ONCC摂津教室 平成29年度第5期生 歴史と文学の”人と心”を学ぶ科

摂津市コミュニティセンターで、若井敏明先生、鈴木明子先生、斉藤恵美先生の先生方が交代で講義していただく教室です。

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H30.02.26. 学習成果発表会

2018年02月26日 | 日記

今日は学習成果発表会、最後の授業でした。

1班は小野小町

小町の生涯を年代に沿って

一人一人自分で調べた結果

を学習成果として発表して

いただきました

 

 

 

 

 

2班は鑑真

中国から渡来の苦労話を丁寧に

説明されました。校外学習で

奈良方面を散策した時の

エピソードが面白かったです

 

 

 

 

 

3班は聖武天皇です。

恭仁京跡まで出かけて行って

その規模など実感したようです

研究熱心な態度に感心させられ

ました。

 

 

 

 

4班は「摂津を知ろう」ということで 

教室のある摂津市についての発表

です。ボランティアの方の熱い地

元愛に感激したことを、皆さんに

知っていただきました。

 

 

 

全部の班の発表の後、若井先生から「自らの足で訪ね歩いて得た成果を

纏めて発表する」というテーマに沿った学習成果発表であったとの

講評をいただきました。若井先生、一年間ありがとうございました。

午後からは茶話会を開き一年間の楽しかった思い出などを語り合い

本年度の授業を終了しました。よい仲間に恵まれた充実した一年でした

若井先生、斉藤先生、鈴木先生そしてクラスアドバイザーに感謝です。


H30.02.05. 鴨長明(方丈記) & クラスミーティング(発表会準備)

2018年02月05日 | 日記

本年度教室での最後の講義は斉藤恵美先生の『鴨長明(方丈記)』でした。

原文を読み下しながらの講義・解説が進みました。

鴨長明という人物:京都下鴨神社の禰宜一族、父親没後神官として出世の道閉ざされ

  50歳で出家、大原・日野に遁世、日野にて『方丈記』を書く

『方丈記』について:様々な先蹤作品を踏まえ、それらを自身の文章に融解し、

  流麗な和漢混合文で描かれた散文。

『方丈記』の構成

 ・序文--無常の世における人と栖のはかなさ

 ・世の不思議(五大災害)--若い時の災厄で経験した世の中の人と栖のはかなさ

 ・遁世のきっかけ--自身の境遇と住みにくい世に生きる悩みから遁世生活へ

 ・日野の方丈での閑居の楽しみ

 ・結び--死に近付き、方丈の生活での自分と心の修行を省みる

【序文】ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。(文章が美しい)

【世の不思議】

〇安元の大火:安元3年 1177 都の舞人を宿す仮宿から出火、朱雀門・大極殿・

  民部省など三分の一が燃える

長明の所感人のいとなみ、皆愚かなる中に、さしもあやふき京中の家をつくるとて、宝を費やし

          心を悩ますことは、すぐれてあぢきなくぞ侍る

〇治承の旋風:治承4年 1180 中御門京極あたりから、六条まで吹き抜ける

長明の所感辻風は常に吹くものなれど、かかることやある。ただ事にあらず。

      さるべきもののさとしかなどぞ、疑い侍りし

〇福原遷都:治承4年 1180 長明は「都」は動かないものと考えていた

〇養和の飢饉:養和元年 1181-翌年 春夏の旱、秋冬の洪水⇒不作

      翌年疫病の流行⇒飢饉の蔓延、餓死者多数

〇文治の大地震:文治元年 1185 余震もヶ3か月ほども続いた

長明の所感四大種の中に、水・火・風は常に害をなせど、大に至りては、異なる変をなさず

【遁世のきっかけ】

〇自分の身と栖の変遷と心の悩み:漱石の「草枕」に通じるものがある

〇自身の境遇:父方の祖母の家に入ったが、30歳ころ鴨川のほとりに居宅を構え

    50歳で出家遁世、大原山に籠る

【日野の方丈での閑居の楽しみ】

〇日野での栖:祖母の家の1000分の1の方丈の庵

〇方丈での生活:念仏と数寄

〇長明の行動範囲:心と体が連動している

〇草庵生活の心境:世の中・世の人との比較⇒人の為に造らず

【結び】

〇従来の仏教と末法以降の仏教の狭間:言葉になって出てはこないが、

   口では南無阿弥陀仏となっていく

   

  日野の所在地図     方丈の図     方丈のイラスト

 

斉藤先生の考え(受け取り方が間違っているかもしませんが独善で)

 長明は前時代的、長明が追及した境地と新しい時代の流れの違いがあった

 長明はこの世界から本質を掬い取る超越的天才・西行にあこがれを持ち

  同時代に生きた、法然・栄西・慈円等の台頭するのと対照的であった?


午後からはクラスミーティングがあり、各班とも学習成果発表会準備をしました


H30.01.29. 建礼門院

2018年01月29日 | 日記

本日は若井先生の本年度最後の講義で『建礼門院』について学びました。

 

以下の項目①から⑨を前後しながら説明・講義をしていただきました。

①建礼門院とは:平徳子、平に清盛の三女、高倉天皇中宮、安徳天皇の母

②建春門院・平滋子:徳子のおば、後白河院の寵愛を受け第七皇子(憲仁)出産

③後白河院と二条天皇の対立:滋子の兄平時忠らによる憲仁立太子擁立陰謀発覚

 後白河院の政治介入停止、その後二条天皇死去により後白河院の政治活動再開

 2歳の六条天皇即位の際叔父である憲仁親王が立太子となる(のちの高倉天皇)

 滋子は皇太后、さらには建春門院の院号を宣下される

④平盛子の役割 平家と摂関家

 清盛の4女盛子は9歳で22歳の藤原(近衛)基実に嫁ぐ、義理の子基通が幼少

 7歳である事を理由に11歳であった盛子が実質的に摂関家の家長となり

 「白河殿」と称された

⑤徳子の入内:清盛の娘、徳子が高倉天皇元服ののち、入内さらには中宮に立后

⑥滋子の死去と鹿ケ谷の変:1176(安元7年)平滋子35歳で死去

 翌年後白河と平清盛の対立表面化(後白河の妻滋子が亡くなったことにより

 滋子の姉妹時子の夫であった清盛はしがらみが無くなり対立表面化)

⑦言仁親王の誕生と治承三年の政変:1178徳子皇太子出産、その子は立太子となり

 のちに、安徳天皇となった。1179(治承3年)白河殿盛子が24歳で死去、

 莫大な遺領は後白河院の管理下へ、同年清盛はクーデターを断行後白河法皇を

 鳥羽に幽閉、翌年高倉天皇は3歳の安徳天皇に譲位、高倉天皇は看板だけ、

 実権は平清盛が握ることとなった。

⑧内乱の開始:1180以仁王(もちひとおう)令旨発令、頼朝挙兵、福原遷都中止

 1181高倉上皇と平清盛死去、1183木曽義仲の入京と平家都落ち、1184一の谷

 の戦い 1184屋島・壇ノ浦の戦い 平家は滅亡

⑨建礼門院のその後:女院は出家、更には大原御行により寂光院にて余生を・・

 政略結婚で中宮・天皇の母となり苦労に苦労を重ねて余生を送った

            建礼門院徳子ゆかりの寂光院

 

 ?若井先生の思い入れ?

  平家には男性の生きざまもあるが女性もその奔流に流された。

  しかし、女性の果たした役割は大きかったのではないか。

  個人的には、盛子はあわれと思う。

 若井先生ありがとうございました。学習成果発表会のご指導もお願いいたします


 

午後からは地域交流会が開かれ、各地域に分かれてOBの方々が、同窓会への加入・

ランティア活動への参加などについて説明・勧誘が行われました。


H30.01.22. 紫式部

2018年01月22日 | 日記

鈴木明子先生の今年度最後の授業、テーマは『紫式部』です。

昨年11月27日に受講した『清少納言』と対比しながら講義をされました。

両者の生活ぶりや性格の違いなどがわかり興味がわく講義です。

紫式部

『源氏物語』の作者、973?-1014? 父藤原為時は高名な漢学者。

26歳で藤原宣孝と結婚、娘を生むが3年足らずで夫と死別。その後一条天皇の

后であった彰子に宮仕えして、源氏物語を書く。

(1)女房の世界<11月の講義をさらに詳しく>

   ①女房とは:(房)部屋を与えられ主に仕えた女性。

   ②仕事:日常生活への奉仕・話し相手・教育係・とりつぎ(最重要)

   ③給与:位に応じた公的給与・后や后の実家からの給与・下賜品・

    「得意ども」(パトロン)からの金品

   ④女房に対する世間の目:宮廷内に暮らし、奈良時代に比べると女房や女官

     として出仕することが恥であるという認識が生まれた

(2)紫式部 -生い立ちから宮仕えまで―

   ①生い立ち

   ・母と姉の死 父方に引き取られた(通常は母の実家が引き取った)

   ・親しくしていた「姉君」の死(亡くなった姉の代わりに思っていた)

   ・父は当代有数の漢学者であったが世渡り下手で浮世離れしていた

   ・幼いころから学者であった父親も認めるほど才能があった

   ②結婚

   ・父親と同じ年代の藤原宣孝と26歳ころ結婚、3年後に死別

   ・やがて気心の合う友人らと物語を書いて交換し、手紙で批評し合う 

   ③宮仕え

   ・33歳ころ出仕するも宮中になじめず、すぐに実家へ退出

   ・本心を明かさず「おっとり作戦」で反感を持たれないよう出仕再開

   ・やがて嫌がっていた宮中での勤めが嫌でなくなっていった

   ・親友-同僚小少将の君-と互いの境遇や心のうちまで語り合う仲に

   ・女房としての自信がつくにつれ同僚批判もするようになっていった

 

紫式部

 

(4)紫式部の才能

   ①漢学の才

   ・紫式部は博学で漢籍の知識豊富、当時の「物語」はマンガ的存在

   ・女性が学問することに対する風当り、同僚のひがみあり

   ・中宮彰子への漢籍進講--人目を避けて楽府(政治思想の漢詩)進講

   ②才女批判

    和泉式部に対し「口に任せて歌を詠むが和歌には精通していない」

    清少納言に対し「利口ぶって漢字を書き、いつも風流ぶっている」

(3)身分を超える心

   ①この身と心---夫の死により自分の心と深く向き合う日を送った

   ②中宮を見る目(出産後の中宮の様子)---同じ女性として中宮を見る

   ③若宮誕生と天皇行幸---高貴な人に混じっての宮仕えも、共通する心を

     持ちながら、絶対的に超えられない身分や男女の隔てに絶望

(5)物語と真実

   日本紀などの記す歴史は世間の一部に過ぎない「物語」にこそ真実がある

  ・源氏物語編纂作業---藤原道長は最高の条件で編纂作業を援助、学識の

   高い一条天皇をも熱心な読者として獲得

  ・「あなかしこ このわたりに わかむらさきやさぶらふ」

   当代一の能力と教養があった藤原公任すら源氏物語を読んでくれた

 


 

『紫式部日記』を中心に講義を進められました。エピソードやパワーポイント

による説明がわかりやすいものでした。

*先生からのアドバイス*

 せっかく平安時代の講座を受講したのですからこれからも続けてください。

 『源氏物語』を読んでいない人はまず『落窪物語』から読むといいでしょう

 平安時代のシンデレラ物語です。 

 『源氏物語』を読み終えた人には当時の貴族が詠んだ『宇津保物語』が

 おすすめです。

 鈴木先生、一年間ありがとうございました。


H30.01.15. 白河法皇 & 懇親会

2018年01月15日 | 日記

新年に入って初めての授業でした。今日はコンベンションホールの部屋で

の講義でしたが、若井先生の声が反響し少し聞きにくかったです。

先生も気を使われて休憩の時間に皆に声が聞き取れるか確認してくださいました。

白河法皇                  

①後三条天皇の即位

 後三条天皇と藤原氏:藤原氏の摂関政治の終息

 延久の荘園整理令:実態のある荘園整理の開始

 後三条天皇の上位・白河天皇の即位

  後三条天皇は4年で退位:退位の理由について

  体調不良・院政をしたいなど諸説あり 

②白河天皇の思惑:白河天皇は「中継ぎ」とされた

 自分の子供(堀河天皇)を後継者にし上皇として

 政務を執り甥にあたる実仁・輔仁両親王を排除

③白河院制

 摂政藤原師実との協調、堀河の成人と藤原師通

 子の堀河天皇死去、孫の鳥羽天皇即位により院政本格化

 後三条天皇の政策継承:中御門宗忠『中右記』に記載

 院政イメージ:北畠親房『神皇正統記』中御門宗忠『中右記』、『源平盛衰記』

  1、在位14年、退位後43年にわたり幼主3代 天下の政を執ること57年

  2、天下三不如意 :上皇のままならないもの

   (山法師・鴨川の水・双六の賽)<比叡山、自然界の猛威、サイコロの目>

  3、寺院権門間の争い(延暦寺 対 園城寺)など

 院政の性格:古代専制主義、恣意的な性格否定できず

④白河院政の「遺産」

 受領(ズリョウ)の功・・院のお気に入りが国司になる

 恣意的人事・・鳥羽天皇21歳を退位させ、崇徳天皇5歳を即位させた

 崇徳天皇出自の疑問・・崇徳天皇は鳥羽天皇と待賢門院璋子の子ではなく

            白河上皇と璋子の子ではないか?

⑤鳥羽上皇の政治と宮廷の抗争

 白河上皇死去のあと鳥羽院制の始まり、崇徳天皇の譲位と近衛天皇の即位

 結論 *白河天皇は院政という新しい政治体制を作り出した。

    *院政は親子祖父子ならよいが、叔父ではダメ

    *治天の君(上皇)が治め、天皇は治天のもとで「政」(マツリゴト)をした

    *中継ぎは嫌だという白河の個人的利害に始まった政治体制が成立した


 午後からは場所を茨木の『天狗』に移して、若井先生にもご出席していただき、

 和気あいあい、懇親会を開催しました。

 

 

 


H29.12.18.(午後)ルーム講座 皇位継承・三種の神器

2017年12月18日 | 日記

 歌人・歴史家の林和清先生のルーム講座でした。今こそ知りたい天皇家の歴史と

いうことで、タイミングの良い企画でした。

先生の歯切れのよいマイクなしの講義はその内容をも含め充実した午後となりました。

皇室典範は二つある。

旧:大日本帝国憲法と同時に制定され、憲法とともに我が国最高の成文法である

新:第二次世界大戦後、旧皇室典範は廃止され、日本国憲法と同時に施行された

 新「皇室典範」がある。名称は残されたが単に普通の法律と同じになり、国家

 の統制が及ぶこととなった。

三種の神器

 天孫降臨時に天照大神から授けられたとされる鏡・剣・玉を指し、日本の歴代

 天皇が継承してきた。  *八咫鏡 *八尺瓊勾玉 *天叢雲剣

皇位継承問題

 1、戦後の伏見宮系の皇籍離脱により、皇族の数が減少。

 2、大正天皇の側室廃止以来、皇室は一夫一妻制を採っていること

 3、秋篠宮親王以来悠仁親王誕生までの間に誕生した皇族9人がすべて女性

 4、悠仁親王以降皇室に男子が生まれておらず、当分誕生の見込みがない

 皇位継承資格者の不足解消策

 ①男系のみならず女系にも皇位継承資格を認める

 ②皇籍離脱した男子を皇籍復帰させ、男系継承を維持する

「皇室典範に関する有識者会議」

 女系容認論の主張・・・絶対的に皇族の人数が不足する

 男系容認論の主張・・・民間の血が入りすぎる、皇室の権威が問題となる


 

いずれにしても平成30年4月30日に今上天皇が生前退位され、皇位継承は国事行為

として粛々と進められるころになるが、今後も皇位継承問題は続くことになる

 


H29.12.18. (午前)藤原道長 

2017年12月18日 | 日記

 

阪急電車の人身事故の影響で30分くらい開始が遅れ

ました。午前中は鈴木明子先生の「藤原道長」です。

遅れのせいか息せき切って講義を始めた先生の初々

しい表情をみました。

 『藤原道長』

 平安中期の政治家。摂関政治の全盛期を築き、貴族の頂点に君臨栄華を誇った

三人の娘が中宮(皇后)となり娘に生まれた三人の皇子がそれぞれ天皇となった

(1)貴族の世界

①貴族とは:日本の貴族は中国から学んだ律令制から逸脱し、聖武天皇の墾田永年

 私財法、有力貴族・寺社への税金免除など原則を逸脱した不思議で矛盾した存在

 中央政府は全く機能しなかった。

②平安貴族の範囲:30階級中の三位までを上級貴族、四・五位を中級貴族それ以下

 を下級貴族とした。官僚となる以外職はなく、出世が唯一の道。

③儀式万能の時代:万事が儀式として扱われ儀式に明け暮れた時代。 

④摂関政治と当時の婚姻(婿取婚)

 1、摂関政治:藤原氏が摂関を独占、天皇の政治の代行補佐を行い実権を握る。

 2、婿取婚:庶民層を含め妻方に居住、夫の両親と同居することは全くない。

(2)道長の生涯

①道長の生い立ち:藤原兼家の5男、勝気な男の子であった

②摂関政治と権力争い・・道長の父藤原兼家の場合

  左大臣源高明失脚、藤原氏の独占的地位確立、藤原家内部での権力争い熾烈

 1、兼道 対 兼家 (兄弟対決)

 

 2.花山天皇の退位:藤原兼家の計略により花山天皇は出家

 3.父兼家の摂政就任と道長の異例の出世

②父と兄たちの相次ぐ死:父兼家の死後も、疫病などで兄弟が相次ぎ亡くなった

  *姉(詮子)に愛された道長 : 『大鏡』に記載されている

③中関白家の没落:道長の兄、道隆一族と反目抗争を続け、道隆の長男伊周が

  花山法王に弓を射掛けるに及んで地方へ配流、以後没落に至った。

④彰子の入内(じゅだい)と出産

 1.一条天皇と中宮定子の愛:伊周配流後も一条天皇は伊周の妹である定子を

   寵愛、没落した家系のものを受け入れた天皇を世間は非難した

 2.史上最年少の入内:一方一条天皇は道長の娘彰子を入内させ、定子・彰子

   のそれぞれが懐妊、天皇は一帝二后とした(前代未聞)

 3.懐妊と出産

  *孫がかわいくてならない道長:彰子の子敦成親王(後一条天皇)を溺愛

  *酔い泣きする道長(土御門邸行幸):『紫式部日記』

   参考:紫式部は彰子に仕えていた

⑤この世はわが世:その後は道長一族が繁栄、太皇太后・皇太后・中宮の三宮が

   すべて道長の娘(一家三后)

⑥道長の悲しみと死:自身の病気と一家の病死などが続き道長は衰弱

(3)浄土信仰(阿弥陀仏の国土である西方極楽浄土へ往生することを願う)

 

極楽浄土信仰

 

①病弱な道長--病気と浄土への願い:病気と闘いながら浄土信仰を強めた

②平安貴族と浄土信仰:平安中期に極楽浄土信仰は急速に広まった『往生要集』

  道長は法成寺を建立し、浄土教の作法に従い臨終を迎えた、享年62歳

 


H29.12.11. 花山天皇

2017年12月11日 | 日記

午前の講義は鈴木明子先生の花山天皇でした。

なじみの少ない天皇でしたが即位前後の

状況等を聞いて思わず引き込まれてました。

この講座のクラス名「歴史と文学の”人と心”

を学ぶ科」らしく『大鏡』『栄花物語』など

書物から引用をたくさんしていただいたので

わかりやすかったです。

 

花山天皇 (968-1008)第65代の天皇、在位期間984-986の1年10か月

(1)父冷泉天皇 (第63代)

①「狂気」の天皇;18歳での即位前後の時期から精神的疾患を発病か?

②出生と怨霊;出生時にライバルの中納言藤原元方(民部卿)側にも子供誕生

   元方は憤死し怨霊(もののけ)となって現れた

(2)花山天皇の生い立ち

①誕生の喜び;生後10か月で立太子、冷泉天皇退位、64代円融天皇即位

②相次ぎ肉親の死;幼年期の祖父、叔父、生母が相次ぎ死去

         後見を次々に失い、政治的に孤立無援

(3)即位---17歳で即位

①「内劣りの外めでた」;藤原義懐・藤原惟茂が治世を補佐

 1、内劣り;常識にとらわれない奔放なふるまいが多い。執着する傾向

 2、外めでた;荘園整理令・物価統制法・倹約令・殺生禁断令(仏教の影響)

②突然の出家;花山寺に出かけ、そのまま出家

③出家の要因--政治情勢;藤原兼家の策略、摂政として政権掌握の道が開ける

④出家の要因--愛妃忯子の死;忯子の死は花山天皇・藤原義懐の政治的敗北

⑤出家の様子;天皇不在に宮中は大騒ぎ、藤原義懐・藤原惟茂がともに出家

(4)退位後

①仏道修行;書写山円教寺へ御幸、帰京後すぐに比叡山で戒を受け熊野修行へ

②帰京後;正暦3年(992)--女性関係 乳母とその娘を相次いで妊娠させた

③乱暴さ;ミカンで作った数珠をもつなど奇抜な恰好をした

④多方面の才能;歌に優れ、屋根の檜皮葺を続けて葺くことを考えた

        出家後庶民の家などを廻っていたこともあった

⑤孝行息子;父親の冷泉院に歌を奉り、冷泉院からは返歌があった

    パワーポイントを使ってたくさんの資料を見せてくれました

H29.12.11. 花山天皇

 後日談:花山院は出家後三十三観音霊場を巡礼して大きな法力を身につけた

     花山法皇の 観音巡礼が西国三十三所巡礼として現在まで続く

     各霊場で詠んだ歌が御詠歌とされた。

 


H29.12.04. 藤原清衡 & 地域交流会 

2017年12月04日 | 日記

午前中は若井敏明先生の『藤原清衡』の講義でした。

内容は藤原三代(清衡・基衡・秀衡)についてです。

①平安時代後期の東北地方

②前九年の役

③後三年の役

④奥州藤原氏とその仏教文化

⑤中尊寺供養願文

⑥奥州藤原氏の実力

 について、パワーポイントの写真や地図、系図などで説明してくださいました。

①平安時代後期の東北地方

 現地豪族(俘因の長)の実効支配・奥州安倍 対 出羽の清原・国司との関係

②前九年の役 事実上は清原と安倍の戦い、

 源氏と清原氏は同盟清原軍が実権を握っていた

 陸奥守源頼義はあまり活躍せず失意のうちに朝廷へ戻る

 厨川橋の陥落により清原氏が台頭してきた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ③後三年の役

 実態は清原家の内紛、陸奥守源義家は清衡側についた。

 義家は内紛(プライベートに介入した)とみなされ朝廷から召喚された

 最終的に得をしたのが清衡であり、藤原氏を名乗ることとなった。

④奥州藤原氏と仏教文化

『吾妻鏡』清衡已下三代造立の堂舎の事、源忠已講・心蓮大法師等これを注し献る

『寺塔已下注文』

  一、関山中尊寺の事;寺塔四十余宇、禅坊三百余なり。清衡在世三十三年の間

     我が朝廷歴・園城・東大・興福等の寺より、震旦(中国)天台山に至る

     まで、毎寺千僧を供養す。

  一、毛越寺の事;堂塔四十余宇、禅坊五百余宇なり、基衡これを建立す。

   藤原氏は平和を金で買っていたが、源頼朝には通じなかった

⑤中尊寺供養願文

  鐘の音が聞こえるところはみな平等、これからは争いを二度としてはいけない

  (実は都から攻めてこられないようにするというのが本音)

  中尊寺は朝廷のために建立した寺であることを強調した。

 

平泉中尊寺  拝観のしおりより

 

⑥奥州藤原氏の実力

 『十訓抄』(二代目基衡の話)基衡は、果敢剛腹な人物として描かれている

 『吾妻鏡』 奥州平泉の藤原氏に匿われている源義経をめぐる京・平泉・鎌倉間の

           駆け引きと、奥州合戦が焦点となる。

          秀衡亡き後、奥州藤原氏の家督を継いだ泰衡は、文治5年(1189)閏4月

           鎌倉からの圧力に耐えかね、とうとう義経を自害に追い込む。

          それでも頼朝泰衡を許さず、泰衡追討の宣旨を待たずに自ら大軍を率いて

           奥州に向かい進発する


  午後からは、地域交流会として各地域のOB会の紹介、さらに教務部準備のDVD

『悲運の后と清少納言』を鑑賞しました。清少納言は二週間前の講義テーマであり

おさらいと補完になりました。


H29.11.27. 清少納言『枕草子』 & DVD鑑賞

2017年11月27日 | 日記

 今日は半年ぶりに鈴木明子先生の講義でした。 

 パワーポイントを駆使して、{清少納言}を取り巻く人物像や、当時の風俗

(衣装)などの模様を画像・原文・その意味などを説明してくださり、

 ちょっとした豆知識も交えた、たいへんわかりやすい講義内容でした。

 『枕草子』の内容が現在でも十分に通じるものであることも説明され興味を

 持たせていただきました。

 清少納言

 『枕草子』の作者。生没年(966?-1025?)不明。実名不明。16歳ころ結婚、

 息子を生み、25.6歳で離婚。27歳ころ一条天皇の中宮定子のもとに宮仕えし、

 枕草子を書く。34歳ころ定子死亡に伴い宮仕えをやめた。再婚後、夫の赴任地に同行

 娘を生む。60歳ころ死亡か?

1)生い立ち

 ①歌人の家;曾祖父(清原深養父)・父(清原元輔)は著名な歌人

 ②父の人柄;83歳の長寿。『今昔物語』にひょうきんな一面が記されている。

 ③夫の人柄;世間の評判⇒武勇あり・見目好し、清少納言⇒和歌を嫌う武骨な男

(2)離婚と宮仕え(中宮定子の女房となる)

 ①清少納言の仕事観;生ひさきなく、まめやかに 

    一度は仕事をしてから結婚したほうが良い

 ②中宮定子;平安中期に政権を握り、関白となった藤原道隆を父に持つ。

    才色兼備の優れた女性。清少納言は敬愛の念を持って仕えていた。

 ③定子後宮の雰囲気;母親、本人とも漢文の才能を高く評価され、機知にとみ、

    華やかな雰囲気に包まれていた。   

 ④初出仕のころ;緊張しており、同室の女房から積極的になるよう指導された。

 ⑤才能を発揮;故事や漢詩などの内容をよく理解し、機知にとんだ対応をした。

 ⑥陽気な性格・・◎一番に思われたい 二番でダメ、一番になりたいという。

  ◎身分の高い人を称賛し、身分の低い人をさげすむ

(3)中関白家の没落;宮仕えから2、3年後に中関白家であった定子の実家が没落

   ・藤原道隆 病没 ・定子の兄弟 流刑 ・定子は妊娠中に出家

   ・母貴子 心痛のため病没 ・中宮御所 全焼(放火か?)

 ①里に引きこもる;清少納言は同僚からのけ者にされ耐えられなくなった

 ②枕草子の執筆;引き籠っていた時機に中宮から紙を贈られ「草子」などを

    作りふさいでいた心をまぎらわした。

 ③悲運のなかでも「をかし」;内裏への通勤路で、従者の声を聴きわけ誰の行列

    かを当てたりした。

 ④定子崩御の少し前;定子を見限って去っていく乳母がおり『枕草子』の中で

    はじめて『あわれ』という言葉を使った、

  清少納言は定子の死の時まで仕え続け、定子の死後、他所へ宮仕えしなかった

   鈴木先生の豆知識 本文中の下線部分の内容について

    *后妃の序列 (1)皇后 

             中宮(もとは太皇太后・皇太后・皇后の別称、中宮定子の

                時から皇后と等しい独立の地位に)

           (2)女御(にょうご)

           (3)更衣(こうい)

    *女房とは;・房(部屋)を与えられ主に使える女性

      ・日常生活への奉仕(入浴・整髪・着衣・食事の給仕など)

      むしろ・話し相手・教育係・特に取り次ぎ などが重要な仕事であった 

    *清少納言を分解すると 清・少納言 となり、清原家の少納言ということ

     ちなみに 紫式部は 紫・式部 ということになる。 本当は 藤・式部

     (藤原家出身)であるはずだが、『源氏物語』紫の上 が有名であり、紫式部

     と称されるようになったようだ。 ちなみに式部の方が少納言より官位は上位

  『枕草子』の特徴

   枕草子は定子に対する明るい賛美が基調(をかし・めでたし)

   宮仕え期の大半を占める悲運の時代についてはほとんど語らない。

   枕草子の明るさと現実との乖離をどう解釈するかが古くから議論の焦点

   となってきた。

 


 

 午後はCAが奈良県から借りてきた DVD鑑賞をしました。

 天智天皇と持統天皇・奈良まほろまん(行基など)約一時間、講義で学んだ人物

 中心であり、復習の意味も含めて有意義な内容でした。