岡山新報デジタル

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お昼御飯は吉野家の麦とろ牛皿御膳

2024-08-11 14:38:33 | 日記
昼ご飯は吉野家の麦とろ牛御膳を食べました🎵😆

対面に座っている、若い衆を見ていると、同じ食べ方をしていた。先ずとろろとオクラを御飯に掛け、醤油を掛けていた。
そしてとろろとオクラを掛けた御飯を、麦御飯の半分程で食べて、残った麦ご飯に牛皿を掛けた❗

皆さん考える事は同じなんだと、親近感を覚えた昼食でした😂








【岡山県の神社】

2024-08-11 12:59:26 | 日記
◇石門別神社 イワトワケジンジャ

当社は御野郡伊福郷の大安寺山に祀られており、延喜6年(906)正月に現在の場所へ遷座したと伝えられている。
 『備前国式内書考録』(明治初年)が記す様に、この神社は、はやく廃絶してその所在場所は久しく不明であったと思われる。そして江戸中期頃になって大供村の戸隠神社が式内石門別神社に比定されることになったようである。 例えば、元文4年(1739)に完成した『備陽国誌』には『戸隠宮 大供村。所祭 手力雄命。延喜式に御野郡石門別神社と云う当社ならんかと云へり』と見える。
 しかし、その後寛政年間に岡山藩士大澤惟貞によって編纂された『吉備温故秘録』では、式内石門別神社は大安寺村の項に記されてをり、また明治3年の『神社明細帳』でもこの神社は未だ『戸隱宮』と記されていることなどを考えると、江戸時代中期頃から式内石門別神社に比定されながらも明治初年まではなお決定的なものとはならなかった様子がうかがわれる。『特選神社名牒』にいくつかの説を並記しながら「大供村戸隠宮を備陽国誌の神明帳に御野郡石門神社とあるは当社ならんかとみえ貞享元年神社書上帳に戸隠宮とあり社司の記録に備前国御野郡大供村鎮座戸隠宮奉祭手力雄命也とあるもの證とするに足れり故今之に従う」としている。なおこの神社に神宮寺が置かれたことを『御國中神社略記』が記してをり(昭和13年『岡山市史』第5巻)、『吉備温故秘録』は廃寺の項に「日蓮宗安立山大福寺 大供村・本寺蓮昌寺」と記している。大福寺は岡山藩の寛文期の社寺整理の際に廃寺とされたもので、『撮要録』(文政6年)はこの時廃寺となった寺についての寶永4年(1707)の調査資料をあげている。それには「住持還俗改名清左衛門後有罪追放、寺株田地賜、清左衛門追放後賜磨屋町光珍寺、理斎大供村へ引越孫權六續之、本尊なし」とある。
 社領について『備前國式内書上録』(明治初年)は寛保年間の社伝(現在その行方は不明)に記された古老の申し伝へとして「當社往古封戸神田許多有之所ニ亂世之比度々減シ、浮田泉茘直家、同秀家之御代、天正文禄の比は社領纔25石残れり、是亦慶長之始召放れける由」と記すが、確認できない。江戸時代の地誌類、明治初年の諸資料にはこの神社の社領は記載されていない。
 『荘園資料』などによると、石門別神社の鎮座する大供付近は藤原氏の氏長者に属する殿下渡領となった鹿田荘の荘園に含まれていたと考えられている。(2
御祭神 天石門別命
御神徳 方除け, 道開き

鎮座地 〒700-0912 岡山市北区大供表町3-30




岡山デジタルニュース【今日は何の日】

2024-08-11 07:14:29 | 日記
山の日(8月11日 国民の祝日)
「国民の祝日」の一つ。2014年(平成26年)に制定され、2016年(平成28年)に施行された改正祝日法により新設された。

「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」ことを趣旨としている。

国民の祝日に「海の日」(7月第3月曜日)があるなら「山の日」も、ということで、日本山岳会をはじめとする全国「山の日」協議会加盟諸団体を中心に制定運動が起こった。お盆前の8月12日とする予定であったが、日航機墜落事故が起きたと日であるとして反対され、8月11日となった。8月11日という日付に特に意味はなく、山に関する特別な出来事などが由来ではない。