違いありません。


行列の目玉の一つ、藤の花で飾られた牛車

行列は5つの列(グループ)に大別されます。

第1列 警護の列

  • 先頭の乗尻(のりじり)を務めるのは5/5の賀茂競馬の騎手、6騎の馬にまたがる姿は凛々しい
  • 検非違使(けびいし、現在でいう警察)や山城使(やましろのつかい、現在でいう京都府の役人)が続く


第2列 天皇からのお供え物の列

  • 御幣櫃(ごへいびつ、宮中から両賀茂社へのお供え物を入れた箱)は、小さいが注連縄がかけられ神々しい
  • 平安時代に勅使が乗っていた牛車(ぎっしゃ)は、藤の花で飾られ王朝文化を彷彿とさせる


第3列 勅使の列

  • 宮内庁職員が務める勅使は、現在は社頭の儀のみ参加する
  • 代わって行列には近衛使代(このえつかいだい)が参加する、勅使と同じ黒の束帯姿がとても高貴
  • 赤い花で飾られた風流傘が続き、列を華やげる


第4列 勅使のお供の列

  • 社頭の儀で雅楽を奏でる陪従(べいじゅう)は楽器を従える
  • 内蔵使(くらつかい)は、勅使が神前で奏上する御祭文を運ぶ役人


第5列 女人列

  • 十二単をまとった斎王代が輿にのって進む姿は祭のヒロインにふさわしい、行列が一気に華やかになる
  • お供の47人の女人の衣装もとてもあでやか
  • すべての行列の最後は斎王が乗っていた牛車、桜で飾られとても優美



このカラフルな装束が何とも雅で美しい

行列は平安時代の祭礼に参加する貴族の様子がとてもよくわかる構成になっています。中世の祭礼の様子を今に伝える祭としては、奈良の春日若宮おん祭と並んで格別さは双璧です。


斎王代は、現代の京都人の誇り

祭のヒロイン・斎王代は、天皇の娘である内親王(ないしんのう)が、平安時代に巫女として賀茂社に派遣されていた斎王の”代わり”という意味です。斎王は平安時代初期に嵯峨天皇が伊勢神宮に倣って賀茂社にも派遣したのが始まりです。鎌倉時代初めまで続きますが、その後は斎王の派遣そのものが途絶えていました。葵祭の行列には、鎌倉時代から戦前までの700年以上、女人列はなかったのです。

斎王は平安時代の路頭の儀に参加していましたが、現在のように御所から同行するのではなく途中で合流していました。斎王の御所は内裏にはなかったためです。枕草子や源氏物語にも斎王の華やかな行列は描かれており、みやこびとにとても人気があったことがうかがえます。

葵祭が戦後に復活してから3年後の1956(昭和31)年、さらに祭を盛り上げるべく市民の熱意で斎王の行列が復活します。京都人が育んできた1,200年の王朝文化への誇りを象徴する存在になってほしいと願ったのでしょう。

斎王代は、平安時代に倣い、京都出身の未婚女性から選ばれます。ただし十二単の衣装代など数千万円の費用負担が必要なため、事実上京都の有力な資産家の令嬢に限定されます。祖母・母・娘と三代連続や三姉妹すべてが務めた例もあります。

十二単の衣装は重さ30kgあり、それをまとって6時間以上、路頭の儀と社頭の儀に参加します。大変な重労働ですが、斎王代という京都出身の女性としては最高の栄誉が彼女たちを奮い立たせます。行列の際、かすかに微笑しながらまっすぐに正面を見続けている姿は、まさに皇族の選ばれた女性を彷彿とさせます。

【京都新聞公式サイト】 歴代の斎王代

町衆が中心の祇園祭の熱気とは異なり、季節の違いもあって、葵祭の優雅な趣は際立ちます。葵祭は、京都1,200年の王朝文化を今に伝える、かけがえのない文化遺産です。



京都最古の賀茂社の全貌がこの一冊に

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葵祭
【京都市観光協会による行事公式サイト】
【京都新聞による行事情報サイト】


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