① 仲麻呂望郷の歌(古今和歌集406)
あまの原ふりさけみればかすがなるみかさの山にいでし月かも
遣唐使として派遣され長年を経たのちに詠んだ望郷の歌。
仲麻呂は第12次遣唐使の帰国(753年)の際に藤原清河とともに第一船に乗船したが遭難し安南(ベトナム)に漂着、ちなみに第2船には日本にたどり着いた鑑真が乗船していた。
② 御蓋山(みかさやま)の月
仲麻呂は717年第9次遣唐使の一員として 吉備真備・玄昉などとともに同行、
真備らは733年の第10次遣唐使とともに帰国
③ 仲麻呂の履歴
『日本後紀』803年
16歳で留学生として入唐、その後仕官し、玄宗皇帝のもと、出世を重ね官位を経て安南に漂着後も高官として正三位安南節度使の地位につき、死後、ろ(さんずいに路)州大都督の官位を賜った。
彼の存在は唐でも認められ、王維・李太白などが彼のために歌を贈った。
④ 仲麻呂の死
770年1月死亡(77歳)
770年3月『後日本紀』に「新羅からの遣いに対し仲麻呂らが書簡を託した」旨、記されている
779年5月『後日本紀』に仲麻呂在唐にて死すと記され
家口偏亡 との記述あり この意味することにつき
一、中国にいる仲麻呂の一族が困窮している
二、日本に残っていた阿部一族が困窮している と2面での見方がある
が、若井先生は「中国で功成り名を遂げた人の一家が困窮することは考えられない。数十年も不在にしていた日本で、その一族が困って(没落など)いると考えるのが妥当である」との見解であった。
⑤ 仲麻呂の同期生 井真成
近年発掘された井真成の石棺の碑文には仕官したのちも苦労をしたといった趣旨の文章が刻まれているとのことである。
遣唐使にもいろいろな人生があると説明されました。
午後は班ごとに分かれ校外学習グループ、教室で夏休み・二学期・ふれあい交流祭について話しあうグルーブなど様々な活動をしました。