がん闘病記(子宮頸がん)

子宮頸がんで子宮もリンパも摘出。
日々の気持ちを綴ってみます。

病院の嘘つき

2007年05月29日 | 闘病記
「胸骨内部の組織がかどうか分からない、下に大動脈が走ってて
組織もとるのは危険でむり。」婦人科の担当の先生にはそう言われた。
でも、他の病院ならできるところもあるかもということで
セカンドオピニオンの資料作成をお願いした。
電話にもかかわらず先生は対応してくれてホッとした
前の先生はそれさえなかなか対応してくれなかったから・・・
他の病院に行く前に一応病院内の呼吸器科を予約してくれた。

呼吸器科に受診
母も付き添ってくれたけど、母と女性医師がバトルしちゃった。
先生は「癌は原発の箇所でずっと担当も治療もするからうちは関係ない!」と
言い張り最初からヒステリックで責任逃れな態度。
つまり最初の原因が子宮頸がんならどこに転移しようが婦人科が担当のままって事
母もかなりヒートアップ
「婦人科の先生が子宮系では病院に2,3人しかいなくてどうしようもないと
分かってないからここに来たんです!」
結局、今の疑わしい組織の大きさではとるの大動脈破裂の危険高くてできないって。やはり様子をみるしかないらしい。

ひとつ情報GETできて良かった。
手術で摘出した子宮の組織は残っていたのだ!
前の担当医は何度聞いても「組織はありません!」の一点張り。
でも、「プレパラートで永久的に保存している」と言われた。
なぜ前の担当医はそんな嘘をついたのだ!
まあ雰囲気からして隠蔽というよりは意地悪やややこしい!という感情だったのだろうけど
ほんとに病院は信用できない。感情で動いていいのか。
こっちはそれによって人生も気持ちも家族も全部左右されるのだ!!

家族全員が病院のやり方や診断にも不信を抱いてきた。
最初は上皮癌だったのに術後に神経内分泌系腫瘍と診断変更になったが
本当に正しいのか調べたいと思っていた。

ただ組織は臨床医が染色体検査とかもして客観的なデータだからほぼ間違いないらしい。それでも0.1%の望みでも他で調べる事にした。
上皮癌なら子宮摘出した後の生存率は90%。
神経内分泌系腫瘍は世界でもほとんどが2,3年で死んでいるのだ。
生き方も変わってくる。普通は5年経って何もなければ病院とも離れられる。
でも今のままだと一生CTを取り続けて病院にも通わないといけない。
先生もこの癌は再発すると爆発的に広がるから仕事も控えたほうがいいという。
それもいつぐらいまでか聞いても、やはりまず2,3年は厳しいだろうって。
それ以後も多分この不安な状態は一生続くだろうという事だった。

私も今年でもう三十路なのだ。
年は関係ないといっても世間は厳しい。
それにリンパ浮腫予防のためには仕事も制限される。
癌を恐れず思いっきり生きたい!!そう思っても
家族の事を思うと難しい。なって大変なのは家族なのだ。
仕事をせずに違う事で生きがいを得る道もあるけど
自分が思い描いてきた生活とは何もかも違ってしまって
未だに分からない。

でも、旦那さんや両親の愛情に包まれてありがたい環境なのだ。
この愛情を無駄にしないように生きれたらな

闘病モードか~

2007年05月28日 | 闘病記
元気になってきて張り切ってたけど
24日の告知で再び闘病モードになってしまった。
とはいえ、結果が中途半端だ。

「限りなく転移に近いけどほんとに癌か分からない。
2,3年かもしれない」
これでは生殺しって感じでどうやって生きていけばいいか分からない。

私も旦那さんも現代医学はもう信じられないし
とりあえずできる事をしようかってことに。
1:暴飲暴食をやめる
2:適度な運動
3:冷たいもの控える
4:玄米食、日本古来からの食事にする
5:乳製品はなるべくひかえる
などなど当たり前の事だけど見直す事に。

それで木曜から毎晩30分二人でウォーキングも始めた。
私がカツラで暑すぎだから夜カツラとって歩く事した。
住宅街だから今日はこの辺と家を覗きながら怪しく徘徊
覗き見趣味の私はウキウキ旦那さんにたしなめられつつ。
旦那さんのビールを買って帰って来る感じ

それから両親は友人達から色々アドバイスをもらって
もっと積極的にセカンドオピニオンや治療法も探すべきだと思ったみたい。
温泉療法で治った人もいるから1,2ヶ月温泉地で暮らすのも薦めれた。

とりあえずドクターに紹介所依頼の電話した。
(胸骨内の組織検査できる所探したいから)
そしたら今の今のセンターでも呼吸器内科につなげるから受診してみてとのこと。
それなら始めから動いてくれよ!!とこけそうになった
という事で明日は受診だ。




告知の疲れ

2007年05月26日 | 闘病記
木曜日、PETCTを踏まえた結果を聞きに受診。
私と旦那さん、両親、妹まで後で参加。

中途半端な告知で家族も私も疲れきった

結果は胸骨背側に軟部組織が増えてるのと腫瘍マーカーの神経内分泌系腫瘍NSEが基準値の倍になってて、限りなく再発、転移の可能性大という事だった。

実際に組織を取らないと断定できないけど、
胸骨の下には大動脈が走ってるから針で組織を取るのも危険でできないって。
それじゃあどうしたらいいのか。
「来月の腫瘍マーカーと3ヵ月後にCT撮って様子見るしか方法はなくて・・・」
と先生もしどろもどろ。

家族が今の間にも他の方法で調べて治療できないか聞いても
「おそらく何をやっても効かないし、手術も転移が早いので無駄でしょう。
難しいと思うけど他の抗がん剤ためしてみるとか。」

家族がどんどん沈んでいくので、私が明るーく
「でも、健康な人でも癌って小さくできたり消えたりしてるし
免疫上げて生き続けるくらい抑える事はできますよね?」と聞くと
「それは無理でしょうね。極めて悪質ななので子宮頸がんからでもどの文献調べても2,3年以内で亡くなってますし。」だって。
ついにお母さんが切れて「前の先生もそうだけどストレスが一番いけないって
いいながら医者が脅してどうするんですか!!言い方を考えてください!」と
さけんだ。
そしたら先生は「この人はすごく明るい方ですよ。うつ病になる方が多いんですけどね。」
と呑気にいうので母は余計に怒っちゃった
正直私もわーーーっと叫びそうだった。

とにかく明るく!と気を張ってみた。
でもさすがにその中途半端な告知で次の日から何ともいえない疲れや
だるさ、無気力に襲われた
人間ってイメージした方向に物事は流れてしまうっていうし
私も怒ったりマイナス思考になると癌がにょきにょき増えそうだし
何とかプラスにいきたいなのに体の底から重くて疲れてる。
助けてくれ~
でも人に助けを求めてもどうしようもないのだ。
自分自身が生きる気力を持って頑張らないと容赦なく癌細胞が襲ってくるのだ。

今はどうしてもチカラが入らない。くやしい。

検査デー PETCTの巻

2007年05月23日 | 闘病記
今日は検査の日。
5月2日のCTの結果、胸骨内部のリンパの影が大きくなってきているみたい。
先生には、「再度厳しい事いうけれど、あなたのは遅かれ早かれ転移は免れません。それに今までの例では再発したら打つ手がないんです。」
手術や最新の粒子線治療は?って聞くと
「転移が早いから手術は無駄かな。今回の抗がん剤も効いてなかったけれど、
全身に効かすなら違う抗がん剤を試すしかないかも・・・
とにかく一生付き合っていくしかないですね。」だって。
17日の受診で私も旦那さんも母もまたまたズドーンと突き落とされた
先生は私に最悪なことを納得させたくて一生懸命だけど
私は何だかしら~っとしてしまった。
せっかく先生代わって喜んでたけど
ちょっと見込みが無くなるとすぐに脅してくるのが医者というものだなーと
つくづく嫌になった。
免疫学の安保先生の本にも書いてるけど
現代医療でどうしようもないと思うと医師はプライドや恐怖から
すぐに脅しにかかるって。悪影響な抗がん剤を勧める常套手段みたい。

4月から兵庫県がんセンターに名も改め、やっとがんセンターとして認められた。
確かに対応も前より良くなったり、緩和ケアに力を入れるためか
医療連携室も入り口付近に設置されるようになった。
今までは告知された後のフォローもほとんどなかったけど
小部屋に通され看護師の「大丈夫ですか」なんてフォローも入るようになった。

旦那さんの顔がみるみるこわばってて
私の方が「大丈夫ですよー」と強がってしまうくらい。
最初に告知された夏のぴりぴりムードがよぎった。
旦那さんの心労を思うと本当につらい。ごめんね

それで今日はもっと詳しく見るためPETCTを撮った。癌細胞は糖を食べるので、最初に特殊な糖を注射し体中にめぐらせて撮影。
色が濃くなるところがあれば糖を食べるがん細胞発見って事。

それが2時間コースで結構しんどい。
最初打つのに10分、安静にして寝てるの50分
撮影30分、その後30分休んで終わり。

とりあえず何もないと信じるし、あっても消すぞ!という気でがんばろう








姑さんとついに対面。。。

2007年05月21日 | 闘病記
日曜日、ついに姑さんと会った。
京都から神戸の自宅近くまで来てくれた。

ドキドキしたけど
とりあえずランチを食べながらお話。
姑さんに子宮頸がんになった事は旦那さんが一週間前に話してくれてたけど
なんて言われるんだろうと不安だった。
なんせ半年以上だまってたから

でも私の病気の事はほとんど触れず
姑さんが自分のやってるダンスやら病気の事を
弾丸トークでしゃべり続けてた。
気を使ってあえてそうしてくれてたのかな。
最後にもっと早く言ってほしかったとは言われたけど。

姑さんがしてる宗教の本ももらった。
旦那さんも色々のめりこむ性格だけどこれは母親ゆずりみたい。
医学博士から宗教家に転身した人が書いてる「心と体と運命」ってやつ。
でもそうかって事が書いてて素直に読んでみようかな~と
夜にお礼の電話したら、やっぱ攻撃気味だった。
言わなかった事相当腹立ててるなーって感じ。
息子には言いにくいけど、私にはずさーっときつい事言う。
まあ一般的によくある事なんだろうけど。
こうなる事が分かってるから言えなかったんだけどね

とはいえ、姑さんなりに心配してくれてるから
ありがたいなって思う。
すっきりみんなが幸せになれるように私も頑張りたいな~



嫁のつぶやき (ついに姑に癌カミングアウト)

2007年05月19日 | 闘病記
姑さんに去年の7月に子宮頸がんとわかってから、実はずっと言えずにきた。

うちは神戸、旦那さんの実家は京都で2時間半くらいの距離。
毎年実家に帰りたがらない旦那さんをひきずり
何とか年三回は会うようにしてた。
でも病気になって私もそれどころではなく
旦那さんも帰る気がないので正月もそのまま電話で挨拶に。
「孫はもうできませんよ~」と早く言わねば。。。。
でもやっぱり攻撃されるのは嫁の私の方な気がしてなかなか言えない。

と日々悩んでいたら母の日にバック贈ったお礼に電話かかってきた。
私は友人と温泉だったので旦那さんと話し合ってお願いしておいた。
それで病気の事を伝えてもらったのだ。
明日はその姑さんがやってくる日
でも電話でちょっと心配してくれてる感じで
ほっとした。ひとつ荷が降りた感じだ

お茶

2007年05月17日 | 習い事 お茶など
今日は お茶の日**
先週は病院で行けなかったから久々で緊張した~
まだまだ盆略点前中で、ちょっと動くごとに
「それ違いますでしょ!!」とビシッと飛んでくる。
82歳の先生だけど鋭いわ~

小さい時からよく物落とすわ、転ぶわがさつな私。
指の先に力を入れて~と気をつけると最後に失敗したり
ちょっとでも無駄のないそそとした動作を身につけたいと始めたお茶。
三十路に突入寸前なのに身についてない事いっぱいだな~
癌になって仕事もやめる事になったけど
今まで時間がなくてできなかった事を少しずつできてるのはありがたいな。
旦那さんありがとう

子宮頸がんから転移?

2007年05月10日 | 闘病記
久々のブログ。
とりあえず2月末で4ヶ月にわたる抗がん剤治療がやっと終わった。
2月末で相談員の仕事も退職。
それから2ヶ月、つるつるだった頭もみっしりと芝生みたいに
黒い髪が生えてきた、わーい
それでもまだまだ坊主頭、カツラなしでは出られません。。。

ちょっと元気になってきたと思ったら、焦りや喜びが
一挙に押し寄せてきて動きまくっちゃった。
これからの生き方がまったく定まらないまま
簿記講座始めたり、お茶お花を習い始めたり。
それにケアマネの試験勉強も~とまたき~っとなってた。
それでちょっとダウンした。
それでやっぱ今は色々やめとこうって反省したりまたイライラしたり。

旦那さんも周りも「仕事はせずゆっくりしたら良いっていってるのに」
というありがたい環境。でも自分だけが今後が不安でパニックな感じ。
私だって心からのんびりしたりけど何でできないのかな

と言ってた矢先「CT検査結果に胸骨の間の影が大きくなってる」って・・・
またPETCTを撮ることになった。子宮癌から転移?私の場合、「神経内分泌系癌」といって症例も少ないけど
転移は免れないみたい、そして一旦転移すると何をしても助かっていないらしい。
やっと終わった抗がん剤も結局効果はなく、腫瘍マーカが上がってる。
私自身も何ともいえないしんどさが襲ったけど
旦那さんがもっとやばくて、またぴりぴりし始めた。
不安や心配でそうなるのは分かるけど、
入院中もそのぴりぴりに気を使って苦しかった。

せっかく二人でやっと楽しく暮らせると思ったのに
もうやめてほしい、家族が大変なんだから。
私自身もほんとに生き方を変えないといけないんだろうな、
旦那さんが薦める「免役学」の安保先生の本を読むようになった。
24日の検査結果までも免役上げて元気にやってくぞー