常さんの徒然写真日記

旅や趣味を写真を主に紹介、でも何となく鉄道旅行が主なテーマになりそう。

気田森林鉄道、水窪森林鉄道

2011年07月23日 | 鉄道

  
これから訪れる気田(けた)森林鉄道は中遠地方春野町気田地区を起点にしていた。この気田地区には日本初といわれる木材パルプ工場が明治期にできた。製品の洋紙は気田川より水路を引き帆かけ舟により出荷された。自前の水力発電設備によりモーターを回し材木を粉砕しパルプを作った。当時の時代背景を考えると気田にとっては大変な産業だったであろう。しかしやがてパルプ材としての原木材が枯渇し工場は大正期には早くも閉鎖となった。当時の事務所とも倉庫ともいわれる煉瓦建築物は現在は県指定有形文化材建築として気田小学校の片隅に保存されている。

気田森林鉄道

気田森林鉄道は昭和8年着工、当初発電所建設の資材運搬用として電力会社により設立され後に御料林伐採の材木搬出の目的で営林署による森林鉄道となり最盛期には篠原貯木場を起点として33kmの距離を有し昭和34年に廃止された。


篠原貯木場に集められた材木はトラックにより搬出された。路線跡ははほ県道389号線として整備されている。写真はいずれも篠原貯木場の昔と現在の様子である。


途中小石間隧道は軽便路線として1、2を争う長さ(661m)を有した。現在は拡幅され県道となっているがそれでも一車線のためトンネル真ん中に交換退避所を有する構造である。分水嶺が真ん中にあり山なりのため進入当初お互い対向車は見えない。途中で双方あわてて気が付き待避所で交換という行動が必要となる。その心構えがないとこのトンネルは使えない。

篠原貯木場近くの路線跡
  
JR方式では起点を出る列車は下り、起点に向かう列車は上りとなる。従ってこの定義に従えば山に登っていく列車は下り、麓に降りる列車は上りとなる。しかしこの林鉄では山に登る列車を上り、逆を下りと素直に称していたという。閉塞の管理は双方の列車同士無線電話で確認して運行、タブレットの使用はなかった。最大でも三列車のためこれで問題はなかった。列車交換所は随所にありこの方法で随時好きな所で交換したのだろう。終点ではループにより機関車の方向転換をしてた。さすがに加藤や酒井の産業用2軸機関車は回転半径が小さい。当初より蒸気機関車は採用されなったが、主な理由が最小曲線半径の制約のためという。当初はガソリン機関を使用、戦中戦後ガソリン不足の時は木炭ガスが使用されたというがいくら空車の引き上げとはいえ満足に牽引できたのだろうか。後いずれもディーゼル機関に置き換えられた。

一般に林鉄は牽引力でなく重い木材を麓まで下げる安全な制動力がより重要であったが、当初は制動手が運材車の材木の上を飛び回りながら各車のブレーキの緩急をして速度を調整していた。その後貫通エアーブレーキが整備され機関車でのブレーキ操作だけで全車の制動が可能となり危険な作業から解放された。元運転手だった方が制作された模型には機関車のキャブの上に大きなエアータンクが忠実に表現されている。林鉄では木製の鉄(道)橋が採用されたが多くはよほどの鉄橋でない限り現場の伐採作業者による手作りという。
 
途中の村のいい感じの廃校小学校、実際は朽ちているため例えば展示館にするのも簡単ではないらしい。昔この地区の生活の足は気田林鉄だった。運賃は便乗扱いのため無料とのこと。実際にある映画で子供たちが林鉄に乗り途中乗継浜松まで一日がかりで出ていく様子が描かれた。県道となった路線跡のガードレールは文字通り林鉄レールがリサイクル利用されている。レールは一般に質のよい鋼が使用されるためただの鉄より遥かに持ちはよい。実際に写真のガードにあったと推定される横棒は普通の丸鉄棒と思われるがそちらは朽ちて無くなっている。

水窪森林鉄道

水窪より戸中山御料林まで21.3km昭和15年着工、28年完成昭和42年撤去。比較的新しいためか地元の人も御料林の軌道線として記憶している。当時沿線には林業を主とするも数か所あり主目的の材木以外便乗扱いによる生活列車としても利用された。
   
水窪町に入る前の路線跡。この鉄橋は当初木製で崩壊転落事故を受け鉄製に変えられた。
飯田線の下をくぐり鉄道線と繋がれることはなかった。貯木場からはトラックで搬出された。
 水窪町内に入り終着の水窪貯木場近く。






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