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遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

石牟礼道子『椿の海の記』を読んで

2023-02-24 18:17:23 | 読んだ本
石牟礼道子『椿の海の記』         松山愼介
 石牟礼道子を語る時、引き合いに出されるのは渡辺京二であるが、本当に比較されるべきなのは谷川雁だろう。渡辺京二は『苦海浄土』を、石牟礼道子の心で「抱握」した言葉を、彼女の創作として地上に下ろしてしまった。
森元斎(もとなお)『国道3号線 抵抗の民衆史』(共和国)は久々に面白い本であった。国道3号線は門司から熊本を通って鹿児島に至る道路であるが、その道を辿っていくと民衆の抵抗の歴史が見えてくるという。西南戦争、水俣病、炭鉱労働者らによる闘争、米騒動などで、人物としては宮崎八郎、石牟礼道子、谷川雁などがあげられている。
 石牟礼道子と、谷川雁の妹・徳子は小学校1、2年で同級、谷川家へ遊びによく行った。
 谷川雁については、おそらく道子の父の言葉として「頭のよすぎる次男さまがどまぐれて、炭鉱の凶状持ち共と国家反逆を企てよらすげな。二・二六事件より大事ぞ」「よか家には、時にそういう狂気持ちが出る」と言われたりした。
 1956年ごろ、谷川雁から「ビキニ模様の天気にならないうちに、遊びにきませんか」という葉書がきて、チッソ付属病院で始めて会う。詩について話す。
 1958年谷川雁、中間市で「サークル村」創刊、道子も中間市の谷川雁を訪れる。
 1958年11月、チッソに勤めていた弟・一(はじめ)が事故死する。
 1959年、息子・道生が結核で水俣市立病院へ入院し、そこで隣に新設された奇病病棟を見る。もう一つは、石牟礼の家には多くの猫が住み着いていて、網を囓るネズミ対策の為に、湯堂や茂道の漁師集落に猫の子を届けていたが、その猫に異変が起こった(水俣病)。
 1959年5月、奇病病棟を見舞った。
 石牟礼道子、1959年共産党入党 洋裁をしていて親しかった女性の夫からの誘いであった。谷川雁が党員だと知っていたので、党とは谷川雁のような詩人の集まりと思っていたという。道子に言わせれば、雁さん(1960年7月除名)の思想と行動は、党の狭い官僚的な枠をはみ出していた。道子も2カ月遅れで離党する。社会主義圏の核実験を認められなかった。共産党はこの時期、社会主義圏の核実験を認めていた(大江健三郎も)。      
 1960年5月、道子のところに「テベントウ ブキジサンコラレタシ」という電報が大正炭鉱青行隊から届き、谷川雁とともに大正炭鉱へ向かう。筑豊炭田は崩壊寸前、多くの流れ者がいた、水俣病患者も流れていた。
 谷川雁は道子を、以下のように批判した。

〈水銀以前〉の水俣を、あなたは聖化しました。幼女の眼で、良心の声で、定住する勧進の足で。トラコーマ、結膜炎ほぼ百パーセントの浦浦、県下一のチブスの流行地、糞尿と悪臭の露地をそれらで荘厳するのもよいでしょう。もはやそれはあなたの骨髄にしみとおっている性癖で、私にはしょっちゅう狐のかんざしのごときものが見えてへきえきしますけれども、趣味の問題はいたしかたもない。それが〈水俣病〉の宣伝にある効果を与えたのも事実です。しかし患者を自然民と単純化し、負性のない精神を自動的にうみだす暮しが破壊されたとする、あなたの告発の論理には〈暗点〉がありはしませんか。小世界であればあるほど、そこに渦まく負性を消してしまえば錯誤が生じます。なぜなら負性の相剋こそ、水俣病をめぐって沸騰したローカルな批評精神の唯一の光源ですから。
〈怨〉の一字でチッソ株主総会を圧倒した演出はよかった。黒旗に〈怨〉は道子の発案。
水俣は移住民・流民の町です。あなたの親も私の親もそうです。それゆえ新しい民への差別がいちじるしい。(中略)「金を出して魚を買えない者がかかった」といわれた。金を出して買わないのは、買わなくても魚をくれるからであって、そんな生活体系にたいするうらやましさ、いらだたしさを含有しているのです。
 チッソ工場進出以前に、この一帯には田畑も定職もない農村遊民はいくらも存在していて、かれらが工場に吸いよせられるまで、この主なき浜辺はかれらの遊びとも仕事ともつかぬ行動圏だったのですから。かれらなくしてチッソの草創はあり得なかった。

 このように、水俣はチッソ工場に全面的に依存していた町であり、そのため水銀を含む、どす黒い排水の垂れ流しに不吉なものを感じていても、批判することができなかったのではないだろうか。水俣病以前の不知火海を、そこに住む自然民を美化し過ぎているという批判を不満として、道子は谷川雁に決闘状を書いている。水俣には農村遊民がいくらでもいて、彼らをチッソが吸収した。道子の弟もチッソに勤めていたし、谷川雁でさえチッソ病院で肺結核の治療としての胸郭形成手術を受けている。
『椿の海の記』の幼児の自分と現在の自分を往還する技法は見事だが、池澤夏樹の「解説」、「彼女自身が生まれつき奪われし者、疎外された者、人間界と異界の間に生きる者だったからだ」は、石牟礼道子に対する過大評価であり、その術中に嵌っているのではないだろうか。
「いんばいになる」とか「おいらん道中」という話も、事実か作り話か注意して読むべきだろう。
 石牟礼道子の父は石を切り出して道路を作る仕事に従事し、天草の出身である。吉本隆明も天草の出身で、祖父、父は船大工であった。吉本自身は母の胎内にいるときに、事業が失敗し逃げるように東京、月島へ来ている。天草というのはキリシタンの地であるが、多くのからゆきさんを出した土地でもある。
                                               2022年6月11日

井上ひさし『一週間』を読んで

2023-02-24 17:55:02 | 読んだ本
   井上ひさし『一週間』       松山愼介
小松修吉(井上ひさしの父と同名)は、昭和七年頃、新宿で古本屋を営みながら共産党の地下活動をしていた。彼はシベリアに抑留され、そこで酒井という男と知り合う。この酒井も「オヤジのモグラ(党の地下活動家)」で、酒井は新宿の中村屋に勤めていて、小松が住んでいるアパートの二階の部屋に、食パンの中に秘密指令をいれて放り投げる連絡員の役割を果たしていた。
 小松は昭和七年十二月に逮捕され、獄中で転向、昭和九年一月、内地では仕事がないため、満洲に渡る。この満洲行きは職探しだけではなく共産党壊滅の要因をなしたスパイM(飯塚盈延)の行方を追う目的もあった。満洲で職を転々とした後、昭和十五年、満映の地方巡回映写班員として北満州一帯を巡る。七月に黒河省で開拓青年義勇隊で編成される守備隊に加入させられ、ソ連が参戦し捕虜となり、シベリア送りになったのだった。
 井上ひさしは小松の口を借りて、日本軍の捕虜の扱いについて、ドイツ軍捕虜と比較しながら批判している。ドイツ軍の将校や下士官はハーグ陸戦協定、戦時国際法を周知していて、ソ連の無茶な労働責任量(ノルマ)の要求に対し抵抗し、食料も兵隊に平等に配布していた。それに対して、日本軍捕虜は将校、下士官は、秩序を保つという名目のもと旧指揮系統を温存し、食料も兵隊の分をピンハネしていた。
 この作品『一週間』は、シベリアでの捕虜の待遇、スパイM、レーニンの「社会主義の利益は諸民族の利益にまさる」という手紙の三点が中心テーマとなっている。
 スパイMについては、松本清張『昭和史発掘5』の『スパイ〝M〟の謀略』を参考にしていると思われる。スパイMは特高課長毛利基の手先になり、党の家屋資金局を牛耳っていた。当時の委員長・風間丈吉も党の全体を把握することはできず、資金についてはスパイMの言いなりであった。スパイMは活動資金を捻出するために第百銀行大森ギャング事件(昭和七年十月六日)を企図して資金三万円強奪させ、また熱海全国代表者会議に集まった十一名を逮捕させ、同時に東京で風間丈吉らも捕まり、共産党の組織はほぼ壊滅した。結局、スパイMについては、詳しいことは判明せず中途半端になっている。ただ、こういう人間がいたということを書きたかったのだろうか。
 昭和八年六月十日、共産党幹部、佐野、鍋山が転向声明をだしているが、これにはこの大森ギャング事件、昭和八年二月二十日の小林多喜二の拷問死も影響していると思われる、ちなみに佐野学は無期懲役の判決を受けていた。この二人の転向声明をきっかけに、共産党員の転向が相次いだ。後年、赤軍派もM作戦と称して銀行を襲っている。
 レーニンの「社会主義の利益は諸民族の利益にまさる」という手紙については、あまりよくわからない。赤軍関係者は、その手紙を必死に追っているが、真贋を証明するのはむずかしいだろう。ただ、新、旧左翼ともに、スターリン批判は当たり前になったが、レーニン批判は新左翼でも及び腰だった。共産党支持者と思われる井上ひさしが最後の作品でレーニン批判を持ち出したのには関係者は驚いたと思われる。
 マルクスは発展した資本主義国での社会主義革命を想定していた。発展途上国のロシアで革命が起こったのはいいが、非常な困難を伴った。ドイツとの不利な講和、白軍との内戦、アナーキスト、社会革命党の反乱、農民の抵抗が相次いだ。レーニンの社会主義を守るためには何でもやるという革命の変質は、やむを得ない点もあったと思われる。内戦の悲惨な状況は映画『ドクトル・ジバゴ』(パステルナーク原作)を見ればわかる。
 井上ひさしに加筆、訂正する時間があれば、中途半端に終わったスパイMの追及、社会主義国における民族問題について、うまくまとめられただろうか。わたしは、シベリア抑留者の生き様だけに焦点を絞った方が良かったと思う。
 シベリア抑留について、体験された山本憲太郎さんに話を聞いたことがある。それによると、送られた場所によって事情は異なったらしい。極寒の土地では悲惨だったらしいが、山本さんの話では、建物をきちんと建てられなかった最初の冬は苦労をしたが次の年はなんとかなったそうだ。
                                    2022年5月14日