2006 砺波市美術館 至高の精神展2・18-3・12 neutral production

展覧会とリンクし、期間限定で開設するブログ。ニュートラルプロダクションがみなさまとインタラクティヴに創り上げていきます。

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4 コメント

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ご苦労様です。 (T.Y)
2006-02-21 00:03:48
更新ご苦労様です。

これからもお願い致します。
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感想です。 (たかくわ)
2006-02-23 16:16:51
18日に楽しませていただきました。



会場では、私の思いつきの質問に「ニュートラル・プロダクション」のお二人は、丁寧に答えてくださいました。ありがとうございました。楽しかったです。



鈍い私でしたが、お二人のお話を聞いた後では、作品が断然面白く感じられました。あの作品は、音と映像が振動(ノイズ)を通して密接に関連しているのですね・・ 

そしてパンフレットを見ながら、ユニット名にも入っていますが、ノイズに対する「ニュートラルって?」と考えてしまいました。



ここから先は、私の書くことが作品の誤読を多分に含むと思います。ご容赦ください。

先に書いたことを反対から見ると、過度の振動は音を雑音に向かわせ、また映像を乱すといえます。つまり音と映像をノイジーにします。

ところで考えてみると、音も映像も現象としては、ある一定の振動として元々あるわけです。そこで「すべての音と映像が振動に帰す」と短絡すると、作品の出来事がほとんど記述できなくなります。しかし実際の作品には、明らかにノイズとして感知される出来事があり、あるいはノイズから言葉・音・映像に移行する出来事がありました。では同じ振動である「音・映像」と「ノイズ」の違いは何かと改めて問わなくてはなりません。



私は、作品で使用されたアナログ的な物理現象としての振動に注目します。例えばスピーカーが振動して音を割れさせ、画面がブルブルと振動して映像にモアレを引き起こしていたことです。さらにはチューナーが電波を拾い切れなくなることで(?)、音が「ザー」となったり、映像がホワイト・ノイズとなっていました。これらの現象は、ラジオや太鼓、テレビなどを通じて私たちにも馴染みのあるノイズです。私たちは、たとえ今回の展示のようにデジタルで抽象的な空間の中でも、身体的な経験を切り離さずに感覚してしまうのではないでしょうか。したがって、この作品は抽象的な「デジタル音・語り・映像」よりも、アナログ的なノイズのほうが現実感を得ていたと思います。そして、このノイズの猥雑な、あるいは身体的な現実感が逆説的に「デジタル音・語り・映像」をニュートラルに感じさせているのではないかとも思います。反対に抽象的・概念的な「デジタル音・語り・映像」が基底にあるから、物理的・身体的なノイズが強く現実感を持ってしまうとも思います。

(お二人のキーワードである「陰/陽」「ある/ない」「0/1」という二項対立を「ニュートラル」という概念が相対化するのであるとしたら、「ノイズ」は二項の対立を止揚する概念ともいえると思います)



この作品で見られるノイズは、デジタルなソフト・ウェアよりアナログなハード・ウェアに強く関わっていました。したがって上述したノイズを通して、ハード・ウェアは隠されることなく、否応なく私たち体験者にそのあり方を仕組みまで感知されます。この「隠れなさ」がインタラクティヴな作品の条件かも知れないと思いました。なぜなら彫刻や絵画、テレビ、映画などは歴史的に体験のスタイルを、かなり固定されていますが、その分おおかたの作品がハード・ウェアを感知しなくても済むからです。例えば映画を見ながらフィルムやカメラのことを思い描ける人は、その道の通ぐらいでしょう。一方で今回の作品のように既存のメディアから距離をとった表現は、その独特な体験のスタイルに、まず体験者を巻き込まなくてはなりません。したがってハード・ウェアの機能も含めて「隠れなさ」が有用なのかもと思いました。



ところで、最近のCGを駆使したハリウッド映画が、DVDの「おまけ」で付いてくるメイキングを見た後のほうが楽しめたりすることを思い出しました。なぜなら、どこにどうやってCGが混じっているか分からないくらい作り込まれたニュートラルな映像より、CGの「タネ」が明かされた後に発見するゴツゴツしたノイズに満ちた映像が興味深かったりするからです。





以上、思いついた感想でした。

展覧会を見て、僕も何か作品がつくりたくなりました。

ライブ・パフォーマンスにも行きたいですね。

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ありがとうございます ()
2006-02-25 14:11:46
たかくわさん、たいへん充実したコメントどうもありがとうございます。

我々のつたない作品をみていろいろな所を感じてくださっているところ、このように作品を提示することの意義を改めて実感しています。

もちろん解釈は人それぞれであり、各人の判断に委ねているところでもあります。

又このブログを展覧会にあわせ開設したことも意義があり、嬉しく思っています。

読まれた方も追加コメントをいただき、作品についての座談会的ブログに発展すればさらにありがたいと思います。

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今年も味わいました。 (じょうむら)
2006-02-25 23:16:13
「色/空」味わいました。

意図して訪ねたわけではないのです。かえってそれが良かったと思います。

 部屋に入って、ヘッドホンを付け、私は時計の逆回りにゆっくりと歩き始めました。ノイズとともに映し出される幾何学的な文様の変化をただ眺めながら、歩みました。そのうちに般若心経の口語訳の音声が男声、女声微妙にもつれて重なり響き、また消えていきました。もう一周しました。

 そして私は、般若心経が聞こえる壁面に座り、文様の変化に揺られていました。そのうちに私はなんだか心経が煩わしくなり、ノイズしか聞こえない壁面に移動しました。

 薮氏が私の元に来られました。思わず知らず語るうちに2時間近くが過ぎていきました。

 私は四国遍路のことを話しました。私は当時三男が生まれ、煙草を止めるために遍路を始めたのです。軽いスタンプラリーの気分で始めた遍路は昨年結願しました。

 八十八ヶ寺で耳にした心経。「色即是空、空即是色」は俗物の私には、とうてい及ぶところではなく、まさに「至高の精神」です。その真言は膨大な釈迦の教えを極限まで蒸留した純水と言えます。私の耳には重かったんでしょうなあ。だから移動したのでしょう。

 ノイズとともに刻々と現れては移りゆく波動する文様。不思議と心地よい場に私はたゆたっていました。無常なる移ろいの中にも、無秩序でも放埒でもない律動を私は感じました。

 輪廻ということがあるものかないものかそれはわかりませんが、「色/空」にある律動は美しい。私は気づきませんでしたが、四面を見ると文様が順送りになるよう設定されている(薮氏談)。これは「生・老・病・死」あるいは「起・承・転・結」の連続でしょうか。

 帰り際になって、はじめ煩わしく、重く感じた心経も、抑制の利いた声調の繰り返しが作家の意図したものと改めて感じました。

 頂いたパンフレットも凝った方形で、なんだか四角の中に円のような連続性や揺らぎがあるようでおもしろいです。

 今後もユニットとしても個人としてもご活躍されることを祈っています。
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