2006 砺波市美術館 至高の精神展2・18-3・12 neutral production

展覧会とリンクし、期間限定で開設するブログ。ニュートラルプロダクションがみなさまとインタラクティヴに創り上げていきます。

ライヴ1

2006-03-06 | Weblog
土日にかけ素晴らしいお天気に恵まれました。
イベントも3回目を迎え、ライヴパフォーマンス!
沢山の方に来ていただきました。

ゲストにはDJアライグマさん。今回は、今までのサンプリングソースに加え、リアルタイムで出した音をマイクで拾い、それも含めながらのコラージュという試みをされていました。そして、ニュープロとのノイズリズム、更に映像では、今回初めて導入されたソフトを駆使し、音の強弱などに反応し映像が変化するようプログラミングされたものを使用。
より、サウンドと映像が一体感を増したのではないでしょうか。

また日曜の来場者は会期中最高の130名ほどにのぼり、慌ただしい一日となりました。

本日(月)付け北日本新聞朝刊にて、滋賀県立近代美術館長高橋亨先生による展評が掲載されております。ありがとうございました。

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6 コメント

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お疲れ様です。 (T.Y)
2006-03-06 23:23:25
お疲れさまです。(ライブ&更新)

展覧会は第4コーナーを曲がった所でしょうか?

高橋先生の文章がラストスパートの起爆剤になればと思います。

最終日のライブも期待しております。

体調に気をつけましょう。
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怒涛。 (araigma)
2006-03-07 00:36:06
お疲れさまです。

いつも演奏後

ビデオを見ながら反省会を開くのですが(1人で)

ライブ。よかったです。

映像の反応も凄い。

観客として見てみたかったと思いました。



次回T.Yさんから爆音のリクエストが

ありましたので。

いきましょうか。





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いきましょう ()
2006-03-07 21:30:18
では。

いきましょう!

最後ですし。

音量も上げて!!
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「ライブの感想①」 (たかくわ)
2006-03-09 21:14:13
12日のライブ・パフォーマンスを楽しませていただきました。



今回のライブは、会場セッティングの完成度がとても高かったと思います。ライブを演奏・演出する人、体験する人、スクリーン、スピーカーは無駄なく配置され、それらが連動して効果的な場をつくっていたと思います。ニュープロのお二人が、いかに場数を踏んでいるのかを物語っていたと思いました。すごい!

終演後には、またしても私の思いつきの質問に、今度はDJアライグマさんも含めて、丁寧に答えてくださいました。楽しかったです。



私の興奮が少しおさまったこのごろ、「ノイズ」をキーワードに、また考えてしまいました。「ノイズ・ミュージック」という括りで、ちょろっと調べてみると、音楽のジャンルではいろいろと教養や議論が錯綜しているとことに驚きました。むつかしい・・ 

私はジャズやテクノ、電子音楽などのジャンルについて詳しいわけではありません。そこで今回のライブについて、音楽におけるノイズという視点から、なるべく一般論で素人なりに考えたいと思います。



まず補助線として、佐々木敦という批評家が示した整理に注目します。彼は音楽におけるノイズを以下の二つに分けて考えています。



 ①「外部」としてのノイズ

 ②「余剰」としてのノイズ



①の分類は例えば都市の騒音や、小鳥のさえずりなど、文化的に音楽以外の音として括られるものの集合をノイズとしています。②の分類は一般に音楽といわれる音からも生じるノイズです。例えば音楽の大きすぎる音、意識的/無意識的に関わらず表現者の弾き間違った音、あるいは誇張した演奏による逸脱した音などです。①/②の分類の内実からは、すなわちノイズとは非音楽、既成の音楽観から逃れ出る音という意味で定義されているわけです。



ところで今回のライブは、①の分類として考えれば、いまやポップスでさえ電子音を多用している情況なので、それほどノイジーともいえないかも知れません。しかし②の分類として考えれば、今回のライブはノイズとして、とても興味深いと思います。

今回のライブについて三人は、以下のように書いています。



■ニュープロさん曰く、

「今回は、今までのサンプリングソースに加え、リアルタイムで出した音をマイクで拾い、それも含めながらのコラージュという試みをされていました。」



■アライグマさん曰く、

「音と場を構築し破壊し、音を生み出す手段。音源は何を使うかとか、サンプリングするのか、ループするのかとか、瞬時の選択をし、編み上げていきます。

そして出している音、自分の耳で聞いているものを、リアルタイムで構成やミキシングをしているのです。」



ということでした。

ニュープロさんとアライグマさんは、お互いに異なる音楽ジャンル・趣向の音響構成と、音素材をライブでぶつけ合ったり、すり合わせたりするコミュニケーションをしていたといえそうです。例えばアライグマさんはDJと名乗っていますが、いわゆるDJのような正確な「頭出し」や「ルズム・キープ」といった種類の演奏をしていません(違った意味での正確さがあると思いますが)。したがって突然の変調や展開、切断/接続などが音響空間を錯綜とさせ、私たち体験者は現れては消える個々のルールに慣れた耳からすると「余剰」としかいいようのないノイズに、たびたび出くわすことになるわけです。

またライブ終盤で徐々に上げられたヴォリュームは、音楽的な構成というよりは、即物的に時間枠に沿った強制的な演出として、人を不安にさせるのに十分な「余剰」のノイズだったのかもしれません。例えばジェットコースターに強制的に乗せられた人が体験するスリルのように。



あのライブのスリリングな感じには、上述のような側面があったと思います。そもそも「ノイズ・ミュージック」とは、先ほどの意味で直訳すると「非音楽・音楽」という矛盾と否定性を含み持ったちょっと「ヤバい」感じの概念です。だから面白く、なにか既成のものにはない可能性を感じさせたりするのですが。





つづく
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「ライブの感想②」 (たかくわ)
2006-03-09 22:10:06


つづき



さらに再度、佐々木敦の整理を参考にしつつ、「ノイズ」にとらわれず、今回のライブを捉え直してみます。

佐々木は、80年代以降に登場したヒップホップやハウス(テクノ)を含めた「サンプリング・ミュージック」に注目しています。サンプラーを駆使してつくられるこれらの音楽は、「他者」の「音(楽)」の「引用―変形―編集」というプロセスによって、「自己」の音楽を作り上げ、以前ならばマイナーで同人的だった方法論を一般的にしたといわれています。それに伴って「音楽家としての聴取者」と「聴取者としての音楽家」が合わせ鏡のような感覚(態度)が現れたと佐々木は指摘し、それを「DJモード」と名づけます。すなわち「聞く/聞かれる」、「作者/聴取者」といった「自己/他者」の対立が融解した情況を指摘したわけです。お話は逸れますが、この見方は他の音楽ジャンル、漫画、アニメ、映画、美術など近代的なジャンルのすべてで似たようなことが言えると思われます(佐々木もそのことに自覚的です)。



「DJモード」の面白いところは、「作者/作品/聞く者」が未分化の情況を、技術を通して言い当てているところです。そして私は「DJモード」の観点が、今回のライブをコラボレーションとして見るためのきっかけになると思いました。

そこで今回のライブに置き換えて考えてみます。ライブでは、ニュープロさんとアライグマさんが、お互いに「他者・自己」の「音(楽)」を「引用―変形―編集」して自分の判断した音(楽)を提示するという行為を、同一の音響空間でやり合っていたといえます。しかし、ここで私はニュープロさんとアライグマさんが、お互いに「自己/他者」の対立を融解させたと極論したいのではありません。私がライブを体験した限りでは、むしろ両者がお互いの違いを違いとして楽しんでいるように聞こえました。



また「自己/他者」の問題は、見方のレベルで条件が変わるとも思います。例えば限りなくマクロの視点では、ニュープロさんとアライグマさんによる音(楽)のやり取りは、あらかじめ未確定な作品の全体像の中で、「自己/他者」が溶解している状態に見えます。しかし、ややミクロの視点では、個々のやり取りとして「他者に対する自己」、あるいは「自己に対する他者」の介入が見えてきます。そして当たり前のことですが、この「自己/他者」が区別された両者だからこそ、コラボレーションをして、両者のどちらともいえない演奏を期待する意義はあるともいえるわけです。

特にアライグマさんは「自己」として、「他者」を意識しているように見えます。アライグマさんは「ターンテーブルは今回のライブで、ほぼ使ってないけど、アンチ・テーゼとして置いておいた」と言っていました。興味深いですね。たぶんアライグマさんは、デジタルな空間にデジタルな音響が流れる中で、アナログなハード・ウェアを接続/切断することに象徴されるDJの立場から、ニュープロさんや、私たち体験者に、何かのサインを送ったのだと思います。つまりデジタルに対するアナログ(フィジカル)の介入として。



先の佐々木の議論に戻ると、ポイントは、「作者」に対するのが「鑑賞者」ではなく、「聴取者」になっているところです。「聴取者」とは、楽曲を総体としてではなく、あくまで断片的、局所的に把握する人です。ここで文脈が別れます。このライブでのニュープロさんやアライグマさんは、瞬間的に「聴取者」ですが、同時にプロセスの連続としての作品全体を聞く「鑑賞者」でもあると思います。したがって、このライブは佐々木の議論と情況が少し違います。アライグマさんは「その場、その場で反応しているけど、でたらめはやっていない」と言っていたし、「やる前はパーカッションから始まることが決まっていて、自分としてはライブ全体のイメージを、途中で変更したとしても、やはり持ち続けている」という意味のことを話されていたと思います。すなわち三人は、断片的・局所的な音にのみ反応しているのではなく、次に生じる作品全体の展開として自分の選択を、相手に、あるいは作品全体に送り返している節があるのです。



まとめると、このライブには、自己に対する他者に応え、その応えに対して他者から返ってきた応えに、再度応えるということを繰り返していく運動の連なりとしての側面があるわけです。けっして「自己/他者」が融解し切りません。したがって他者の操作・選択が、お互いに自己の予期の外部にあるという意味で、一瞬、一瞬のノイズであり、作品の全体はノイジーな未確定地帯としてスリリングになると思うのです。



ここまで言うと、必ずしも意味や決り文句におさまりきらない日常の「お喋り」にも可能性があるように思えます。日常の「お喋り」は、「正しいつなぎ間違え」の連続でもあるのです。

あるいは、このライブは、作曲家が「ああでもない、こうでもない」、「あれもある、これもある」と七転八倒しながら曲を産み出していく行為を、ライブで展開している感じかもしれないと思いました。





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無駄に長い迷文で、失礼しました。

このへんでやめておきます。

最終日のライブは「言葉攻め」「爆音」などで、もっと「ヤバい(!?)」ということです。

「行かなくては!」と思っております。
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訂正です。 (たかくわ)
2006-03-10 08:23:37
上記の感想は、3月5日のライブのものでした。

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