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日本史の勉強している

中国や韓国との歴史認識の相違が問題になっているので、「正しい歴史」を勉強しようと思った。

紫式部の出仕について

2009-06-27 15:22:11 | Weblog
 紫式部の未婚時代については前に述べましたが、ここではその後について、
 紫式部が寡居生活の孤独から脱出しょうとして執筆した『源氏物語』は、非凡な構想力と古今内外の深い学識教養に裏付けられた感受性とによって、従来の物語に対する観念を一変する作品となった。『源氏物語』が流布するに従い、その魅力によって一躍作者紫式部の文名は高まり、その才能を買われて、藤原道長の娘、一条天皇中宮彰子のもとに出仕することになる。その時期は、寛弘2(1005)年あるいは翌年の12月29日と言われる。
 中宮彰子が一条天皇のもとに入内したのは長保元(999)年のことであり、中関白家の中宮定子は翌年悲運の中に世を去り、その後はもっぱら彰子が後宮において時めくことになった。道長は娘彰子のために豪華な調度品や多数の書物や美術品をあつらえる一方で、名門の子女や才芸にすぐれた女性を女房として召し集めた。
紫式部もその一人だったが、宮仕えには必ずしも乗気ではなかった。『紫式部日記』寛弘5年12月29日条には、初出仕の頃を回想して現在の心境に立ち返り、「こよなく立ち馴れにけるも、うとましの身のほどや」と思い、宮中の賑わしさを喜ぶ周囲の女房たちの言葉を聞いて、次のような歌を詠んだと記されています。
 「年暮れてわが世ふけ行く風の音に心の中のすさまじきかな」
虚無的なまでに冷え冷えとした紫式部の心情が吐露されている。このような憂愁の思いを抱えて出仕した紫式部には、次のような歌もある。
 「身の憂さは心の中に慕ひ来て今九重ぞ思ひ乱るる」
 『紫式部日記』の成立事情は、必ずしも明確ではないが、主要部分をなす寛弘5年の記事が、後に後一条天皇となった彰子腹の第二皇子敦成親王の誕生の前後を記したものであることを思えば、道長の命によって書かれたという見解も否定しがたい。道長や彰子を賛美する筆づかいもあらわであるが、一方、その筆の端々に、この最高の世界に耽溺していくことのできない弧絶感がにじみでている。例えば、一条天皇の道長の土御門邸行幸が近づいた頃、邸内は美しく飾り立てられ、朝霧の絶え間に見渡される黄菊白菊の花の目を見張らせるような眺めに、紫式部の気持ちも引き立てられていくが、しかしながらそうした式部はいつの間にか孤独で憂愁に満ちた内面の自己と向かい合い、苦しい内省を強いられ、池の面に浮かぶ水鳥を見て、自分も水鳥が水に浮いているように心が安まることなく、この世を過ごしている身だと、思わず歌を口ずさむのである。
 「水鳥を水の上とやよそに見む我もうきたる世を過ぐしつつ」
 次に栄華の崩壊について、出仕しても精神の解放されることがなかった紫式部は、『源氏物語』の創作を継続することによって、もう一つの人生を所有しゅうとした。いつどの巻が執筆されたのかは必ずしも明らかではないが、「澪標」巻以降、帰京した光源氏が権勢への道をひたすら進んで行く物語の展開は、道長の事績に照応するようにも思われる。賜姓源氏がいまや摂関家の風貌をおびて来るので、そのあたりから、紫式部の出仕以降の執筆だとする見解もいわれのないことではないが、式部の筆は光源氏を栄華の絶頂に推し進めつつも、更にそれを突き抜けて、栄華の内側に潜む暗影をえぐり出し、その崩壊にまで立ち向かって行くことになったのである。  おわり